第9話 取材旅行
そんなことは言っていたけれど、やはり簡単に出来る話ではない。
難しい話だ。無理難題、と言っても良い。今、歩が言っていることは、逆立ちをしながら縄跳びでダブルダッチをしろ——と言っているぐらいの無理難題だ。
いや、ちょっと待て。その無理難題だと無理難題とは言えなくなりそう……か?
「……そんなことを言っている場合では、ないか」
再び、独居房。
パソコンが置かれて、ベッドも置かれて、呼べば欲しい物は大抵くれるこの部屋を、独居房などと呼ぶのは本当の独居房と比べると烏滸がましいのやもしれないけれど、しかしながらおれは間違いなくこれを独居房と呼ぶだろう。
軟禁だよ、これは。間違いなく。
「書け、って言われてもなあ……」
カレンダーを見る。一ヶ月半後——つまり来月のカレンダーにはでかでかと丸がつけられている。
これはおれが奮起してつけたものか? と言われると答えはノー、だ。
何故わざわざそんなことをせねばならないのか。そりゃあ小説を書かないといけないのは、十二分に理解している。歩が期待していることだって、分かっている。
さりとて、おれはそんな緊張感を持ってはいなかった。
数年間、書くことが出来なかった人間だ。
そんな人間が、いきなり一ヶ月半で十万文字を書くことが出来るか?
それを有識者に聞いたところで、殆どの有識者は不可能だと——出来るはずがない、と言うに違いない。
無理難題とはこのことを言うのだ。
逆立ちでダブルダッチ、なんてものではなく。
或いは、絶対に実現出来ないことを指しているのだろうけれども。
でも、時間は誰にも均しく流れていく。
それを肯定することも否定することも、人間からしてみれば烏滸がましい話だ。世界の仕組みを否定していることと、同じなのだから。
「やるしか、ない」
おれは、歩が言ったことを反芻する。
「……やるしかないんだよ、おれは」
これは、歩から提示された——いわばラストチャンス。
それをふいにするつもりはなかった。
なかったの、だが……。
「難しい話だよな、全く」
背もたれに寄り掛かり、独りごちる。
「だけれど、やるしかない」
それは、期待を裏切るから?
それは、背水の陣であるから?
それは、進まないと駄目だから?
答えは、そのどれでもない。
しかしながら、それを知っているのはおれだけ——いや、他の誰もが知らなくて良い。
これはそういう選択で、これはそういう方法で、これはそういう顛末だ。
先ずは一文字、されど一文字。
その一文字の重みは、おれにだって分かっていた。
◇◇◇
一週間後、おれは何故か歩と一緒に遊園地に来ていた。
「いや……何で?」
「取材だよ。別にそれ以外の意味はない。一応言っておくけれど、そういう気持ちもないから安心したまえ。あ、もしかして肇くんはそういう気持ち、あったりする?」
「ねーよ! ……いや、だから答えになっていないような」
朝六時に叩き起こされて何処へ向かうかと思っていれば……、しかも歩は深めの帽子にサングラスという感じで、ちょっとだけ変装をしているように見える。
「変装しないといけないぐらい、有名になっちまったのか?」
「きみは本当に疎い人間だよね……。一応、ぼくはデビュー作の発表時に顔写真を出しちゃっているんだよ。それからは、甘いマスクを纏った天才小説家だなんて言われちゃってさ。まあ、気分は良いけれど」
だろうな。
おれからしてみれば、ただの自慢にしか見えないけれど、
「あんまり卑下しない方が良いと思うよ……。人は誰にだって、他の人間には代えがたい何かを持っているものさ。肇くんだって、きっと何か才能があるはずだよ? 未だ本人にも、誰にも気付かれていないだけで」
そうかね。
才能というやつは、最初から存在しない可能性だって十二分に有り得るんじゃないのか?
「まあまあ、そう言わずに。今日は楽しもうじゃないか。ストレスも溜まっているだろう? 小説なんて全てが順風満帆に書ける訳じゃない。やはり何処かで立ち止まることもあるさ。さりとて、それを乗り越えなくてはならない。人間、いや、小説家というのはそういうものだから」
「んー、そんなことを言われてもな……」
「いやあ、急に呼び出して何かと思えば、こんな場所で何を?」
声がした。
振り返るとそこに立っていたのは、金髪にピアスをしている男だった。そこまで言えば完全にヤンキーかそれに近い存在であろうものなのに、まさかのスーツ姿ときた。そこまでするなら、他の身嗜みもしっかりしてはいかがだろうか? ——などとは、口が裂けても言えなかった。度胸がないからだ。
「近藤さん。急に呼んでしまって申し訳ないですね。仕事はお休みで?」
「……この格好を見てそう言うのなら、それはどんな嫌味ですか?」
「でしょうねえ。今日は平日ですから。いやあ、悪いことしちゃったなあ」
笑顔で言っているけれど、絶対そんなこと思っていないだろ。
言動と表情が一致していねえんだよ。
「……ところで、もう一人は?」
「いや、先ず既知の人間から紹介してもらえないか?」
流石に、ツッコミを入れない訳にはいかなかった。
「あー、彼は近藤さん。編集者だね、一応、ぼくの担当さん」
編集者?
「……編集者に見えない、って思ったんだろう? まあ、それは誰でも先ずは言われることだから、致し方ないことなのだけれどさ。で? 彼が以前見せてくれたプロットを書いた——」
「うん。肇くんだよ、村木肇、悪くない雰囲気でしょ?」
「え? お前、あのプロットを見せたのか? しかも、編集者に……」
「編集者ってのはその道のプロだからねえ。才能の原石、それを見つける審美眼を持ち合わせている」
「審美眼って、美しい物を見分ける才能ではなかったっけ……」
「派生して、そういった普通の人間には見つけられないようなものを見極められる——みたいな言い回しにも使うことも、ままあるでしょう。言葉とは、常に変わっていくものですから」
うわ、言っていることは結構まともだ。
どう考えても編集者には向いて居なさそうな見た目をしているのに。
「話を戻すけれど、もう一人は?」
そう。
誰もやってきた人間がたった一人であるなどは言っていない。
やって来たのは、二人。
もう一人はおかっぱ頭の小柄で、丸い眼鏡をかけたおっとりとした女性だった。
「冴木ちゃん、って言うんだけれどね。うちの新人編集です。本当は一年目って、単独で編集にはなれないんですよ。やっぱり下積みというか、他の編集のノウハウを盗み取ることも必要な訳。だから、最初の三年ぐらい……だったかな? は、ベテランのサポートをする立ち位置に居るんですけれどね?」
「……近藤さんにしては、話が見えてきませんけれど、要は何が言いたいんですか?」
「そりゃあ勿論。彼女を、村木さんの担当にしてもらえないかというお願いなんですけれど」
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