鼠に関する話を深夜のコーヒーショップで

ちくわノート

1

 僕は長いこと、そのコーヒーショップの店内に流れるBGMに耳を傾けていた。ささやかに主張することなく、しかし確実にそのスローテンポのジャズは自身の役割を果たしていた。やがて軽快なサックスのソロにしっとりとしたピアノが差し込まれた。僕はソロを吹いていたサックス奏者の顔を想像した。そしてピアニストの洗練された指の動きを想像した。彼らはパリにいるペルシャ猫のように優雅に、そして調和をかろうじて保ちながら気ままに演奏をしていた。僕の頭の中ではサックスを吹いていたのはカート・コバーンだった。カート・コバーンがサックスを吹けたのかどうかは分からないけれど――たぶん、吹けなかったんじゃないかと思う――とにかく、サックスを吹いていたのはカート・コバーンだった。ピアニストはジョージ・クルーニーだ。カート・コバーンとジョージ・クルーニーはお互いに目を合わせ、彼らにしかわからない言語で、彼らにしかわからない会話をしながら色彩豊かな音を楽しんでいた。形式的に僕の前に置かれていたホットコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。

 店内には汚い身なりの中年の男と、人目をはばからない若いカップルが一組、話のネタが全く尽きることのなさそうな――あるいは繰り返し繰り返し同じ話をしているのかもしれない――三人の中年女性たち、それから、人生で残すところは自分の死に場所を探すだけだというような老人が一人いるだけだった。

 冷水の入ったピッチャーを持った栗色の髪の女性店員が僕が座っている席の横を通りかかった。

 僕は彼女に「この曲はなんだったかな」と訊いた。実際に僕が知りたかったのは誰が、どこで、いつ演奏されたものなのか、といったことだったが、それを彼女に訊いてもわからないだろうという確信があった。店員は一瞬、きょとんというような表情を見せたあとで、少し困ったように形のいい眉を八の字に寄せて、「ごめんなさい。私、詳しくなくて」と言った。

 その「て」の語尾の処理がとても耳心地がよかった。彼女の台詞や所作は全て徹底した気配りをされていた。きっと彼女はいい人だと思った。首にほくろが二つあった。そのほくろこそが彼女が持つ謙虚さなのだろう。

「いや、いいんだ。ただいい演奏だと思ったんだ」

 彼女は僕の言葉に頷いたあとで、BGMに耳を傾けた。初めてそこに音楽があるのを発見したみたいに。

「確かに。このリズムがいいですね」

「リズム?」僕は言った。そしてすっかり冷めてしまったコーヒーを一口含んだ。ピアノの弦から音の粒が軽やかに跳ねている様子を僕は耳で感じとった。「たしかに印象深いシンコペーションだ」

 若いカップルに呼ばれ、彼女は僕に軽く頭を下げてから、彼らのテーブルに向かった。

 僕は彼女の背中を見送ったあとで、それからまた長いことBGMに聴き入った。それはジュラ紀から十九世紀に遷移するくらいの時間だった。あるいは彼女の買い物に付き合っているときに、彼女の荷物を持ちながら店の前で待っている時くらい。彼女は僕のことなんて忘れて、店員と楽しげに談笑している。それは退屈ともまた違っていて、時間の流れ方が他とほんの少しだけ違っていた。その間、僕の思考はくるくると軽快に活動することもあれば、何年も整備をしていない錆だらけの機械のようにとてもぎこちなく動く時もあった。そしてその時はいつもキィーと金属が擦れ合う嫌な音と酸化した機械油の匂いがした。しかしいずれにしても僕が考えていたのはくだらないことだった。くだらないことを考えることこそがその時間を過ごす最良な方法だった。たぶん。


