第9話

 あの澄んだ水色は絶対に知っているはずなのに思い出せない……

 考え込むキャンディにマーガレットが無邪気に聞いた。


「ねえ? レディは毎日来てくださるの?」


「はい、その予定です」


「まあ! 嬉しいわ。お父様もお母様もお仕事でお忙しいの。お兄様も学園に入られてからはお勉強がお忙しくて……お夕食の時だけしかお会いできないのだもの。私とても寂しかったの」


「左様ですか。それはお寂しかったですね。マーガレット様、私のことはどうぞキディとお呼びください」


 マーガレットが母親の顔を見た。

 夫人がとてもにこやかな顔で言う。


「キディ先生とお呼びしてはどうかしら。マーカスも私もお父様もそのようにするわ」


 キャンディは恐縮したが、結局それで決まった。


「キディ先生、僕のことはマーカスと呼び捨ててください」


 とても10歳とは思えないダンディさだ。


「じゃあ私はマーガレットって呼んでください」


「はい、わかりました。でも私も慣れていないので緊張してしまいます。マーカス様とマーガレット様と呼ばせてくださいね」


 二人は頷いてニコニコと笑った。

 お茶が運ばれてきて、何をして遊んでいたかという話題になった。

 宿題を終えたマーカスがマーガレットの部屋に来るまでは、ぬいぐるみと遊んでいたようだが、年齢の割に少し幼いような気がした。


「ではマーカス様が来られてからは何をしていたのですか?」


「お兄様がご本を読んで下さいました」


「まあそれは素晴らしいですね。優しいお兄様で羨ましいです」


「キディ先生にはお兄様がいないの?」


 返答に詰まるキャンディ。


「実家には弟がおりますわ。でも私は一人で暮らしているので会うことはありません」


「寂しくないの?」


「ええ、大丈夫です。それに今日からマーカス様とマーガレット様というかわいいお友達もできましたしね」


「まあ! キディ先生は私とお友達になって下さるの? 嬉しいわ。私、お友達がいなかったの。だからお兄様が羨ましくて」


 マーカスがそっとマーガレットの肩を抱き寄せた。

 本当に素晴らしい紳士だ。

 その日はお茶を一緒に楽しんだだけで終わった。

 ご当主には会うことができなかったが、夫人や子供たちを見るに素晴らしい方なのだろうことは想像に難くない。

 キャンディは明日からの仕事がとても楽しみになっていた。


「ではまた明日。ごきげんよう」


 玄関まで見送ってくれた三人に別れを告げ、キャンディはエマと一緒に馬車に乗った。

 流れ去る街の景色を見ながら、今日の出来事を振り返る。


「えっ?」


 急に声をあげたキャンディに、エマがピクッと反応した。

 キャンディの借りているアパートの近くにいる人物。

 間違いなくシルバー伯爵だ。

 髪は乱れ、服装もよれているがさすがに父親を見間違えることは無い。


「エマさん、申し訳ないけれど会いたくない人が家の近くにいるの。少し遠回りをして下さらない?」


「わかりました。先生の住んでいるところを探しているのですね? でしたら私が囮になりましょう。ドレスを交換していただけますか?」


 戸惑うキャンディなど気にもせず、さっさとメイド服を脱ぐエマ。

 仕方なくキャンディもワンピースを脱いでエマに渡した。

 このメイドは何者なのだろう。


「ではこの先で待機していてください。何があっても出てきてはいけません」


 そう言い残すと、エマはキャンディの鞄を抱えてアパートに向かっていく。

 シルバー伯爵がエマに近づき話しかけていた。

 少し会話をしてから、何事もなくエマから離れていくシルバー伯爵。

 エマはそのまま佇んでいたが、シルバー伯爵が去ったことを確認してから馬車に戻ってきた。


「もう大丈夫です。私の事をキディ・ホワイトだと認識させましたから、もうこのアパートに近づくことは無いでしょう。しかし油断は禁物ですから、気を抜かないでくださいね」


「は……はぁ、ありがとう。どうやったの?」


「簡単ですよ。たぶん最近アパートを借りた一人暮らしの女性のことを探していたのでしょう。この部屋を借りた女性の年恰好と、保証人がエヴァン侯爵家ということで、もしかしたらと思ったようです。私がキディ・ホワイトですと申し上げたら、ぺこぺこと頭を下げて去って行かれました。もし鬱陶しいようなら消しますか?」


「け? 消す?」


「はい、1日いただければ名実ともにこの世から消してしまいますが」


「あ……いや、まだそこまでは……」


「そうですか? ではご都合に合わせますのでいつでもお申し付けください」


 キャンディは何度も礼を言って馬車を降りた。

 服を交換してわかったことだが、エマと自分はほぼサイズが同じようだ。

 そこに作為は無いだろうが、なぜか不思議な気分になりながら、キャンディはパンを買って部屋に戻った。


「おはようございます。お迎えに参りました」


 土日を除く毎日、寸分たがわぬ正確さで迎えに来るエマの声を聞き続けて、もう三か月が過ぎた。

 ということは、キャンディが家を出て半年ということだ。

 あの時、1年後にもう一度会うという約束をしたが、その約束を反故にしてしまうと、事業提携も流れるはず。

 両親もそろそろ焦りが出ているのだろう。


 クリスが紹介してくれた仕事はとても楽しい。

 マナーや音楽は専門の先生がついているので、キャンディは主に情緒教育を担当した。

 文字を文字として認識しないというロミット夫人の言葉通り、マーガレットは文字という概念が理解できないようだった。

 本を読み聞かせると、興味津々で聞いている。

 話の内容も見事なほど覚えているし、感想もキチンと言える。

 後は文字というものを体感させるだけだとキャンディは思っていた。

 毎晩その方法を考えるのが習慣化している。


「こんなものを作ろうと思うのですが」


 ある日のこと、子供たちが仲よく遊んでいる横で、刺しゅうをしている夫人にキャンディは、意を決して話しかけた。

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