「おい!!待て!!」


 そんな俺の言葉を置いて、神崎は紫色の空に向かってぐんぐんと遠ざかっていく。

 「知らねぇぞ」

 俺はそう呟く。

 下を向くと、何か青く光るものがあった。拾って見てみると、ビー玉のようだったが、中は青く濁った煙で満たされ、それが渦巻いていた。初めて見たもので、子供の頃抱いていたような、純粋な好奇心が沸き上がってきた。硝子で作られたようだったので、割れないようにハンカチにくるみ、ポケットに入れた。


 「先生ばいばーい」

 やけに短いスカートの裾と中途半端に巻いたセミロングの髪を揺らした女子生徒と、その下っ端であろう数人が横を通っていく。

 「おしゃっす」

 圧縮された言葉を発する坊主頭2人が通り過ぎていく。

 片方が振り向いて言う。

 「ほら行くぞ」

 それに続いて、眼鏡をかけた、いかにもが彼らに駆け寄っていく。片方の坊主ががっと彼の肩の上に腕を乗っけた。なぜああいう奴らはすぐ肩を組もうとするのか。俺が考える必要はないか。

 

 校舎に戻り、玄関に入ると生徒と会った。

 「さようなら」

 俺が怖いんだろう。生徒は返事もしない。壁に貼ってあるポスターが目に入った。

 “幸せって何だろう”大きくそう書いてあった。


 久しぶりによく考えてしまった。

 一体、幸せとは何なのだろうか。俺が在る意味とはなんだろうか。


 この学校では「怖い先生」として存在しているのは確かである。好きでそうなっているわけではなく、自分の存在意義を作るために演じているに過ぎない。

 皆そういうものだと思っていた。娘が産まれるまでは。

 今年で5歳になる。言わずもがな、この世で1番大切な存在だ。「パパ」と初めて言った時は彼女が輝いてみえ、次に目の前がぼやけていった。

 娘にとっての父親である事こそ、俺の在る意味そのものだ、そう思えた。

 だが最近、そんな娘が猫を飼いたいと言い始めた。

 最初は俺も乗り気だったが、考えてみれば娘の遊び相手が俺でなく猫になるということだ。かつ、お金もかかる。軽くネットで調べてみたところ、0が六つ以上並ぶものばかりだった。さらに、「白猫がいい」だの「賢い猫がいい」だの要求が多い。時が経つにつれ、娘の思いは強まるばかりだった。俺の思いはそれに反比例している。

 そんなことを思いながら自分の椅子に座ろうとしたとき、事務員が職員室のドアを開けた。

 「3年6組の鍵がまだ届いていないのですが」


 とりあえず今日は神崎の罪を隠さないといけない。


 ♢


 寝起きの月に向かって帰っていた。

 途中に公園があった。よく娘と遊ぶ場所である。

 通り過ぎようとした時、老人が下を向きながら出てきた。

 下を向きながら、といっても、老いによる腰の曲がりによるものでも、憂鬱だからでもなさそうで、ただただ落とし物か何かを探しているように見えた。

 「どうかしたんですか」

 高校教師として声をかけずにはいられない。

 老人は顔をあげてこっちを見つめる。

 目の中は暗く澱み、ただの2つの黒い点に見えた。

 「お前にゃ関係ねぇ」

 そう話す口の中には銀歯、横には涎が光っていた。白髪交じりの髪は無造作に乱れ、服も汚れ具合からして長い間洗っていないようだ。異臭と不気味な雰囲気が漂っている。なぜか人ではなく獣と対峙しているような感覚だった。

 「そうなんですか」「ではお気を付けて」

 少し早足でその場を去ろうとした。

 老人の異臭に紛れ、どこからかカレーの香りがした。


 ♢


 そういえばこんな店ができていたんだな、と気づいたのは、その香りが強くなり、とうとう腹の虫を起こしてしまった頃だ。

 インド料理の店だった。本日オープン、と書かれた暖簾とともに、開店祝いの花輪が店先にいくつか飾ってある。初日らしく客が長蛇の列をなしていた、ということはないものの、店内に客は居る様子だった。