 Kが来たのは随分遅い時間だった。(彼の名前をここに記せないことを理解してほしい。彼の名前は秘匿すべきものだった。なぜなら、彼の名前の公表は彼のみならず、彼の周りにいる人間や彼とは殆ど関わったことがない人まで影響を及ぼす恐れがあったからだ。つまり、彼は知名度があった。社会的に大きく影響を及ぼす地位に彼は若くして立っていた。彼の名前をイニシャルにせずに仮の名前を付けることもできたが、その仮の名前を彼に与えた時点で彼は現実とは乖離した全くの別の生き物に変容してしまった。その生き物はKや僕の支配下には収まらず、文字を食いつくし、紙を引き裂いて思うままに暴れ回った。だから僕は彼のことをKと記すしかなかった)

 Kが来た時には辺りはとっくに暗くなっていたし、窓を見るとそろそろと雪が降り始めていた。僕は今朝見た天気予報を思い出そうとした。しかしどうしてもうまくいかなかった。思い出せたのはその後にやっていた今日の運勢のコーナーだけだった。しし座のあなたは七位。ラッキーカラーはグリーン。グリーン? グリーンなんてどこにも無かった。家には深緑色のニットの帽子があったが、それを僕が被ると酷く間抜けに見えた(一体、僕はいつそんな吐き気を催すような帽子を買ったのだろう?)。僕はラッキーカラーよりも無難な服装を優先した。僕の頭が正常に働いていた印だ。

 彼は遅れたことに対して謝罪はしなかった。「やあ」も「こんばんは」も「本日は足元の悪い中云々」も言わなかった。彼ははっとするような鮮やかな赤のマフラーを首から外し、ベージュのトレンチコートを脱いで、それらを几帳面に畳んでから隣の椅子に置いた。彼は僕の真向かいに座った。

 Kは黒のカシミヤセーターにインディゴのジーンズというシンプルな装いだった。それは彼にとてもよく似合っていたし、何しろこの場にふさわしかった。僕らの会談の場に。きっとこの店にドレスコードがあったなら、今の彼の服装だっただろう。

 彼の髪の毛にはうっすらと雪が乗っていたが、すぐに店内の暖房に溶かされ、細かな水滴に変わった。

 彼は店員を呼び、ミルクを注文した。それまで僕らは口をきかなかった。

 一分と待たずに彼の注文したミルクがきた。ミルクを持ってきたのは例の女性店員だった。僕は彼女の首元のほくろに目を見やった。彼女のほくろは依然としてそこに密やかに存在し続けていた。

 彼はそのミルクを飲まずにしばらく眺めた。そのミルクの白さに一種の不可解さを見出しているようだった。一体なんでミルクがこんなにも白いんだろう?

 それから息を細く吐いて、慎重に一口飲んだ。丁寧にマグカップをテーブルの上に戻し(その時、音は一切立てなかった)、自身の服装を点検して、次にテーブルの上に汚れがないかを確認していった。あるいはそうしているように僕には見えた。

 そして、全てが正しい状態であることを確信すると、彼はようやく口を開いた。

 誰からも知られずに深海に住んでいる貝のような声だ。静かなのに妙に質感がある。彼の視線は再びテーブル上のミルクに落ちていた。

「鼠が見つかった。住処が見つかるのも時間の問題だろう」

「なんで見つかったんだろう」

 彼は力なく首を横に振った。

「とにかく、証拠を潰して身を隠すしかない」

「どこへ?」

「どこでも」

「北海道がいいな。牧場で働きたいと昔から思ってたんだ」

「いいな、それ」

 彼は感情を込めずにそう言って、窓に目を向けた。雪の降り具合を気にしているようだった。それからズボンのポケットからくしゃくしゃの一万円札を取り出し、テーブルに置いた。全部で三枚あった。

「残っていた鼠は全部処分した。これが最後だ」

 僕は一枚を手に取って眺めてみる。我ながらいい出来だ。本物の一万円札と見比べてみても(少なくとも肉眼では)少しの差異も見つけられない。完璧な偽札だ。それでもいつかはバレるとは思っていた。しかしこんなにも早いとは思わなかった。きっと僕らが見逃した致命的な欠陥があったのだろう。

