きっとそこには理由があって

水越ユタカ

アナスタシア・コフィ・ロナ=ディアート〈前〉


 その刃が振り下ろされたとき、アナスタシアは歓喜した。

 彼女の十五年余りの人生において、ここまで喜ばしいことは一度たりともなかったのである。


 小国ロナ=ディアート。周囲を山に囲われた場所に位置しているために一年中雪が降りしきり、外からの干渉を最小限に断っている。

 諸外国から隔絶されたこの国には独自の王位継承の仕組みがある。

 王位を継承する証は名や血筋などではなく、瞳の色のみによって定められている。かつてこの地より魔を退けた英雄にして建国の祖ロナ=ディアートその人の瞳が、透けるような青色であったことがこのしきたりのはじまりである。

 それ以来、青の瞳は神に選ばれ、また愛された神聖な証として崇められ、そのような瞳を持つ者は身分や立場に関係なく王位に就くことになっている。

 現王の姪にして、国内で王のほかにただひとり、青の瞳を持つアナスタシアも例外ではなく、此度の成人の儀と続けて行われる王位継承の式典の準備を進めていた。

 とはいえ、ドレスの色はすべて侍従長に任せてあるし、そのほかのことだって王である叔父エイドリアンやその他家臣に任せてあるのでアナスタシアがやることと言えば体調を崩さないこと、式典の最中にあくびをしないことくらいだ。

 それでも一応目を通すようにと言われ侍従長に渡された式典の手順や、ドレスの見本絵を眺めていると、部屋の扉がコンコンと叩かれた。

「アナスタシア」

 開かれた扉の向こうから現れたのは従兄のヒューバートだった。王の一人息子でありながら、その瞳は青とはほど遠い、黄味がかったはしばみ色をしている。

「あら、もうそんな時間ですか?」

「ああ。母上はもう部屋で待っておられる。―― 式典用ドレスの見本か?」

「ええ」

「ひとつ贈ろうか」

 従兄からの不意の申し出は、これが初めてではない。アナスタシアはつい笑った。

「結構ですわ、ヒューバートお兄様。前に頂いたドレスだって、まだ着られていないものがたくさんありますの」

「たくさんあって困るものじゃないだろう?」

「いいえ、困ります」

 アナスタシアは立ち上がった。

「いくら王族といっても民の血税によって成り立っている暮らしですもの。お気持ちはうれしいですけれど、無駄遣いはいけませんわ。それに、これ以上増えたら置場に困ってしまいます。せっかく大切なお兄様に頂いた服を誰ぞに差し上げるなんて嫌ですもの。まして捨てるだなんてとてもできません」

 きっぱり告げるとヒューバートは渋々と言った様子で引き下がった。

「じゃあ、なにを贈ればいい?」

「なにも要りませんわ」

 部屋を出ながら真面目な顔で尋ねてくる従兄に、アナスタシアはそう返した。

「いつものお兄様でいてくださるだけで、アナスタシアはそれで充分。王位継承ののちも、時々お手紙や城へお顔を見せに来てくださるともっと嬉しいですけれど」

「…… どうかな、それは」

 長く薄暗い廊下でアナスタシアの半歩先を行くヒューバートは少しだけ顔を曇らせた。アナスタシアだってわかっている。王位継承権はなくとも、現王の一人息子、ハズウェル家の跡取りともなればきっと今以上に忙しくなるのはあたりまえだ。アナスタシアが王になったあとも、なにもかも今まで通りになんていくはずがなかった。

「…… ごめんなさい、お兄様。我が儘を言いました。アナスタシアは悪い子です」

「そんなに落ち込まなくても」

 顔をおあげ、とうながされ素直に従う。王たるもの、人前でうつむいてはならぬと教えたのは彼の父親だ。顔を上げて歩いていると周りがよく見える。―― 時には、アナスタシアが見たくないものまでも。

「お兄様と歩いていると、皆が見ているようですわ」

「どうして?」

「ご自分でおわかりにならないの? お兄様があんまりにも素敵だからに決まっているじゃありませんか」

 アナスタシアが後ろを振り返ってきっぱりと言うと、ヒューバートは「はっ」と短く笑った。

「そんなはずはあるまい」

 ヒューバートはズボンのポケットに手を突っ込みつかつかと足音を鳴らしてアナスタシアを追い越した。

「視線を感じるのはおまえを――、おまえが美しいからだよ」

 先を歩く従兄の背中は、なんだかいつもより小さく見えた。



 ヒューバートの母エロイーズは彼と同じはしばみ色の瞳をしている。

「式典の準備は順調?」

 叔母の問いかけに、アナスタシアは「ええ」と頷いた。

「おかげさまで、滞りなく進んでおりますわ。叔母様」

「それはよかった」

 エロイーズはにこりと微笑んで、向かいの椅子に座ったアナスタシアへ焼き菓子の乗った皿を押し出した。

「お茶もたった今淹れたところよ。ゆっくりしていって」

「ありがとうございます」

 アナスタシアは礼を言うと白い指先でカップをそっと持ち上げた。この国でよく飲まれている、ごく普通の紅茶だ。いい香りがする。アナスタシアは色と香りを確かめてから紅茶に口をつけゆっくりと飲み込んだ。おいしい。きっと侍従長が淹れたんだろう。

