第36話 ためこんできた本音

 大きな窓から、黒に近い灰色に染まった空を見つめる。

 晴れていたら藍色の空なのに、今日はどんよりと重たい雲が立ち込めているせいで、暗く近く見える。

 こんな空を見ていると、自分の気分も沈んでくる。

 街に目を移してみる。ビルや住宅から漏れる光で、とても美しい風景が目に入った。

 今の気分に近いのは、真っ暗な空だ。

「響くんは、家に帰らないのかい?」

 おじさんが、俺にきいた。

 優と同じ髪色で穏やかな表情をした、俺に居場所を与えてくれた人だ。

「……帰って、楽しいことある?」

 称賛の声、過度な期待、尊敬の眼差し、嫉妬からくる陰口――現実を思い出しながら、おじさんに質問する。

「そうだな……。それは君にしか、わからないな」

 おじさんは苦笑した。

 学校帰りに制服のまま来た俺を、何も言わずに引き入れてくれた、優しい人だ。余計なことは、何一つ言わない。

「うん、だよね」

 わかっている。俺の人生なんだから、俺自身が楽しまなきゃいけないことくらい。俺が楽しむ気でいないと、楽しくないことくらい。

 それができないから、ここにいるんだけど。

「……話、聞いてくれる?」

「もちろん。話したいだけ話しなさい」

 おじさんは、いつだって優しい。優と同じだ。優しくて、温かくて……。

 話したことを後悔しないから、安心して心を開ける。

「『優等生』って言われるんだ。気がついたら、言われるようになってた。もともとは、母さんが喜んでくれるから、頑張ってただけなのに……いつの間にか、周りの信頼を裏切るのが怖くて、優等生を真似するようになって、今となっては、苦しくてしょうがない」

 昔から、苦手なことはあまりなかった。勉強も運動も、みんなができるようになりたいことは、普通レベルにはできた。

 でも、得意だったわけではない。

 テストで100点を取ったら、スポーツで活躍したら、母さんが笑って喜んでくれた。だから頑張るようになった。

 そうしたら、みんなは「すごいね」「さすがだね」って、俺に一目置いた。響ならできるって、信頼してくれた。嬉しかったよ。だから、もっと頑張ろうって、前向きに考えられたんだ。

 でも、ある日、一度だけ失敗してしまった。それを見ていた誰かが、キョトンと目を丸くしながら言った。

「えっ、できないの? 響くんなのに」

 ただ思ったことを言っただけだろう。

 けれど、その短い言葉は俺の胸に突き刺さった。

 俺に失敗は許されない。みんなが思い描く「理想」でいなきゃいけない。俺は優等生でいなきゃ――「不知火響」だと認めてもらえない。

 そんな意識が芽生えたのは、このときだ。

 今では、俺が優等生でなくなったって、みんなは受け入れてくれる。本当の俺を見せても、たぶん大丈夫。そう考えることができる。

 けど、俺がそう思いたいだけのことなのかもしれない。

 だから、優等生じゃない俺をみんなに見せることはできないし、本当の俺を明かすのが怖い。

「みんなが見ているのは、『優等生の響』で、俺の本当なんて、何も知らない。母さんも同じだ。『いい子な響』しか、見えてない。本当の俺が見えてない。見ようとしない。『いい子な響』が、本当の俺だと思い込んでるから」

 学校だけじゃない。家でも、俺は「理想」でいなければならない。

 母さんの「理想」は〝成績優秀ないい子〟だ。

 親に反抗しない。優しくて明るくて、自分の言う通りに動く。

 母さんが考える「響」は、俺じゃない。

 けど、それを母さんに直接言うことはできない。

 もう何年も、いつ失望されるかわからない恐ろしさに震えている。

「どこで間違えたのかな。間違えなかったら、こんなに苦しむことなかったのに。優みたいに、嘘偽りのない自分を見てくれる友だちができて、一緒にいると楽しくて、学校も毎日行きたいくらい楽しくなったはずなのに」