「どうする」

「どうするって?」

 僕は手元の鼠の皺を延ばしながら訊いた。

「そいつを捨ててもいいし、本物に替えてもいい。今ならまだ替えられるはずだ。あるいはお守り代わりに持っていてもいい」

「お守りだとして、きっと守ってくれるのは疫病神だろうな」僕は言った。

 彼は顔を変に歪ませた。きっと笑おうとしたのだろう。

 僕は子どもの頃に見た、不出来な木彫りの人形を思い出した。僕の母の弟、つまりは叔父が趣味で作っていたものだった。その人形は笑っているのだけれど、そこに感情が見いだせなかった。だからなのか子どもの頃からその人形が苦手だった。叔父とはいつの間にか連絡をとることはなくなっていた。母と叔父が喧嘩をしたのかもしれないし、単にお互いが忙しくなって連絡をする暇が無いのかもしれない。あるいは僕の叔父はとっくに死んでいるのかもしれなかった。僕の知らないところで。でも、もしも叔父が生きていたら、今も人形を掘り続けていてほしいと思った。なんとなく、それが正しいことのような気がした。

「なんでこの三枚だけを残したんだ?」僕は訊いた。

「残そうと思って残したわけじゃない。全て処分したあとでそいつが残っていることに気づいた。そいつも処分しようとしたが、この鼠は君と俺二人で作り上げたものだ。勝手に全て捨てるのは正しくないと思った」

「正しくない?」

「道理的にも道徳的にも」

「道理的にも道徳的にも」僕はオウムのようにその言葉を繰り返した。道理的にも道徳的にも正しくない。

「今出回っているのは?」僕は訊いた。

「十四匹。煙草屋の爺さん、床屋、自動販売機、ハンバーガーのキッチンカー、映画館、個人でやっているカフェにそれぞれ一匹ずつ。家電量販店で三匹、時計店で五匹」

「見つかったのは時計店かな」

「そうかもしれない。逃がし方を間違えたんだと思う。でもそれは考えても仕方の無いことだ」

 雪の勢いは徐々に増していた。雪の白が、夜の闇を和らげていた。

 黒のセダンが店の駐車場に入ってくるのが見えた。

「北海道だともう少し雪が降るかな」僕は言った。

 彼は少し怪訝な表情を見せてから、すぐに表情を戻して「そうかもしれない」と言った。

「君はどうする? 一緒に来るか?」

「いや、俺は――」そう言いかけて、彼は一度口を閉じた。それから顎に右手をやり、考え込む素振りを見せた。「いいね。それも」

 

 セダンはライトをつけたまま、停車し、人が降りてくる気配はなかった。もちろん、店内にも新たな客は来ていない。店内は今、汚い身なりの中年の男と僕らしかいなかった。中年の男はコーヒーカップの前で項垂れて、時々寝言のような意味不明な音を発していた。それはほとんど寝ているように見えた。彼はきっと部分的に死んでいるのだ。哲学的ゾンビ。僕は思った。

 

 僕は偽札を一枚持ち上げた。

「君はこれを持っておかなくていいのかい?」

「それは君のものだ。君なくして、ここまで完成度の高い鼠は生まれなかった。まあ残念ながら、その命はとても短いものだったけれど」

「鼠の寿命は短いものさ。人間に比べれば遥かに」

 僕はKの顔を見た。少し痩せたように見えた。

 僕とKは良きパートナーだった。大学二年の時から今まで、彼は僕に尽くしてくれたし、僕も彼に尽くした。僕らは決して親友というわけじゃなかったけれど、しかし相性はよかった。そして僕と彼の関係は少し特殊なものだった。仲がいいというわけじゃない。僕は彼のことをほとんど知らなかったし、彼も僕のことをほとんど知らなかっただろう。しかし僕らの関係はどこか特殊性が含まれていた。偽札作りに手を貸そうと思ったのも、そんな僕と彼の関係性からだった。