 唾液が出る。続いて、必死に首を振る。

 俺は精一杯腹をすかし、家に帰って、妻の作った晩御飯を食べるのだ。

 腹の虫も二度寝に入ったところだろう。

 自然と店の方向に向いてしまっていた体を、自分が本来向かっていた帰路のほうに向ける。

 一歩踏み出した時、店のドアが開き、声が聞こえた。

 「美味かったな」「あんなカレー食ったことないぜ」


 腹の虫が飛び起きた。

 


 「何なんすか」


 店に入ると同時にそんな声が聞こえてきた。

 怒りと困惑が混じり、少し虚勢を張っているような、そんな声だった。

 何やら店員に文句を言っているように聞こえた。

 声の元に目をやると、うちの生徒であるさっきの坊主頭の片っぽだった。もう1人の坊主と眼鏡をかけたもいた。彼らに加えてもう1人生徒がいるが眼鏡の生徒に隠れ、判別はできなかった。 

 文句を言っていた坊主頭がふと、こっちを見た。同時に焦った様子で店員さんに何か言って、荷物をまとめだした。

 呼び止めて注意をしようと口を開こうとしたところだった。

 「何名様ですか」

 気づくと店員が目の前にいた。本場の人はないだろうが、堀の深い、濃い顔だった。胸には“研修中”と書いてある。

 俺は指を一本だけ立てた。

 「では、こちらへ」

 生徒たちに構ってる暇はない。

 俺にはカレーが、家では家族が待っている。できる限り早く小腹を満たし、家に帰らなければならない。

 ドアの開く音が聞こえた。同時に、店員の声が店中に広がる。

 「ありがとうございましたー」

 

 席につき、メニュー表を広げる。途端に迷ってしまった。

 どれも美味しそうだからとか、値段がどうとかではなく、料理の画像がないのに加え、どれも聞いたことすらない料理名だった。パラクパニール、マトンカレー、スパイスターリー、イデュリー、、、唯一分かったのはメニューの右下に書いてあった”ナン”だった。見つけた瞬間、安心して感動まで覚えた。昔、遊園地で迷子になった娘を見つけた時のことを思い出す。あの時の感動と似ていた。あの時とは違い、見つけた時に抱きつくことも、なでてやることもできなかったが、もし具現化されていたら思わずしていたかもしれない。それぐらいの感動だった。少し言い過ぎた。


 「注文はお決まりですか」

 注文を取りに来たのは、先ほどの研修中の子だった。こんな若い子に、メニューに書いてあった料理名がどれも分からないというのは恥ずかしく、プライドが壊れる予感がした。自分のプライドが高いことなど物心がついた時から知っている。

 いかにも、メニューに書いてあった料理のことをすべて知っており、その上で注文に悩み、仕方なく言うように、眉間に少し皺を寄せ、声を低く唸らしてから言った。


 「ここのおすすめで」


♢♢♢


 もうカレーは半年いらない。いつの間にか高くまで上がっていた月に向かってそうぼやく。足取りは重い。なぜおかわりなどしたのだろう。


 「こちらが当店おすすめのサグマトンカレーです」

 そう言ってテーブルに置かれたのは、ほうれん草と肉がのったカレーだった。少し、感を出すため店員に聞いた。

 「この牛肉はインドのものなんですか」

 店員は少し驚いたように目を見開き、口角のあがりを抑えながら言った。

 「それは羊の肉です。サグマトンっていうのは羊肉という意味です」

  自分の顔が赤くなるのを感じる。

 「あと、ご存じだとは思いますが」

 嘲笑に少し怒りが混ざったような声だった。俺はすでに顔を上げれていない。

 「インドはヒンドゥー教徒が多いんですよ」



 その後、おかわりで頼んだライスの量がとんでもなく多かったのは、あの店員のせいではないだろうか。今頃そう思う。これからが本当の夕食だというのに。

 見ていた月が雲でかすみ始めた時時、嫌なにおいがした。頭の中で、このにおいとある光景が合致する。空を見ていた視線をゆっくりとおろし、前を向く。そこには誰もいなかった。

