アナスタシア・コフィ・ロナ=ディアート〈後〉

 アナスタシアは部屋に戻るなりどさりと寝台に倒れ込んだ。

 ベラは死んだ。

 いつ?

 なぜ?

 あんなにヒューバートとふたりで可愛がっていたというのに、どうして……。

 なにも覚えていない。なにもわからない。どうして忘れているのだろう。どうして忘れていたのだろう。あんなに可愛がっていたはずなのに。

 ふと、鳥のさえずりがすぐ近くで聴こえて、アナスタシアは体を起こした。開け放たれた窓に、小鳥が一羽止まっているのだ。人に慣れているのか、近づいても飛んでいかない。アナスタシアは表情を和らげ、部屋に置かれていた焼き菓子を手に取った。

「お腹、空いてない?」

 アナスタシアは皿の上で菓子をほぐし、小鳥のそばへ置いた。小鳥はその小さなくちばしで皿の上の残骸をつついた。この部屋に、前にもこんなふうに鳥が来たことがあっただろうか? いや、ないはずだ。侍女たちが言うように猫をこの部屋で飼っていたならなおさら……。

 小鳥は皿のそばに立ったままアナスタシアを見るとチチッと鳴いた。

「おいしい?」

 再び鳴き声を出す鳥に、なんだか喜んでもらえたような気がして嬉しかった。ヒューバートに贈り物をしたことはない。いや、厳密に言うとずっと昔、幼い頃にはあるのだ。あるけど、でも――。そこでふと、アナスタシアの側頭部がつきんと痛んだ。

 なにか大事なことが己の記憶から抜け落ちている気がする。

 たとえば、そう、ヒューバートは昔から、あんなふうに自分に優しかっただろうか? 今の彼と昔の彼とを、まるで別人のように思うことはないか? …… そんな馬鹿な。だったら今の彼はなんだというのだ。

 再び側頭部に痛みが走ると同時に、いつかの情景が脳裏に浮かぶ。叩かれた手。壊れる贈り物。浴びせられる言葉。

「―― ッ」

 アナスタシアは痛みに耐えかねて寝台にうずくまった。

 そんなことはない。

 そんなことはなかった。

 だってヒューバートはいつだって優しい。

 私たちは想い合っている。

(…… でも)

 だったらどうして、ヒューバートは私と結婚してはくれないのだろう?



 きゃっ、という誰かの悲鳴でアナスタシアは目を覚ました。ただならない様子の声に体を起こすと、部屋が薄暗いせいでよく見えないが、なにか小さな物体が窓際の床に転がっていた。

「…… どうしたの、その……」

 アナスタシアは口ごもった。つい言葉にするのをためらったのは、その物体が昨日の小鳥に見えたからであった。

「申し訳ございません、アナスタシア様。すぐに始末いたしますので」

 侍女にうながされて身支度は別室で整えることになった。

(見間違いだろうか?)

  いいや違う、と自分のなかに浮上した考えをアナスタシアはすぐさま否定した。でも見間違いでないのなら、あの物体は昨晩の小鳥であのあと―― 私が菓子を分け与えたあとにああなったことになる……。

「朝からお見苦しいものをお見せして申し訳ございません。昨晩は風が強うございましたから、それで窓が開いてその拍子に鳥が迷い込んで―― きっと打ち所でも悪かったのでございましょう。アナスタシア様がお部屋にお戻りになる頃には元通りにしておきますので、どうぞお許しください」

「…… ええ。もちろんよ」

 侍女にすべての身支度を整えてもらうとアナスタシアは立ち上がった。



 王位継承の儀式は、王冠の譲渡によって行われる。この儀式におけるヒューバートの役割は、玉座の前に立つ王のもとへ王冠を持っていき、王の手から新王の頭へ王冠が被せられたあと、新王を国民へのお披露目の場へ連れていくことである。お披露目の際には国じゅうの要人、役人や大臣などの祝いの言葉を聞いて、それから長い宴が始まる。年頃を迎える貴族の息子らにとっては、ここがアナスタシアに直接会って己という存在をアピールできる唯一の場である。