 僕らが偽札を作り始めたのは大学二年の九月だった。そのとき夏はまだ終わっていなくて、外はまるでオーブンの中に入れられたみたいに暑かった。大学のキャンパスでKが偽札作りに僕を誘ったとき、僕はすぐに頷いた。逡巡すらしていない。そのときはまだKとほとんど話したこともなかったのに。

 理屈じゃないんだ。そういうのは。僕は後からその時のことをそう考えるようになった。

 偽札作りで大事なことはクオリティとコストだ。とKは言った。クオリティは言わずもがな、偽の一万円札を作るのに二万円も三万円もかかっていたのではまるで意味がない。本物の一万円札の製造原価は十九円だが、僕らがはじめに作った偽札にかかったコストは六万二千円だった。時間だって気の遠くなるくらいかかった。僕はクオリティを高め、大量に偽札を刷れる印刷機を作った。Kはコストを削減し、資材を調達した。やがて僕らは二人で印刷会社を立ち上げ、フリーペーパーを刷る傍らでひたすら偽札を研究した。何枚も何枚も出来損ないの鼠が生まれた。それはもう何年も昔のことのように思えた。

 

 僕はもう一度、外のセダンに目を向けた。車内は見えない。けれど、息を潜めて僕らの様子を伺っている。獲物を前にした非情な猫のように。

 僕はもうノックの音を無視することは出来なかった。僕は彼に訊くべきだった。それは幾許かの勇気を要した。

?」

 Kは僕に目を向ける。とても冷たい目だった。

「誰に?」Kはそう聞き返した。ここから先は後戻りできませんが、それでもよろしいですか、という丁寧で回りくどい分厚い契約書の注意書きのように聞こえた。しかし、結局のところ、僕はその契約書にサインするしかなかった。ほかの選択肢はいつの間にか、僕の気づかないところで消滅してしまっていた。僕はもう後戻りはできない。

 それから彼も窓の外に目を向けた。人差し指でトントントンとテーブルを叩いていた。昔からの彼の癖のようなものだった。

「鼠なんだから鼠取りに決まっているじゃないか」

 BPM120くらい。彼の人差し指のテンポはだいたいそれくらいだった。もう少しリズムに変化を加えるべきだと思った。あのジャズピアノの美しいシンコペーションみたいに。

「鼠取り」僕は繰り返した。

 チーズを取るとバネが解放され、鼠を挟むあの残酷な器具を想像した。僕らはチーズを手に取っている。既に。

「その鼠取りというのは」そこで僕は一度、言葉を区切った。席の近くに人がいないことを確認したかった。しかし確認するまでもなく、僕らの傍には誰もいなかった。それから僕は続けた。「警察ではないんだろうね?」

 警察であればよかったんだけど。さらにそう続けようとして、やめた。それは余分で、話し過ぎていた。警察であれば、捕まっても何年かつまらない刑務作業をするだけで済んだんだけど。

 彼は頷きもせず、否定もせず、じっと窓を見ていた。外を見ているというよりは窓ガラスに反射した自分を、もっと言えば自分の中にある何かを見ていた。

「鼠が見つかったという情報を君はどこで手に入れたんだろう。もしも鼠取りが警察なら、君はその情報を得ると同時に取調室に入れられているはずだ。警察が偽札を発見して、犯人の目星もつけないまま偽札がありました。気をつけてください。と大々的に注意喚起するとは思えない。もしそうなら僕らに逃げてくださいと言っているようなもんじゃないか。それは僕よりも君の方が詳しいだろう? そしてもしも見つけたのが警察ではないとすると、鼠取りは裏の連中だろうか。いわゆる反社会の人間たち。もしそうだとすると僕は今の状況に納得できる」

