第34話 僕の知らない場所で

「優、どうしよう。俺もう無理かもしれない」

 響は何かに怯えるように、小刻みに震える。

「大丈夫、僕がいるよ。何があったのか話してごらん」

 できるだけ、優しい言い方に聞こえるように気をつけた。

 響に何があったのか、見ただけではわからない。

 本人の口から聞かないと、励ましようもないよ。

 響は話してくれるかな……。

「……実は――」

 心配はいらなかったようで、響はゆっくりゆっくり話し始めた。


 ☆


 優が修学旅行でいない間、俺は普通の学校生活を過ごしていた。

 一昨日も昨日も、優がいないこと以外で特に変わったことはなかった。

 違うことといえば、登下校で優に会わないことと、2年の教室に行ってもガランとしていること。

 でも、今日は大きな失敗をしてしまった。

 朝から、いろいろな人から頼まれ事をされたんだ。

 朝練終わりの教室で話しかけてきたのは、良くも悪くも目立つタイプの、背の高い男子・阿部あべくんだった。

「なあ、不知火」

「何か用?」

 聞くと、阿部くんは両手をパチンと合わせて、拝むようなポーズをした。

「昨日の宿題、見せてくんね? やってねーんだ」

「えー、しょうがないな。いいよ」

 断って嫌われるのが怖かったから、うなずいた。

 ノートを貸すと「ありがとな! 後で返すわ!」と、持っていった。

 朝の会のあと、先生が俺に言った。

「プリントを職員室に持っていくから、手伝ってくれない?」

「はい。わかりました」

 先生からの評価を落としたくなかったから、うなずいた。

 プリントを持って、階段を降りる。

 職員室に到着して、先生の机にプリントを置く。 

「ありがとう、不知火」

「いいえ。失礼します」

 先生との会話も程々に職員室を退室して、階段へ向かう。

 教室は4階で職員室は1階だから、急いで上がらないと、1時間目に間に合わない。かといって、走ったら怒られる。

 できる限りのスピードで、階段を上がった。 

 ギリギリ間に合って、席につく。

 すると、阿部くんがやってきた。

「ノートありがとな。不知火のも提出しといたぜ」

「どういたしまして。ありがとう、助かるよ」

「おうよ!」

 お礼を言うと、阿部くんは満足そうに席に戻った。

 ようやく1人になって、ホっと息をつく。

 俺は「優等生」なんだから、こんなことくらい、余裕でこなさなきゃ。


 昼休み、クラスメイトのみならず、いろいろな人から頼み事を引き受けた。

 どうしても、断れなかったから。

 断ったら、嫌われるかもしれない。

 こんな簡単なことすら引き受けてくれない、最低なやつだと思われるかもしれない。

 それが怖くて、断る勇気が出なかったんだ。

 そのうち、自分の時間と余裕がなくなっていった。

『頼み事って、俺じゃなきゃ駄目?』

『自分でできない?』

『楽したいだけじゃない?』

 そう言いたいのを押し殺して、みんなのために動いた。

 だんだん、イライラして気分が悪くて、午後の授業には集中できなかった。

 そのまま放課後を迎えた。

 やっと解放される――と思ったのに、また声をかけられた。

「不知火くん」

 声の主は渡辺さんだった。

 この前、図書館まで本を運んだクラスメイト。

「あのね、手伝ってほしいことがあるの……」

 気まずそうに、ハッキリ言わないまま、口をモゴモゴする渡辺さんにイライラする。

「……何?」

 ハッキリ言って、という思いが、渡辺さんに伝わってしまったのかもしれない。

 渡辺さんは半歩後ずさって、いつもより大きな声で言った。

「本を運ぶの。この前みたいに、手伝ってくれたら嬉しいと思うの」

「ごめん。やりたくない」

「あ、あのね、量が多くて……。一人じゃ、持っていけそうにないの。前みたいに転んじゃうかもしれない」

「少しずつ持っていけばいい。重くないし転ばない。往復すれば、そのうち終わるだろ」

「そ、そうだよね……ごめんね」

 渡辺さんは、引き下がってくれた。

 悲しそうな表情をしていて、言い方がキツくなってしまったことを後悔した。

「おい不知火。他のみんなのお願いは聞いておいて、渡辺のは聞かないって、ひどくないか?」

 阿部くんの不満そうな言葉が聞こえる。

 クラス中に響く声の大きさだったから、教室に残っていたクラスメイトたちにも聞こえてしまった。

「え、不知火くん、さすがに……」

「渡辺さんが可哀そう。もしかして嫌いなの?」

 女子数人が、俺に厳しい目を向ける。

 阿部くんは渡辺さんに近寄ると、声をかけた。

「渡辺、俺が手伝おうか」

「あ、ありがとう……」

 渡辺さんは、阿部くんにお礼を言ったあとに俺を見る。

 それは一瞬のことで、渡辺さんは阿部くんと一緒に教室を出ていってしまった。

「阿部くんは優しいなぁ」

 1人の男子が、阿部くんの背中を見ながら言った。

 きっと、普通に出た感想だったんだと思う。「嬉しい」や「楽しい」と同じような。

 けれど俺は、ナイフで傷つけられるような痛みを感じた。