 アナスタシアにとっては憂鬱だ。

 気持ちは嬉しい。ありがたいことなのだと思う。だけれど、応えられない思いほど受け取ることが辛いものはない。べつに、アナスタシアという人間を好いてくれているわけではないのはわかっているから、そんなに気負うことでもないんだろうけど。

「―― アナスタシア? 平気か?」

 少し休憩しようか、と覗き込んでくる従兄に、アナスタシアは慌てて首を振った。

「ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてしまっただけなの」

「でももうずいぶん長い時間練習してるし」

 やっぱり休憩しようとヒューバートは言って、部屋の中の椅子にアナスタシアを促した。それから少し待っているように告げると部屋を出て行った。ヒューバートは数分と経たないうちに戻ってきた。

「新しい王様に、ちょっと早いけど祝いの品だ。―― って言っても、買うように俺に言ったのは父上で、俺は選んだだけなんだけど」

 そう言いながら差し出してきたのは白猫だった。

「かわいい……!」

 猫はずいぶん人に慣れているらしくアナスタシアの膝に乗るなり彼女の指を舐めた。

「気に入った?」

「ええ、とっても」

 アナスタシアが心底嬉しそうに微笑むと、ヒューバートもまた笑顔を見せた。白猫は変わらずアナスタシアの指を舐め続けている。ふと、アナスタシアはそうだわ、と顔を上げる。

「この子の名前、お兄様がつけてくださる?」

「―― 俺が?」

「駄目かしら」

「駄目では…… ないけど」

 言って、ヒューバートは考え込んだ。しばらく考えたあと、

「―― ウィル、は、どうかな」

と提案した。

「素敵。それにするわ」

 アナスタシアはすぐさま賛成した。

「…… 継承式も、もうすぐだな」

「ええ。…… もし私が儀式の最中に失敗しても、笑ったりなさらないでくださいね」

「しないよ」

 ヒューバートは穏やかに返すが、それでもアナスタシアは不安そうな顔をやめなかった。そんな従妹の姿にヒューバートは「大丈夫だよ」と声をかける。

「練習だってきちんとやっているし、失敗することなんてないさ。したとしても、大丈夫だ。この国の者たちは誰も、おまえのことが好きなんだから」

「…… ありがとうございます。お兄様」

 アナスタシアはようやく笑顔を見せた。



 雨が降っていた。どこまでも続く真っ白な景色を眺めながら、今日は気温が高いのかもしれないなどと考えていると、部屋の扉が叩かれる。返事をすると、侍女が銀の盆を持って恭しげな動作で入ってきた。

「エロイーズ妃殿下から、差し入れでございます。明日の継承式に向けて、これを食べてしっかりと休むようにと」

 侍女は盆をテーブルの上に静かに置くと、そのままなにも言わずに退室した。

 白い陶器の皿にのせられていたのは砂糖がたっぷりとまぶされた焼き菓子だった。

(この国の者たちは誰も)

(おまえのことが好きなんだから)

「………… っ」

 ふいに側頭部が痛み始めて、アナスタシアは頭を抱えた。

 そんな言葉は聞きたくない。

 もう疲れた。もう嫌だ。

 がらん、と床に叩き落とされた盆がひっくり返るが、柔らかな絨毯の上では大きな音は出なかった。床に散らばった菓子に先日貰ったばかりの白猫が興味を示している。

「ベラ……」

 違う。ベラじゃない。ベラは死んだ。どうして死んだのだっけ?