 「なあ、兄ちゃん」

 後ろから声がした。背中に一筋、汗が流れた。

 「あんたが持ってるんだろ」

 振り向くと、思った通り、先ほどの老人がいた。さっきは気づかなかったが、首から何かをぶらさげている。まだこの周辺をうろついていたのか。

 「何ですか。僕が何を持っているというんですか」

 笑いながら、両手を上げぶらぶらと振って見せた。

 「手じゃねえ、ポケットだよ」

 老人の目は鋭く冷徹で、心の中まで見られている気がした。寒くもないのに鳥肌がたつ。俺は呆れたように言う。

 「ポケット?何もないですって。一体あなたは何を探しているんですか」

 少し間があった。

 「青い玉だよ」

 嫌な汗が一斉に吹き出す。逃げようと思ったが、足が地面にくっついているように固くて動かなかった。

 「なぁ持ってんだろ。早く出せよ」老人が近づいてくる。

 「な、何のことですか。僕はそんなもの知りませんよ」

 「その顔は知っている顔だな。おとなしく出したほうがいいぜ、もしお前のポケットから出てきたら痛い目見るぜ。今のうちだぜ」

 「だ、だから知りませんって!!」強くそう言い放った時だった。

 老人が動いたかと思うと、もうすでに目の前におり、青い玉が入っている俺のポケットに手を伸ばしていた。まずい、と手を振り払おうとしたときにはもう遅く、老人はハンカチを抜き出していた。もう片方の手で俺の右腕を強くつかんでいた。握る力が痛いほど強く、逃げられないことを悟った。

 「どうせ、この中だろ。俺のコンパスが教えてくれたんだよ」

 老人は興奮で溢れそうになる音を立てて唾をすすりながらそう言った。

 ハンカチを開ける彼の姿は、枕元にあったプレゼントを急いで開ける少年のように見えた。俺の腕を握っていた手はもう離されているものの、足に力が入らない。自分の運命を悟り、覚悟を決める。空を見上げると、皮肉にも満月がまた顔を出し、燦々と輝いていた。

 「あれ?」

 間抜けな声がした。老人の持つ俺のハンカチを見ると、あの青い玉がなかった。俺の中では、助かったという安堵とあの青い玉が失くなったことに対する悔しさが渦巻く。

 「しまった、またこれかよ。なんで30分前の位置情報しか出ねぇんだよ」

 首に紐でかかっていた楕円形のものを老人は見つめていた。ハンカチはもうすでに地面に落とされ、俺がすぐに拾いあげていた。

 「その丸いものって何ですか」興味本位で聞いてみた。

 「コンパスだよ、コンパス。これがあの玉の位置を教えてくれんだよ。でも30分に一回しか情報が更新されないから、使いにくいったらありゃしない」

 老人は肩をすくめるのと同時に目を見開き、ああ無駄なことを言ってしまった、と気づいたような顔をした。あんな小さいものも長時間探すとは相当なストレスだろう。愚痴を言う相手の一人でも欲しかったのかもしれない。

 「もうすぐ30分なんだがな」

 「青い玉を得たら何するつもりなんですか」

 「そりゃあ内緒だよ」

 舌で唇を嘗め回し、目を三日月にしてそう言った。不覚にも少しだけ老人に同情してしまっていた自分が、それを見てすぐに消え去った。夜風が不気味に首筋をなでる。老人はまた”コンパス”とやらに目線を落とす。次第にその目は、見開かれていく。更新されたのか。

 「近いぞ、、近い!!」

 彼は興奮した子犬のように音を立てながら細かく呼吸をしている。

 「ボクだ!ボクの方向はどっちだ!」

 老人は回転しながら、そう俺に問う。

 「ボクって何ですか?」俺は老人に近づき、”コンパス”を覗く。

 「方角だよ、そんなもんも知らねえのか。ほら」

 コンパスには赤い点が1つと、そこから離れたところに青い点が1つ光っていた。それぞれが現在地とあの玉の位置を指示しているということは、”サグマトン”を知らなかった俺にでも分かった。右上には、よく目にする、数字の”4”に似ている方位記号があった。青い光は赤い光の右斜め上にあったので、彼のいう”ボク”というのはの東西南北の”北”だという事で合点がいった。