 そこにいることが苦しくて、荷物を掴むと教室から逃げ出した。


 ☆


 響は話しながら、右手の爪を左手の甲に立てていた。

 このまま放っておくと、きっと怪我してしまう。

 僕は響の手を取ると、両手で包みこんだ。

「そんなことがあったんだね」

 なんて声をかけたらいいだろう。

 励ます? そんな単純なことじゃない。

 唇を噛んでうつむく響は、今にも泣き出しそうだ。

 こんなに苦しんでいるのに、「頑張れ! 響なら大丈夫だよ」だなんて、絶対言えない。

 響を余計に苦しませてしまう。

「……キツかったな」

 最初に出たのは、その言葉だった。

「響はよく頑張ったよ。今日はきっと、苦しい気持ちが溢れちゃったんだ。もう無理しないでいい。ゆっくり休もう」

「…………優は、俺の居場所になってくれる?」

 一粒、涙をこぼした。

 それがキッカケか、ポロポロポロポロ、次々と涙がこぼれ落ちる。

 声を出さずに、しゃくりあげる。

「うん、うん。なるよ。僕が響の支えになれるなら、いくらでも」

 僕は何度も何度も、繰り返しうなずいた。

 せめて僕だけでも、響の本当の心を知っていよう。

 ううん、知っていなきゃいけない。

 響が、僕をこんなにも信じてくれているのだから。


 ☆


「……あの子にも、悩みがあるんだ」

 雫は、宮日さんと後輩の会話を盗み聞きしていた。

 どうしてこんなことになったのか。

 それは、学年集会のあと、宮日さんがハンカチを落としたのを見たので、届けてあげようと後をつけていたからだ。

 気まずい場面に遭遇してしまった。

 話しかける勇気がないからだ。

 もっと早くに宮日さんに声をかけていれば、2人の会話を聞くことはなかったかもしれない。

「……」

 ハンカチを渡せる空気ではない。

 ここは2人きりにしてあげなければ。

 雫に話を聞かれていた、と後輩が知れば、今度からは周囲を警戒して、宮日さんにさえ悩みを打ち明けられなくなってしまうかもしれない。

 雫は、そっとその場から離れる。

 後輩は耳が良すぎるので、少しでも音を立てると気づかれてしまう。

 ゆっくり、ゆっくり、そーっと……。

 靴箱とは反対方向にある正門に向かって、忍び足で歩く。

「ホッ……。気づかれなかった」

 そろそろ、帰らなきゃいけない。

 修学旅行から学校に帰ってきたのは、午後6時を過ぎてから。

 家では、ママが晩ご飯を作って、雫の帰りを待っているだろう。

 雫は、少し駆け足気味で家路をたどる。

「――あら? 夏絵手さん?」

 ドキッと心臓が跳ねた。

 左の道から聞こえた声に、聞き覚えがある。

 思わず足を止めて、恐る恐るその子を見た。

 ハーフアップの黒髪で、毛先がクルクル。

 優しそうなタレ目は、上品なイメージをより強くしている。

 伊集院いじゅういん撫子なでしこさん――前の学校の、クラスメイトだ。

「やっぱり、夏絵手さん! お久しぶりです。急に転校してしまったものだから、気になっていたの」

 伊集院さんを見た瞬間、正体がわからない強い不安に襲われる。

 心臓が大きく鼓動して、胸が苦しい。耳鳴りがする。

「そ、そう、ですか……。すみません、さようなら」

 荷物を持ち直すと、ダッシュでそこから逃げる。

 何か、嫌なことをされたわけではない。

 とても優しくて、責任感が強くて、教養の行き届いた良い子だと思う。

 雫は、アニメやドラマである〝いじめられたから転校した〟というわけではないから、「クラスメイトが怖い」みたいなことはない。

 伊集院さんだけじゃない。他のクラスメイトたちだって、話せば良い子ばかり。

 誰も、人をからかったり、いじめたり、傷つけたりしない。

 ただ、雫に環境が合わなかった。

 慣れることができなかった。

 学校に行くのが嫌で億劫で、苦しかった。

 家族や先生やクラスメイトに迷惑をかけ続ける自分が、嫌いになってしまった。

 ただ、それだけのこと。

 学校を変えたからって、雫自身は変わらない。

 周りに合わせるのが下手なんだ。

 これから先もずっと、きっと下手なままだ。

「ただいま……」

「おかえりー」

 家に帰ると、ママの声がした。

 パタパタと走る音も。

 リビングにつながるドアが開いて、ママが出てきた。

「雫、修学旅行、楽しかった?」

「……うん」

 うなずくと、ママは嬉しそうにほほ笑んでくれた。

「良かったね……!」

 ママがこんなに嬉しそうなのは――雫が、修学旅行に行くのを嫌がっていたから。

 宮日さんと修学旅行の話をしたときは、できるだけ楽しそうに見えるように話した。

 本当は、すごく嫌だった。

 転校したばかりで、たいして親しくもないクラスメイトたち。

 結果的に仲は深まったけれど、はじめから仲が良ければ、どんなにマシだったことか。

 ……それでも、修学旅行が楽しかったことは嘘じゃない。

 これから、学校も楽しくなるといいな……。

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