 僕は彼の指の動きを見ていた。規則正しく、一定のリズムを刻んでいる。

「君は一度、裏の連中に捕まったんじゃないだろうか。そこで拷問かなにかをされた。裏の連中には君を殺すという選択肢はなかっただろう。彼らの目的は偽札作りの源泉を手に入れることだ。君を取り込み、それから僕も手に入れようとしている。あの偽札作りは僕と君がいないと完成しないからね。君は裏の連中に脅されて、僕を捕らえるつもりではないだろうか」

 Kは窓に目を向けたままだった。僕は店内が妙に静かなことに気がついた。BGMがいつの間にか消えていた。店内も冷えてきたように感じた。どうやら音と気温は比例するみたいだ。僕は首にほくろのある女性店員にBGMをつけてほしいと頼みたかったが、彼女の姿は見えなかった。

「たとえば、今外に停車しているセダン。あのセダンの中に君を捕らえた裏の連中が潜んでいる。そして僕が外に出ると、きっと黒服の男たちが待ち構えていて、僕を捕らえるんだ。君はその様子を少し悲しげに、しかし仕方がないことだとでもいうように眺める。もしかすると、そういうことがありえるんじゃないか」

 コーヒーを飲もうとしたが、既にカップは空だった。僕は行き場を失った指を擦り合わせた。

「違うなら違うと言ってくれ。僕は君も知っての通り、思い込みが強いところがある。つまり、小さな可能性を膨らませて、それを現実だと錯覚してしまうんだ。それはほとんど妄想みたいなものだ。でも、君が否定してくれたら僕は今僕の頭を覆い尽くしているその妄想を取り払うことが出来る」僕は言った。

 Kは僕の言葉について考えているようだった。そのままKはたっぷり三十秒考え続けていた。そして次にKが口を開いた時、彼の唇は若干震えていた。

「俺たちは扉を叩きすぎたんだ。その奥に何が潜んでいるかも考えずに」

 彼は熱に浮かされたようにそう呟き、目を瞑った。とても小さな声を聴きとろうとしているみたいだった。それから彼は言った。今度は平常の声に戻っていた。

「君はこの俺が裏切っていると言いたいわけだ」

 人差し指の執拗なノックは止んでいた。彼の表情からは感情が読み取れなかったけれど、しかし彼の中で何かが渦巻いているのがわかった。

「君がそうやって疑心暗鬼に陥るのは仕方の無いことだ。俺たちは今、異常な立場に置かれている。――置かれている? いや、違うな。自らそのように追い込んだんだ。まあそれはどうでもいいことだ。俺たちは遅かれ早かれそのような状況に陥るのはわかっていた。別に利益を求めたわけじゃない。単に俺たちには鼠を作る才能があって、それを使っただけだ。そうだろ? 悪意なんてそこには存在しなかった。走る才能がある人が陸上選手を志すように、あるいは何手も先を見据える力がある人が将棋棋士を目指すように、俺たちが鼠を作るのも自然のことだった。けれど、鼠を作り続ける以上、いつかこうなることはわかっていたし、俺たちは覚悟をしておく必要があった」

 彼はとても静かに息を吐いた。

「俺たちは解散した方がいいだろう。勘違いしてほしくないが、なにも君が俺を疑ったからというわけじゃない。ここで解散すべきなんだ。きっとそう決まっていた。陳腐な表現だけど、運命的に。君は鼠が見つかったという情報の源を気にしていたようだが、大したことじゃない。警察にも俺は繋がりがあったんだ。細い繋がりだけれど、確かなものだ。そこからその情報を聞いた。それだけだ。君が疑ったことは何一つ起こっちゃいない」

 そこまで言って、彼は立ち上がり、トレンチコートを羽織って首に真っ赤なマフラーを巻いた。そしてテーブルに本物の一万円札を一枚置いた。

「達者で」

 八年の付き合いだった別れの台詞はそれだけだった。テーブルにはKの飲みかけのミルクが残してあった。それは彼の温度のない抜け殻だった。黒のセダンはいつの間にかいなくなっていた。