「ヒューバート、あなたもお食べなさいな。料理長に焼いてもらったのよ」

「…… ええ」

 ヒューバートは頷き、アナスタシアと同じような仕草で色を見、香りを嗅いだあと、少しずつ紅茶を喉に流し込んだ。三人でテーブルを囲い、しばらく紅茶や菓子を楽しんでいるとふと、エロイーズが「そうだわ」と口を開いた。

「ねえアナスタシア、陛下から聞いたのだけれど、前にも増して求婚や見合いの手紙が届いているんですってね?」

「ええ、そのようですわね」

 直接的な表現で結婚を申し込むような手紙ではもちろんないが、そういった手紙はたしかに多いと聞いている。けれどそのどれも、王である叔父エイドリアンのところで止められていて、アナスタシアはどこの誰からそのような手紙が届いているか知らない。王配となる者のことだ。家柄も人柄も、申し分ない相手でないとならない。

 エロイーズははあとため息を吐いた。

「もういっそ、ヒューバートが王配になってくれたらいいとわたくしは思うのだけれど」

「―― 母上、その話は」

 ヒューバートが割り込むと、アナスタシアも「そうですわ」と続いた。

「ヒューバート様は昔も今も私にとってはいいお兄様ですのよ、叔母様。結婚だなんて―― 夫婦になるなんてとても考えられません」

「―― そうね。でも……」

「母上」

 納得のいっていない様子のエロイーズをいさめるようにヒューバートが口を開く。

「アナスタシアもこう言っていることだし、この話はやめにしましょう。俺にとってもアナスタシアは大事な妹です」

 それに、とヒューバートはつとめて穏やかに続ける。

「アナスタシアの王配探しなら俺も父を精一杯手伝いますよ。どこの誰ともしれない、腰抜けの男にくれてやるわけにはいかないので」

「もう、お兄様ったら」

 アナスタシアが笑って、エロイーズもつられるようにして笑った。



 ―― 結婚か。

 成人と王位継承がずっと遠い未来の話でなくなった頃から、アナスタシアはその話題を無視できなくなっていた。ヒューバートと結婚できないことはない。だけど、彼の愛情が自分に向くことは絶対にないと思っている。

 王の子でありながら、継承権を持たないことへの失望、侮蔑、嘲笑。

 アナスタシアを嫌うどころか、憎んでいてもいいくらいなのに、あの人は相変わらず優しい。

 城の長い廊下を歩くアナスタシアの耳に、なにやら話し声が聞こえてきた。侍女が数人、廊下の隅に集まって話し込んでいるらしい。彼女らはアナスタシアが歩いてくるのを見つけると、深々とそろって頭を下げた。

「ねえあなたたち、ベラを知らない? 朝から姿が見当たらないのよ」

「えっ……?」

 飼い猫の所在を問うと、侍女のひとりが怪訝そうな顔をした。そして、隣の侍女と困ったように顔を見合わせる。どうしたのだろう。

「あの、アナスタシア様、畏れながら」

 彼女らも知らないとなると、窓から城下にでも降りたのかと考えていると、彼女らのなかでも年配の侍女が口を開いた。

「アナスタシア様が飼われていたお猫様は、つい先日に亡くなられましてございます」

 彼女の言葉に、アナスタシアは一瞬、黙った。

 そうだっただろうか?

 言われてみればそうだったような気がする。

「…… そうだったわね。ごめんなさい。忘れていたわ」

 アナスタシアはそう言って、ドレスをひるがえした。

 長いドレスを揺らして去っていく主人を見ながら侍女たちはひそりと会話を再開する。

「よっぽどショックだったのよ。ヒューバート様とふたりでずいぶん可愛がっていらしたもの」

「きっとまだ受け入れられないんだわ。新しい猫を連れてきて差し上げたら少しは気が紛れるんじゃないかしら」

 年下の侍女たちの言葉に、年配の侍女がそうね、と頷く。

「あとで侍従長に相談してみましょう。さ、私たちもいい加減戻らないと」



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