青とツキ

 「この世界は終わってる」


 彼は雲一つない青空を見上げながらそう呟いた。

 その横顔を見つめながら俺は言う。

 「なんでそう思うの?」

 彼は何か言おうと口を開いた。

 その瞬間、空が真っ黒な雲に覆われた。ゴロゴロと音を立てながら稲光を走らせている。

 戸惑う俺を見て彼は言った。

 「ほらね」不気味な笑顔だった。

 ピカッと光ったと思えば次にものすごい音が鳴り響いた。


 バンッ

 

 ドアが開く音で目が覚めた。この頃あの夢をよく見る。正しく言えば、光景を思い出す。いつも脳裏に流れるのは実際に見た光景だった。どこまで本当にあったことかは思い出せない。が、確かにあんな会話はした。

 まだ焦点の合わないぼやけた視界で、ドアの方を見てみると、ゴツゴツとしたシルエットが立っている。

 もやがなくなり、視界が徐々にはっきりしていく。

 そこにいたのは体育教師の堂本だった。角刈りの頭、鋭く吊り上がった眉毛、角張った輪郭。

 ああ、しまった、と思うのと同時に彼の聞きなれた怒号が教室中に鳴り響く。

「いつまでここにいるつもりだ!もうこんな時間だぞ!」

「すみません」

 目をこすり体を起こす。

 寝ていた間に垂らしていた涎が口の横を冷やす。

「だらしねえな、涎垂らしながら寝てんのか」

「すみません」

 窓から外を見ると、部活が終わったのだろう、似たような髪型した人達がそれぞれ固まって校門を出ていくのが見える。

「とにかく早く帰れよ。もうこんな時間だし、俺も教室の見回りとかいろいろしなきゃいけねぇんだ。教室の戸締りして、鍵は職員室に返しとくんだぞ」

 すみません。と言おうとしたものの、謝ってばかりの自分に嫌気がさし、少し反抗してみる。

「鍵返さない人なんているんですか」

 堂本は驚いた様子を見せたが、すぐにいつものように眉を顰め、声を荒げる。

「なんだそれお前、なめてんのか」

 気に呑まれる。

「すみません」

 堂本は大きな足音を立てながら去っていく。 

 時計を見るともう午後6時近くになっていた。 

 基本は午後7時頃まで学校に残れるのだが、電気代の高騰などにより、今夏は午後6時までには帰らないといけないことになっている。

 僕は学校が閉まる時間まで勉強するのが日課なので1時間の短縮というのは結構な痛手だ。

 いつもは勉強している。今日寝ていたのは、そう、たまたまだ。

 机の端に追いやられた参考書を鞄に入れる。

 役立たずのクーラーを消し、反抗期の鍵を閉める。

 再度ドアが閉まっているのを確認し、一階の職員室へ向かう。

 廊下を進み、階段に向かう。どこからか堂本の怒号が蝉の鳴き声に紛れて聞こえてくる。

 僕の教室は4階なので廊下には人気がなく「静謐」という言葉がぴったりだった。

 この階に残っているのは俺ぐらいだろう。

 と考えていたのだが、階段の奥にある隅の教室のドアが開いていることに気が付いた。

 気になるが覗く暇はない。


 だが、好奇心というのは恐ろしい。

 気が付くと、その教室の手前まで来ていた。しゃがんで息を殺し、部屋を覗く。まさか堂本ではないだろうか。もうあの怒号は聞きたくない。


 この部屋はもう教室としては使われていない。

 今日は普段と違う雰囲気が漂っていた。

 まず、鍵が開いている。

 いつもは閉じていて外から覗くこともできない。ドアの窓も黒い布が内側から貼られ隠されている。嫌な雰囲気を感じる。


 背中に汗が流れていく。

 この汗は暑さによるものではないことは分かった。


 恐る恐る教室を覗く。中は暗くて、埃臭く、薄気味悪い。

 カーテンは閉まっていたが、吹き込む風に揺らされていた。

 あったといえば部屋の真ん中にぽつんと1つの机。そしてその上の黒い物体。

 あの黒いのはなんだ?


 教室の中に入ろうかと立ちあがった。

 その時だった。

 

 「おい、神崎!何をしている!もう帰ったんじゃないのか!」 

 背後から怒号が響く。振り向くと、堂本が走ってこっちに向かってきていた。

 堂本に追いつかれる前に逃げ帰ってしまおう。

 階段に向かおうとしたが、最後に一回だけ教室の方に目をやった。 

 黒い物体が動いた、気がした。

 動いた?!

