ノンストレイ・キャッツ

 俺と先輩は猫に姿を変えた。もちろん、現実の話ではない。非現実、仮想現実──VR世界での話だ。

 久しぶりに触れたゲームというものは、俺の知っていたのとは形が顕然と変わっていた。なんと、人間が動物の姿になって、仮想現実の世界を渡り歩く事が出来るのだ。

 この方、ゲームなんて触っていない俺でも、子供の頃の記憶が身に染み付いていたので、初期設定ぐらいは何の問題もなく完了した。


 眼が開く。狭い部屋に寝転がっていた。畳張りの床に、樹木のような模様の土壁。


「無印の頃から、目ェ付けてたんだよね」

 先輩は三毛猫の姿になって笑う。眼を細めて笑う。

 このゲームの無印バージョン、VRゴーグルを介した──視界のみにおいて、自分が猫になっているように見せるゲーム。

 それが発売された時から、その進化系統のゲームが発売されると踏んでいたらしい。

 無印は買わなかったらしい。

 自身を大の猫好きだと語る彼女が、並々ならぬ我慢を自分に強いたのは、俺にも想像がつく。


 猫の身体で歩くのは、結構難しい。人間とは歩き方が根本的に違う。二足歩行ではなく四足歩行だ。

「這い這いじゃなくて、もっとケツを上げてみて。雑巾がけみたいにするんだって。違ぁう!そうじゃない!」

 すぐに猫としての歩き方のコツを掴んだらしい先輩に、この世界における猫の歩き方をレクチャーされる。

 おそらくどこかのアパートの一室に、俺と先輩は猫になって存在している。

 畳の冷たい感触と淡白な匂い。

 ちゃぶ台と、木目調の棚に青いソファ。

 畳まれた、木製の脚立が壁に立てかけられている。壁にはキッチンがあって。アパートの一室のようだが、扉の無い部屋。

 扉が無いので、アパートでは無い、のか。ただ、窓はあって。そこが出口であると、半ば本能的に理解する。

 誰が点けたのか分からない薄青暗い明かりが天からぶら下がっている。

 なんというかリアルな世界だった。開発者の世界への愛が垣間見える。が、部屋の端っこには当然のように埃や木屑が存在し、ソレには感触も当然ある。人の毛は存在しなかった。人間の頭髪や陰毛は存在しなかった。どうせなら、その他のゴミも髪の毛と同じように、総て消し去って欲しいと思うのは。

 この世界でゲームをする側の、人間の、我儘になるのだろうが。

 無駄な事を考えながら、硬く冷たい畳をガタガタと這い擦り廻る。

 これは単なる言い訳に過ぎないのだが、爪が畳にひっかかるのだ。ウチの猫はどうやって爪をしまっていたのか。

「おっそい!喰らえ、猫パンチ!」

 ちゃぶ台の上で教官ごっこをしていた先輩が飛び掛かってきた。

 いつまでも地面を芋虫のように這う後輩猫に我慢出来なくなったのかもしれない。

「うお」

 反射神経さえも鈍間な俺は、猫からすれば高い位置から、飛び降りて来た先輩に押し潰される。

 いつも通り、彼女の胸が俺の身体に沿って潰れる。

 しかし、猫の胸というものは人間のとは違い、毛量のある、しっとりした毛で覆われている。

 先輩の。普段とは真逆のぶよぶよの肉は湯のように俺に被さった。

 その熱の形容し難い気持ち悪さを払い除けるように、腕を振る。振るったのだが、優しいパンチになった。完全な猫パンチに変わった。もう一度、力一杯、眼前の三毛猫を殴ったが、人間としての殴り方が染み付いている俺にしては。中途半端としか思えないパンチ。

 人とは勝手が違って、拳の形にならない。

 道徳心の欠けた葛藤と頭の中で戦っている間に。

 先輩が俺の腹の上で跳ねて。

 俺が先輩の上の位置に来て。先輩が俺の上に来て。それを数回繰り返して。

 その間、俺と先輩はずっと見つめ合っていた。

「瞳孔開いてて、怖いっす」

「暗いからだろ」

「そうすね」

 先輩の言う通り、この部屋は薄暗い。

「一回、休憩」

 先輩がそう言ってくれた。

 流石に。いつまで経っても上手に歩けない自分に嫌気が差していた。


 ログアウトしようと思考すれば、空中に突然長方形の液晶が現れる。

 書かれた英語も読まずに、触れる。

 予想通り、現実に戻れる。


 ■


 久しぶりに外に出た。もちろん現実ではない。偽物の世界の話だ。

 いわゆるこの仮想世界のチュートリアル──体慣らしの場であったあのアパートのような和室。

 その部屋にある窓の中で唯一開いていた窓から、先輩に続いて外に出た。あの部屋は斜面に建設された建物の地下室だったようで。玄関が無い事も納得だった。おそらく部屋に不自然に存在した梯子で上へと移動するのだろう。

