ジャンバラヤ構成式
三月
年の暮れ
「悪いんだけど、それ貸して貰える?」
と言われて差された指の先を追うと、ぼくの手元が終着点だった。
「これ?」今開けるとこだったんだけど、という言葉は呑み込んだ。
「そう、コクが出るの」
まだ冷たい缶を手渡すと、彼女は片手でプルタブを開けて地面に対して傾ける。浅い入射角ではあったが弾かれることはない、二者の関係は砲弾と装甲ではなく鍋とビール缶であったからだ(厳密には弾かれてはいるのだろう、物体がぶつかり合うときにはこの原則から逃れられそうもない)。そして案外すぐ缶を起こすと残りをぼくに返した。
「ありがとう」
ぼくはアイランドキッチン、そのキッチンと向こう側を区切るカウンターに肘を置く。なんだか手持ち無沙汰で、メモを留めていたクリップを分解するように弄りまわす。
「隠し味?」「まあ、そんなトコ」
「あんまり見た事ないけど」
驚くことに、彼女は口を尖らせて反論する。
「そ・れ・は、料理なんかしないからでしょ」
確かに。
換気扇の音と、水だか脂の弾ける音だけが部屋に響く。いつもならソファに座って待ちぼうけを食うのだが今回は調理を眺める
だが彼女はスマホを取り出す手を抑えてこう言った。
「ねえ、出前なんて嘘でしょ?」
「いいじゃん、クリスマスだし」
「何頼むの?」「フライド・チキンとケーキ」
彼女は肩を落とした、やれやれ。分かってないねと言わんばかりに。
「オッケー。わたしが作る」
だが彼女の自信ありげな態度には理由があったらしい。鍋の中を覗けば確かに、赤・緑・黄色、クリスマスの三原色が公現しているようだった。仕上げには目玉焼きも載せるらしいから、そうなれば雪を被ったクリスマス世界の
「これ、なんて料理」
「ジャンバラヤ。知ってるでしょ」「知らない」
「憶えてないの?」
ぼくは答えに戸惑った。目の前の刃物を持った人物の怒りを買うのは賢明ではないという判断からだったのだが、彼女の顔を思い返すと少し落ち込んでいたように思う。
「あとは置いておくだけ」
彼女は黒くて重い蓋で"クリスマス"を封じ込めると壁を見上げ、ぼくはビデオデッキの
彼女はリビングの方に来て―ぼくはと言えばとうとう立ちっぱなしに耐えきれなくてクッションの恩恵に与っていた―ぼくからクッションを一つ奪い取ると隣に座った。
またさっきの音が聞こえてくる。換気扇と鍋の中で煮込まれる音(きっと聞こえていないがさっき見た光景から逆算されて頭の中では音が生まれている、人間ってのは思ったよりぞんざいな生物だ)、加えてクーラーの稼働音の三重奏であった。
彼女はそれに飽き飽きしたのか、おもむろに口を開いた。
「あのさ、やっぱり…」
「何?」
彼女が聞きたがらないのは、ぼくに落ち度があるのだろう。ともかくそう考えるのが精神衛生上はずっと良い。
「前に作ってくれたっけ?」
「いや。でも一緒に食べたことはある」
「まあ似たようなモノを食べた覚えはあるよ」
なにせ要約すれば『混ぜご飯』であるから、いくらでも近似の料理が思い浮かぶのだった。
「責めてるんじゃなくてさ、わたし勘違いしてた」
驚いたことに、彼女は自責のあまり話し始めたらしい。あんまり深刻そうな様子を見てぼくは思い出してしまった。成程。確かに一時、ぼくはこの手の食べ物が嫌いだった。
◆
どうしてこの子はこんなに弱いんだろう?
ずっとそんな風に思っていた。すぐ泣くし、要領も悪ければ呑み込みも遅い。
どうしてこの子はこんなに強いんだろう?