 猫が菓子に鼻先を寄せる。舌を伸ばす。口に含む。歯を立てる。

「待って……」

 アナスタシアが制止するのも聞かず、猫はそれを嚥下してしまう。その瞬間だった。猫の小さな口から、赤いものが噴き出した。猫はぶるぶると震え、足元で苦しみ悶えている。アナスタシアはそれを静かに見つめていた。この光景は初めて目にするものでは、たぶんない。

 そんな予感がして、ああそうか、と合点がいく。

 ベラは、私が殺したのだった。

「…… なにが神聖…… なにが神の……」

 父が亡くなったのも、母が亡くなったのも。

 ヒューバートがアナスタシアをけっして愛することがないのも。

 私が今こんなに冷たい袋小路に追い詰められ動けなくなっているのも全部、なにもかも。

 私の瞳が青いせいにほかならないのだ。

「―― アナスタシア? 大丈夫か?」

 心配するような声に顔を上げて見れば、うっすらと開いた扉の隙間から従兄がそろりと顔を出した。彼は扉のすぐそばに倒れている猫を目にした途端、表情をこわばらせた。

「なにがあった?」

 誰が毒を盛ったかなんて、いまやもうどうでもよかった。

 たった今、この瞬間、目の前にある真実は、アナスタシアの大切なものはすべて、この青い瞳に奪われてしまったのだということだけ。

「…… もう、死んでしまいたい」

 その言葉を口にし終える終えないかというところで、肩に強い衝撃が走る。気づいた時には、アナスタシアは仰向けになって転がっていた。見えるのは正面にあるヒューバートの顔だけ。

「死んでしまいたい、だって?」

 彼はアナスタシアの肩を床に押さえつけたまま、普段の温和な表情からは想像もつかないような不敵な笑みを浮かべていた。

「青い瞳をもった、神の寵愛者ともあろうものが、死んでしまいたいと、そう言ったのか?」

 その表情は徐々に重く苦しく、アナスタシアを睨みつけるようなものへと変わっていく。その瞳を、アナスタシアはずっと前から知っていた。

「ならば聞こう。おまえにとってその瞳はなんだ? 呪縛か? 足枷か? ―― よく言う。持たぬ者の苦しみも知らぬくせに!」

 ああ。そうか。

 アナスタシアは納得した。思い出した。

 その瞳に映る、想いの名を。それは、嫌悪だとか嫉妬だとか、そういうなまやさしいものではなく。

 はっきりとした、憎悪だった。

 彼の背からなにか光るものが取り出され、アナスタシアはぞくりと身を震わせた。

 煌めく刃が迷いなく自身の腹部に突き立てられる。

「ああ…… っ」

 瞬間、アナスタシアは歓喜の声を上げた。じわりじわりと己の中心から感じる熱は、確かに彼自身から与えられているものだった。

 アナスタシアは笑った。自身では高らかに笑い声を上げたつもりでいたが、腹に力が入らず、出たのはか細い吐息だった。

「…… なにが可笑しい」

 それでも表情は緩んでいたらしく、アナスタシアの上でヒューバートが訝しげな視線を向けた。

「だって、こんなに嬉しいことってないわ」

 アナスタシアは自身を蝕む熱に堪えながら吐息まじりに言葉を紡いだ。

「ねえ、そうじゃありません? このまま私が息絶えたとして、これで私はすべて貴方のもの。貴方もすべて私のもの。なんて素敵なことでしょう。なんて素敵な結末でしょう」

 視界が霞む。比例するように腹部の熱は増していく。灼かれるような感覚に、なにも言わずにはいれなかった。

「ああ、わたし、やっとひとになれたのだわ。期待も羨望も、なにもかも捨てて、貴方の憎しみだけこの身に受けて死ねるのだもの。今この時だけは、自分がうつくしいとおもえるわ……」

 そうして、アナスタシアの意識は途絶えた。



 アナスタシアが目覚めたのはそれから数日後だった。

 何日も眠っていたにもかかわらず、周囲の人々はまるでなにもなかったかのように振る舞っているのが奇妙だった。たったひとつ違うのは、ヒューバートに避けられていることだけ。

(………… 失敗した)

 王位継承の儀式がもうすぐそこまで迫っている。今度こそうまくやらなければ。もっとうまく立ち回って、ヒューバートの大事なものをすべて根こそぎ奪ってしまいたい。

 そうすれば彼は、私のことをもっと強く憎んでくれるはずだから。

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きっとそこには理由があって 水越ユタカ @nokonoko033

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