 「北はあっちですよ、たぶんそこの曲がり角を曲がってすぐくらいにありますよ、それ」

 「”キタ”ってなんだよ、ボクのことか?まぁそんなこたぁどうでもいい。とりあえずあっちにあんだな」

 気づくと彼はもう走り出していた。そして俺も老人とは真逆の西の方向に走り出していた。叫び声が北風に乗って聞こえた気がしたが、早く家に帰らなければ、という思いと、早くこの場から離れなければ、という思いが、自分のカレーが詰まった重い体をぐんぐんと加速させる。三分後、案の定気分を悪くし、道のそばにあった公衆トイレで吐き気と闘い、敗北することを彼はまだ知らなかった。

 

 ふらつく足をどうにか動かし、何も考えずに見慣れた住宅街を歩いていた。油断するとすぐに吐き気が戻ってくる。出歩いている人はほぼいない。時計を見ると、八時二十分頃だった。やがて家に着き、小さな窓からこぼれてる暖かい灯りが心身をほどく。自分が緊張や不安とは少し違う異様な気持ちに、気疲れしていたことにそこで初めて気が付いた。玄関を開ける。

 「ただいま」

 ほらパパ帰ってきたわよ、という声と同時に、ドタバタという足音が鳴り響く。娘がリビングから玄関に来た。

 「おかえり!!」

 俺はそっとかがんでハグをしようと思ったのだが、娘がすぐにリビングに戻っていく。

 「パパ、見せたいものがあるの!!」リビングから大きな声が聞こえる。

 急いで洗面所で手洗い、うがいを済ませ、リビングに向かう。遠目から娘が白い何かを抱いていることは分かっていた。

 「この子だよ」

 娘が抱いていたのは、猫だった。

 「買ったのか?」

 「違うよ、これから飼うんだよ」

 「いやそういうことじゃなくて、お金の問題でな、、」

 話の嚙み合わない俺たちを尻目にキッチンで料理をしている妻が言った。

 「拾ってきたのよ。一人ぼっちで道に座り込んでいたのをみて、この子を飼いたい!って言うもんだから飼うことにしたの。どこかの家から脱走してきた猫かもって、警察にも問い合わせたのよ。そんな事情もあって、私たちも今帰ってきたところよ。ごめんね、これから夜ご飯作るところだわ」

 そう言って彼女はピーラーで皮をむいている途中のジャガイモを顔の横に持ち上げてみせた。俺は娘のほうに向きなおる。彼女に抱えられた、きれいな毛並みの白猫は、そっぽを向いたまま優雅に手をなめていた。

 「この子とっても賢いのよ」

 「そうなのか」

 賢いよね、と娘が問いかけると、猫は、にゃあと鳴いた。

 「ほらね。これからはずっと一緒に寝ようね」

 それに対して、猫はまたにゃあと鳴いたが、こっちは、嫌だと言っているような気がした。自分の中のジェラシーによるものかもしれない。そうしていると、娘は少しにやつきながら言った。

 「大丈夫。パパともちゃんと遊んであげるんだから」

 「あ?別にいいよ、俺は」

 「へぇ、そうなんだぁ」娘は口の片端を上げ、眼を細くした。生意気な猫のようにも見えた。

 俺はきまりが悪くなり、体をねじってキッチンの方を向く。妻も娘と同じような顔をしていた。

 「な、何だよ、その顔。で、で、えっと、今日の飯は何なんだ?」

 「みんなの大好物だよ」

 ポトン、ポトンと鍋に何か入れる音が聞こえた。そこで夕飯の正体に気づいた。

 やがて、が部屋中いっぱいに広がる。娘がやったー、と声を上げる。はしゃぐ娘に負けじと、俺も精一杯の愛想笑いを見せる。娘から放された猫の方を見ると、腕と背筋をピンと張って、人間さながらに目を輝かせ、うれしそうな顔をしていた。人間みたいだなと思うのと同時に、こいつかわいいな、と不覚にも思ってしまった。どんどん充満していくは、俺には毒ガスのようにしか思えなかった。

 青ざめた顔の俺を見て、妻ははつらつと言った。

 「今日の夕飯はカレーよ」


 おつカレー、と言いながら、ポーズを決める娘が、ものすごくムカつき、そしてそれ以上に、ものすごく愛おしく感じられた。それを見た妻の笑い声が響く。それにつられて俺も笑う。猫がにゃあと鳴く。

 

 幸せの意味をほんのちょっとだけ知れた気がした。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 


 


 


 

 






 


 


 

 

 

 

 

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