ずっとそんな風に思っていた。どんなに打ちひしがれても、涙腺のもろい泣き虫だけれども必ず泣き止むのだった。いっそのことひどい引っ込み思案にでもなってしまえばいいのに、馬鹿みたいに同じことを繰り返して失敗する。まあきっと馬鹿ではあったんだろうけど。
彼女にぼくは気に入られていた、ひどい不運だ。
二歳しか違わないのも関係していたのだろうか?幼少の時分において二歳というのは、時に絶対的専制の根拠となり、ある時には全く無視される。火薬で大きい音を立てる玩具を振り回して友達と遊ぶときにはいつも彼女が居たし、ある時からは知らない大人と共に土足でぼくの生活に乗り込んできた。だが結局ぼくとあの子は他人であったし、それを突き詰める必要もない。何となく数年過ごして家から出ていけば何でもない思い出となる、その筈だった。
ある日、家からぼくより先に大人が出て行った。そう言えば彼女がやって来る前も同じ光景と出会った気がする。いつも残るのは小さいヤツらと、眼鏡をかけた大人だけだ。
そうして
幾つかの日、幾つかの週が過ぎて、残されたのが一軒家(幸いローンは殆ど返済されていた)と土地に預金の切れ端と分かった時、おそらくその事実とは関係なくなんだか完全にぼくは打ちひしがれた。出て行くつもりだった癖に家を売り払う勇気が無かったと言ってもいい。意気消沈したぼくは手足を伸ばすこと、肺を動かすこと、頭を回すこと、こんなこと意識的になんてやってなかった筈なのに一々これらに躓いて、間違いなく支障をきたした。
あの子はその点では強靭で(きっと大人になっていたんだろう)、ぼくが全身から発する負のエネルギーをしなやかに受け流してくれた。だがそんな彼女でも一度泣いた事もある。
あの日も確かクリスマスだった、赤を基調とした混ぜご飯とサラダ、それにコロネーション・チキンが添えられた豪華な食卓を前に、ぼくは突然癇癪を起こした。ああ、思い出すのに胸がムカムカする、きっと必死に思い出そうとして酸欠になっている
だけど、その後どうやってその場を収めたのか、そこだけがずっと思い出せない。
◆
タイマーの甲高い電子音がクリスマス世界の竣工を高らかに知らせて、重く冷たい連想と会話を終わらせた。ぼくたちが数分間のうちに交わした言葉は時間比としては少なく、費用対効果としては最低。それは彼女への返答を躊躇っているからだとは分かっていても、先延ばしという不義理だと認める訳にはいかなかった。
彼女は立ち上がって、そしてクッションをぼくにではなく誰もいない隣に置いて、キッチンの方へ向かう。ぼくは黙って二つのクッションを布地の縫い目に揃えて並べ、二人に問題がない事を確認する。続いて定まらない目線は二つある時計に滑っていき、最後にカーテンの締まった窓に到着した。窓に近寄り、分厚い遮光のソレをレールで滑らせると、庭はバルコニーまで白く染まっているのが見える。今の気分を吹き消すようなもっと面白いものが見られたら、例えば温かい泉が湧いているとか。振り返ると食卓は整えられ、皿が人数分出ている。
ぼくが彼女の女友達だったら、きっと了解した筈だ。只の友達でも、もしくは恋人でも、もっと疎遠だとしても首を縦に振った筈だった(きっとぼくは浮気者に違いない)。
それでは妹なら?
ぼくらは席に着いた。鍋が中央に据えられ、あの子はそれぞれの皿に取り分ける。そして豪華に盛られた皿を上から見たことで―体の構造的に当然だが―たったひとつだけ思い出した。
それは泣いていた彼女の顔であり、ぼくと一緒にバラバラに散らばった米と具を拾い上げた後にも、あの子はまだ泣き腫らしていた。鼻の頭から頬に掛けては赤く色づき、勿論肌も赤味がかっていたが冬の乾燥のせいか少し白っぽく、そして泣き腫らした目の下は落ち込んだ所に線が引かれたように黒く、又は青かった。
きっとぼくは、それを美しいと思ったに違いない。
ジャンバラヤ構成式 三月 @sanngatu
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