 驚いている暇はない。

 「神崎!待て!」

 俺は走り出す。

 無我夢中で階段を降り、玄関に向かう。階段を段飛ばしで降りていく。

 バン!バン!という着地の音がリズムよく階段に鳴り響く。


 堂本の荒い息遣いと足音が徐々に迫ってくる。

 もう、すぐ後ろに堂本がいた。

 最後の階段を半分ぐらいから跳び一階に着地する。訝しげな表情の他の先生、生徒たちを横目に必死に走る。


 玄関にもう着かんとする時だった。

 

 バタン!


 音が聞こえ、振り返る。

 階段のすぐ前で、堂本は足がもつれて転んでいた。

 その隙に玄関に向かう。

 堂本は立ち上がりこちらに向かってくる。

 堂本の顔を一目見て分かった。捕まったら死ぬ。

 玄関で靴を勢いよく取る。

 右、左の順でつま先を地面にコンコンと当てながら玄関を出る。


 堂本はなお追ってきていた。


 自転車置き場で自転車を取り、全力で校門を出る。走って勢いをつけて飛び乗る。

 初めは重かったペダルも徐々に勢いづいていき、風に乗る。

 

 逃げ切った。


 背後の堂本の怒鳴り声が遠のくのが分かる。

「神崎!戻って来い!」

 耳を澄まさないと聞こえないほど声が薄くなっていく。

「お前か!!ギ———」

 そこから先は蝉と車に掻き消されて何を言っているのか、ましてや何か言ったのかさえ、分からなかったが、


 お前か!!ギリギリまでいつも学校に残って電気代を無駄にしている奴は!!


とか、そんなところだろう。


 沈んでいく西陽を背に、俺は無我夢中で自転車をこいだ。



 自分の影を追いかけながら10分程漕いだだろうか。


 無論、もう堂本は追ってきていなかった。


 気づくと全身汗だくだ。近くにあった公園に入り自転車から降りる。今にも倒れこみたい。ブランコに乗り、お茶を流し込む。やっとひと段落だと、息をついた。

 体中から汗が噴き出すのを感じる。

 目の前の砂場では楽しそうに母娘おやこが遊んでいた。

 

 安堵と蒸し暑さに包まれる。


 ここは小さい頃、幼馴染とよく遊んだ公園で遊具一つ一つに思い出がこびりついている気がする。

 このブランコにもよく2人で隣り合って乗った。どっちが高くいけるかとか、遠くまで飛び降りられるかとか、しょうもない競争をしたものだった。その幼馴染とはもう会えない。


 ーこの世界は終わってるー


 胸の奥から何かが湧き出てきそうだったので抑えるために違うことを考える。


 そういえばあの黒いのは何だったのだろう。頑張って忘れかけているあの光景を思い浮かべる。思い出そうとするほどその光景が煙のようにぼやけて消え、ゴツゴツとしたシルエットが浮かんでくる。

 

 堂本だ。

 頭の中であるのに嫌悪感が湧いてくる。今頃堂本はどうしているのだろうか。

 堂本は熱しやすく冷めやすい。ゆえに、堂本は一晩で一日の怒りを忘れるということは1年生の頃、先輩から学んだ。

 堂本には自慢の娘がおり、その娘が堂本の怒りを忘れさせ、どれだけ怒っていても次の朝には上機嫌だと言う。


 堂本の娘にはいつか多大なる恩賞が与えられるべきだろう。いや、与えよう。

 堂本の娘は猫が好きだと言うことを耳にしたことがある。真偽はわからない。

 

 話が脱線したが、要するに今日中に学校に戻らない限り怒られることはない。

 それは「完全勝利」を意味する。


 別れの挨拶を交わす子ども達の声が聞こえる。

 烏が鳴く。

 カレーの匂いがする。

 おなかがなる。

 砂場では母親の方が立ち、帰ろうと促す。

 目の前で女の子が泣く、フリをする。


 そろそろ帰ろうか。

 そう思い、立ち上がったその時、ポケットから何かがするっと落ちていくのを感じた。

 

 シャン


 金属音が聞こえ、足元を見る。


 冷汗が背中を伝う。理性が「それ」を認識するのを拒否しているのが分かる。

 完全に勝ったと思っていたのに。

 垂れ落ちた汗が砂にじんわりと染みていく。


 足元には、教室の鍵が落ちていた。


 蒸した風が吹き抜ける。


 堂本の怒号が聞こえた気がした。

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