第10話

 夫人が目線を上げる。


「あら、これは何かしら」


「木で作った文字でございます」


「木で作った? ああ、これは『A』ね?」


「はい、私はかなり不器用で、この一文字を作るだけでも一週間もかかってしまいました。これを使って遊びの中で文字という概念を育めないかと考えております」


「なるほど……おもちゃのひとつとしてということね? 複雑なスペルは除外するとしても各文字が5つずつあれば良いかしら?」


「それだけあればかなりの単語ができます」


「わかりました。飾っても楽しそうだしすぐに作らせましょう。一週間もあれば大丈夫かしら? レッドフォード?」


「三日で作らせましょう」


「そう、ではよろしくね」


 どう切り出すかかなり悩んだが、予想以上にすんなりと受け入れられた。


「これを使ってどのように学ばせるの?」


「例えば……」


 床に投げ出されたままの本を手に取り、キャンディが説明を始めた。


「本を置いて、このおもちゃを並べます。本をあらわすにはこれとこれとこれを並べるというルールだとお話ししようと思うのです」


「面白いわね。例え失敗したとしても心配いりません。思うようにしてみてね。他にも必要なものがあればレッドフォードに言いなさい。私の許可はいりませんよ」


「ありがとうございます」


 土日を挟んで月曜日には揃うというレッドフォードの言葉には驚いたものの、できれば早い方が良い。

 いつものようにアパートまで送ってもらったキャンディは、荷物を置いて着替えた後、街の文具屋へ足を運んだ。

 

「すみません、子供が口に入れても安全なクレヨンが欲しいのですが」


 店主はすぐに案内してくれた。

 クレヨンの色は全部で30色あり、その全てを1本ずつ購入すると、かなりの金額になったが、受けている恩を思うと安いものだ。

 

「いつもお世話になっているのだもの。このくらいは必要経費よ」


 薄くなった巾着をポケットにねじ込みながら、キャンディはアパートに戻った。

 昨日の残り物で手早くサンドイッチを作り、紅茶を入れている時、ドアがノックされた。

 ここに尋ねてくるのはエマだけだ。

 キャンディは一気に緊張した。


「私よ、開けてちょうだい」


「どなたですか?」


「私よ、わかるでしょう?」


「わかりません。名前をお願いします」


「リリアよ。キャンディでしょう? 開けてよ」


「キャンディとはどなたですか? 家を間違っておられるようですが」


「何言ってるの? 早く開けて?」


「私にリリアという名前の知り合いはいませんし、私の名前はキャンディではありません」


 長い沈黙が流れる。

 キャンディは耳を澄ませて気配を伺った。

 少しだけドカッという音が聞こえ、その後は怖いくらい静かになる。

 じっとドアの前で我慢していると、コツコツというノックの音がした。


「キディ様、私です。エマです。ドアを開けていただく必要はございません。ゴミはこちらで処分しておきますので、どうぞ安心してください」


 キャンディの返事も聞かず、足音が遠ざかる。

 何だったのだろうか……

 リリアの名前を出したということは、キャンディのことを良く知る人物ということだ。


「絶対に戻りたくない」


 せっかく作ったサンドイッチも食べる気になれず、呆然と暮れゆく空を眺めていた。

 そして翌朝、部屋から出るのは怖いと思いながら、昨夜食べ損ねたサンドイッチをゴミ箱に突っ込む。

 食料の少なさを心配をしていた時、部屋のドアが再びノックされた。


「キディ様、エマです。奥様からお渡しするようにと命じられました」


 間違いなく聞きなれたエマの声だ。

 キャンディは警戒しながらもドアを開ける。

 いつも通りメイド服を几帳面に着込んだエマが、大きなバスケットをもって立っていた。


「お休みの日に申し訳ございません。奥様がこれをお渡しするようにと」


 エマがバスケットを差し出す。

 受け取りながらキャンディが聞いた。


「昨日はありがとうエマさん。上がっていかない? お茶を淹れるところなの」


「いえ、先生の家に上がり込むなど滅相もございません」


 遠慮するエマを無理やり引き込み、キャンディは椅子を勧めた。

 お茶を淹れながら聞く。


「とても怖かったから助かったわ。どうしてこの辺りにいたの?」


「それは偶然です。ドアを開けなかったのは大正解でした。犯人はシルバー伯爵家のメイドでした。優しく聞いたら全てを話してくれました。消していないのでご安心ください」


 キャンディは苦笑いをした。


「どうしてここだとわかったのかしら」


「わかったわけでは無いようです。半年くらい前にアパート契約した女性の部屋を片っ端から当たっていると言っていました。見つけた者には賞金が出るそうで、言うセリフも指導されたそうですよ。本当にしつこいですよね。まるで食糧庫に這いずっている黒い楕円形の虫のようです。あっ、ごめんなさい。先生の親でしたね。あんなのでも」


 遠慮なくディスるエマに、こらえきれず吹き出すキャンディ。


「帰ってからレッドフォードさんに報告しましたら、今朝がた奥様から食材を持っていくように指示されました」


「本当に何から何までありがたいわ。どうぞよろしく伝えてね。喜んでいたと」


「畏まりました。ベーコンは日持ちしますが、ハムは早く召し上がった方が良いと思いますよ。それとパンは白パンですが、10個しか入っていません。足りないようでしたら買い足してきます」


「10個もあれば一週間は持ちますから」


「そうですか? 私の一食分なので心配してしまいました」


 キャンディは何も言わず笑顔だけで返事をした。

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