 女性店員を見かけて、僕はBGMをつけてくれないかと言った。店員は頷いて、厨房の方に引っ込んでいった。

 頭が微かに痛んだ。

 彼に警察との繋がりがあるなんて聞いたことがなかった。

 BGMが再び流れ始める。

 彼は脅されたんじゃなく、自ら裏の連中に偽札の情報を売り渡したんじゃないだろうか。そういう疑念が唐突に湧いた。そして彼らから優位を取ろうとして失敗した。僕の存在は彼の善意で隠されたまま。彼はけじめをつける前に、最後に友人に別れの挨拶だけさせてくれと頼み込む。彼らは了承する。黒のセダンはやはり裏の連中のもので、セダンは彼を連れて闇に消えていったんじゃないか。

 そこまで考えて僕は首を振る。やはりそれは妄想の域を出ない。面白くもない冗談みたいだった。確実なのはもう僕が彼と会うことはないだろうということだ。

 僕はもう一度BGMに耳を傾けてみたが、それはもう心を惹かれるものではなくなっていた。

 店員に会計を頼んだ。支払いは彼の残していった本物の一万円札で払った。

 それから僕は女性店員に鼠を三枚手渡した。女性店員は困惑していたが、無理にその手に握らせた。

「チップだと思ってくれ。もしもその金が気味悪いと思ったなら捨ててくれてもいいし、好きなものを買ってもいい。お守り代わりに持っておくのもいい」僕は言った。守ってくれるのが疫病神かもしれないけれど、と言い添えようとしたが、それはやめておいた。

 そして彼女が何かを言う前に店を出た。外は冷えた。雪はまだ降り続いていた。

 僕はKのことを考え、鼠のことを考え、それから首元に謙虚なほくろを飾った女性店員について考えた。それから店内に最後まで残っていた汚らしい中年の男や黒いセダン、Kの飲み残したミルク、店内に流れていたBGMについても考えた。しかし、いずれも明確な答えを与えてくれなかった。そもそも答えなんてどこにもないような気がした。

「鼠は放たれた」

 僕はそう口に出してみた。

 あの店員が、渡した鼠をどうするかは想像がつかなかったけれど、少なくとも僕の手元からは離れた。あの鼠はどこに行くんだろう? 僕は猫が鼠を追いかける様子を想像した。それは随分とコミカルで今の僕の状況とはかけ離れていた。強烈なアイロニー。

 喪失感のようなものが僕の心に滲んでいた。それはKという長年のパートナーを失ったからなのか、少なくない熱量を注いでいた偽札作りという僕らの生きる手段を奪われてしまったからなのか、それとも三匹の鼠を手元から逃がしてしまったからなのか、僕には判断がつかなかった。しかし、いつまでもその喪失感に足を取られているわけにはいかなかった。事実を並べて、実際的な物事について考えなくてはいけない。Kも言っていた。僕らは異常な立場に置かれている。

 鼠は放たれた。

 身を隠すべきだ。鼠取りが警察でも裏の連中でも、僕がやるべきことは一つだけだった。

 どこに行けばいいのかわからない。十分後の僕は一体どこにいるだろう。それさえも予測がつかなかった。鼠と一緒だ、と思った。きっとドブネズミのように人目を避けて泥水を啜り、逞しく生きていくしかないのだ。選択肢はいつの間にか消えてしまっている。いや、自分自身で切り落としてきた。それに気づかないふりをしていた。

 鼠は放たれた。

 歩くべきだ。行き先が決まっていなくても今はただ歩かなくてはいけない。ここに留まっていてはいけない。僕らは人よりも偽札作りが上手かっただけなんだ。それだけなんだ。でもこうなることは決まっていた。運命的に。

 僕は白い息を全て吐ききって、マフラーを強く巻き付けてから、歩き出した。車のクラクションが短く鳴った。ライトが僕の姿を照らし出した。ふわりと落ちていく雪片のかたちがはっきりと見えた。

 頭の中でノックが暴力的な芳香を伴って、一定のリズムで鳴り続けていたが、もう僕にはどうすることも出来なかった。

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