 おじさんは、うなずきながら聞いていた。何も言わずに、ただ聞いているだけ。言葉を発さず、表情すら変えずに、人形のようだ。

 今はそれが心地良い。

 変に優しい言葉を投げかけられるより、厳しい言葉をぶつけられるより、こうして話を聞いてもらえるだけのほうがいい。

「あーあ。いなくなりたいなぁ」

 つぶやいたあと、ハッとする。

「な、なーんて……こんなこと言っちゃ駄目かぁ」

 言いながら、作り笑いを浮かべた。

「いなくなりたい」なんて、さすがに叱られるし悲しませてしまう。

 何かしら言われることを覚悟したけど、しばらくしても、おじさんは黙って俺を見つめているだけだ。

 俺の次の言葉を待っている。

「……いなくならないよ。ごめんなさい、あんなこと言って」

 大切な人がいなくなる悲しみは知っている。

 残された人の苦しみだって知っている。

 勝手にいなくなって、母さんを傷つけたくはない。

 大切な人が亡くなって、トラウマを夢にまで見て震える優を見てきた。あれ以上、優を悲しませたくない。

 俺のせいで泣かせるなんて、なおさらだ。

「ねえ、おじさん。俺は、どうしたらいい?」

 俺がそう聞くと、おじさんは困った顔をした。

「それは君が決めないとね」

 ……そりゃあそうだよな。俺の人生だもの。


 ☆


 僕は、呼吸を荒らげながら夜道を走っていた。

 きっと響は、殺し屋組織にいる。

 ビルに到着すると、エレベーターへ向かった。待つ時間がもどかしくて、階段を駆け上がる。

 誰ともすれ違わない。僕の足音だけが響き渡っている。

 最上階、ボスの部屋。息を切らしながら、思い切りドアを開ける。

 目に入ったのは、制服姿の響と組織のボスだ。

「響!!」

「わ……優」

 響は僕を見て驚いた。いつも通りに見える様子に、イラッとする。

「お母さんが捜してたよ! どうして帰らないんだよ! お母さんに心配かけて、馬鹿じゃねーの!?」

 お母さんのこと、もっと大事にしなよ。

 せっかく、そばにいてくれるのに。毎日会えるのに。話せるのに。

 すごく心配していた。倒れそうなくらい、ふらついていたよ。今もきっと、響の帰りを待っているよ。

 そんなことも知らないで、こんなところにいちゃいけない。

「……ごめん」

 僕の勢いに、響はあっけにとられて、つぶやくように謝った。

「あんたも、なんで家に帰さないの!? そういうのいらないから!」

 僕の怒鳴り声に、ボスの表情は変わらない。

 ゆっくり口をひらいた。

「落ち着きなさい。お前が響くんを心配しているのは、よくわかった。だからといって、強い口調で責めるのは違うだろう」

 その冷静さに、僕の気持ちの荒波が消えていく。

 響に目を向けると、僕を見つめて震えていた。

「…………ごめん、響。言い過ぎた」

 急に怒鳴られたって、ビックリするだけだよね。

「っ……ゆ、優なんかに、俺の気持ちがわかるもんか……!」

 響は僕をにらんだ。

「もう嫌なんだよ! これ以上、今までの生活をしてると、『俺』がいなくなりそうで、すごく怖いんだ!」

 目をうるませながら、大声で言う。

 響がどれだけ追い詰められているのか、わかっているつもりだった。

 けど、本当はそんなことなかったのかもしれない。

「響はいなくならない。僕が覚えてる」

 優等生の響は、本当の響じゃない。

 みんなは優等生の響しか知らない。

 響が「自分がいなくなる」と思うのも、無理はない……と思う。

 優等生だって言われ続けていたら、いつしかそれが本当の自分とすり替わってしまう。

 けれど、僕が本当の響を知っている。

 ちゃんと覚えている。

 響が消えてしまいそうなときは、僕が止めるよ。

「……優が覚えてるからって、何か変わる? 母さんやクラスメイトは、前と変わらない。環境が変わらないんだ。意味ないだろ」

 響は首を横に振る。

「うん。変わらない。だから、響が変えていこうよ。少しずつでいい。ほんの少しずつ、本当の響を見せていこう」

「それが無理だって言ってるのに」

「そこ、決めつけちゃう? やってみなきゃわからないじゃん」

 わざと笑ってみせた。

 僕は、響じゃない。響の気持ちはわからない。

 だったら、共感してあげるよりも、無理矢理でいいから前に引っ張ろう。

「…………うん」

 響は驚いた顔をした後、少し考えて、小さくうなずいた。

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