 あの部屋から出る迄、二時間程度。俺のせい。

 外に出たのは。思い出せないほども前に、心療内科なるものに訪問した時がラストだろうか。二回目は行かなかったが。

 外に出れば、生温い熱気が伝わってくる。しかし、引き籠り野郎には重ねて丁度良い。

「あつー」

 先輩が体を震わせて鳴く。

「そう、ですね。久しぶりに外出たっすわ。めっちゃ暑い」

「でも、ある程度、五感の感度は抑えられてる。この世界に依存しない為に」

 丸く見開いた大きな目で俺を見つめる先輩は少し怖い。この世界の猫の感情を想像する能力を俺は未だ持ち合わせていない。だから、先輩のこの顔がどういう感情を示しているのか分からない。だから恐ろしいのだ。

「熱さって五感のうち、どれに入るんです?」

 感情の感じられない猫の目に怯んで、変な疑問を呟いてしまう。

「知らん」

 久し振りに先輩と話していて、人間と話していて、気まずさというものを感じた。

 いや違う。先輩と話すのはいつもあの部屋の中だけだった。気まずいなんてのは、外だから生まれる事象だと思う。いや、殆ど外に出ていない奴言えた事では無い。

 気まずさを踏み潰して、俺と先輩は住宅街を散策し始めた。

 

 そういえば、この世界は真っ昼間で。まるで時間というものがないようにずっと日が上に張り付いている。現実ならば、丁度十二時を過ぎた頃だろう。勿論、暗い、深い深夜。


 五感が本当に下げられていたとしても。

 外の世界を忘れてしまった、引き籠もり野郎の過敏な感性には、とても鮮烈な世界だ。

 都会とは決して言えない住宅地。しかし、背丈──体長の小さい俺と先輩には、総てが巨大。クチナシとかいう植物の甘さが鼻に刺さる。なるほど、猫の感じている匂いとはこういうものか。いや、今の嗅覚は現実の人間の時よりも劣っているのだっけ。ならば、クチナシの匂いが元からキツイだけだ。


 この仮想世界は、ゲームらしくなくマップ機能も無い。そのくせ、見慣れない土地。

 まあ、何か目的地がある訳でも無いので、別段、困る事は無いが。

 目的地は無く。しかし、人間では通る事の出来ない、猫の為の場所には行ってみたくなる。

 住宅地の建物と建物の狭い隙間。オレンジがかり始めた空がその間から見える。

 自分の身体の軽さに恐怖と驚きを同時に感じながら、絡まるように設置されたパイプを踏み抜く。まるでアスレチックのように、室外機に、屋根に飛び移って。

「おい、こっち」

 先輩はとにかく上に昇りたいらしく。俺の事を急き立てる。しかし、俺を置いて行こうとしない。

「俺、下で待ってる。下で見てます」

 地面をとことこ歩く俺を。

「じゃあ、私もう動かない」

 おそらく仏頂面で脅して、鼓舞する先輩。おもしろいことに段々と猫に適応してきたので。何の問題も無く歩行できるようになり、飛距離の大きいジャンプをする能力も既に得ている。

「勢いで落ちるなよ!」

「落ちませんよ」

 先刻、先輩は勢い余って落ちていた。

 俺は跳び箱に飛び乗る要領で、飛び乗っては休んで。飛んでは休んで、昇っていく。俺は前の世界では生憎、跳び箱の上に乗るのは得意だったので、足を滑らせる事は無い。

 

 もし、足を滑らしたとしても。

 ゲームの仕様なのか分からないが、俺の身体は綺麗に着地する。落ちても絶対にケガをしない。猫の平衡感覚による華麗な受け身をこのゲームは忠実に再現していた。

 だから、命の危機などを意識する事は無く。

 俺達は目的地を持たないながらも。裏路地を進んだ。












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