第7話
ヤバい。寝坊した。
休みの日はいつも昼近くまで寝ているから、そのクセが今日という土曜日に出てしまうのは、やめてほしかった。急いで身支度をして電車に乗ってから降りて、とにかく走った。スマホを見ると九時まであと十分。待ち合わせ場所が見えてきた。海辺の公園前にあるイルカカフェだ。通りに面したテラスがあって、文園はその付近にいるはずだ。
あっ、マズい。
パーカーを着てしまった。せっかくジャケットを用意していたのに、なんなんだよ。これじゃあコンビニで買い物する格好だ。いまから戻ったら確実に遅れることになるし、よくよく考えてみればラーメン屋に行くのにジャケットっていうのもヘンだ。
さらによくよく考えてみれば、たかだからラーメン食うのに、しかも一方的なおごりで財布の中身がスッカラカンになるというのに、朝から張り切っている俺はヘンだ。
文園が可愛すぎてテンション上がっているんだけど、さらにさらによくよく考えてみれば、あいつはドSな女子でけっこう暴力的で、性格もヘンなヤツだからな。たまに{おもらし}するし。平常心で臨めばいいんだ。なんともない。
待ち合わせ場所についた。九時五分前だから、セーフだな。さてと、あいつはいるかな。おもいっきり遅刻してきそうな気もする。なにせ文園だからな。
ここはカップルばかりだ。あっちを見てもこっちを見ても、恋仲まっしぐらなカップルばかりで目が痛い。男一人は気が引けるが、すぐにでもそちら側になるので気持ちに余裕がある。
ん。
いや、そう甘くはないかもしれない。
あの美男美女のカップルが目立っているなと思っていたら、女のほうは文園だ。男も見覚えがあるぞ。
「ああーっ」
あいつは、第二体育館を掃除した時にいきなり告白した一年生だ。たしか奥屋敷だったな。
おいおい、これはどういうことだ。待ち合わせ場所でほかの男とカップルになっているという、文園流のイタズラじみたサプライズなのか。
おっ。
文園が俺に気づいたけど、嬉々として駆け寄ってくる気配はなし。
あいつ、今日はポニーテールにしているな。しかも前髪多めは、俺の好物じゃないか。服も大人っぽくて高そうで、ブランドとかは知らないけどセンスがいい。大人な感じがする。
ここでブルッときた。
{ヘンなのにつかまった}とある。ニャンコが泣いているスタンプがいいあんばいだ。
{どういうことだよ}もちろん問い詰めるさ。
{だから、ここで津吉を待っていたら、あのときの一年生が偶然通りかかったみたいで、それからめっちゃウザい}
{追っぱらえばいいじゃんか」
{津吉がやってよ。この一年生、すんごく粘着するんだから}
どうやら、文園が待ち合わせ場所に立っていたら偶然奥屋敷が通りかかり、あれやこれや言って付きまとっているようだ。
邪魔すぎる。
かといって、俺が出ていくとなにかと勘ぐられてしまう。学校にチクられると三メートル以内接近禁止令違反で停学、最悪は退学だ。
文園、相変わらずのスマホながら見スタイルで一年生の口説きをかわし続けているが、どんなことを言われているのか、すごく気になる。まさか口説いている女子が、俺とやりとりしている最中とは夢にも思っていないだろうな。
{俺が出ていくとマズいから、近くで見守る}
{見守るって、なによ。ていうか、その服装なに?パチンコ屋さんにでも行く気なの}
{フードを被って、俺だとバレないようにするためだよ}とっさに思いついた言い訳だ。
{だったら、わたしを救出しなさいよ。すっごくウザいんだから}
すでにインターセプトコースに入っている俺なのだが、二人からちょっと離れて止まった。フードを被って顔を隠し聞き耳だけを立てて、とりあえず返信する。
{だから、それをやったらバレる}
{役立たずなんだから}
なんか、男として言われてはダメな言葉のように思えるのだが、まあ無視だ。不審者のフリをして見守ることにする。
「ホント、今日は偶然ですね。あ、文園先輩をストーキングしていたわけではありませんから。ていうか、もしそんな奴がいたらぶっ飛ばしてやりますから。僕ね、よく華奢にみられるんですけど、けっこう強いんですよ。じつは中学ではケンカ負けなしで、女子をイジメる奴をシバしばいたりしていたんですよ。ああ、もちろん、非暴力です。オーラだけでビビらせてしまうというか、友だちからはウラ番って呼ばれてました。それから」
奥屋敷の口調が滑らかすぎてヤキモキする。聴いているうちに憎たらしくなってきた。ゾンビに喰われればいいのに。っと思っていたら、ブルッと震えた。
{ゾンビに喰われればいいのに}と文園からきた。
あいつ、ぜったいに俺の心を読んでいるだろう。だけど同意見なのはうれしいなと思っていたら、もう一丁、ブルッときた。
{津吉が}
え、俺かよ。なんで俺がゾンビのエサになるんだ。一緒にラーメン食べに行って、隣の男の頭がゾンビに齧られていたらイヤだろう。腐臭が漂って食欲なくすって。
「そうだ、綾香先輩。これから映画を見に行きませんか。(おさるの戸締り)ってアニメが、めちゃおもしろいんですよ。僕、偶然にもタダ券をもっているんです。ペアシートなんで、ちょうどよかった。シネコンのバターチーズキムチポップコーンも、バカうまなんですよ」
奥屋敷のやつ、この場所にいる人たちを見て、文園が誰かと待ち合わせしているとは考えないのだろうか。いつの間にかファーストネームで呼んでいるし、グイグイと押している。こいつの勘違いしたポシティブさは見習うべきものがあるかもしれない。
「アニメ、大嫌いだから」
やんわりと断るのではなくて、ハッキリと鋭角的に、まったくためらうことなく拒否するところは文園らしい。女子にしておくのはもったいないくらいの雄渾さだ。ツンと相手を見る目線によどみがなく、なんか怖いな。いや、マジ怖え。
「だったら、恋愛映画はどうですか。いま、めっちゃいい話やってるんですよ。僕、偶然にもペアチケット持っているから行きましょう。ぜったい泣けますから」
こいつのポケットは五次元にでも通じているのか。
「そういえば、今日は一人で買い物って言ってましたけど、服とかですか。だったら付き合いますよ。男のアドバイスがある方が断然いいですからね」
文園、ここにいた理由を買い物とウソをついたか。まさかチャーシュー麺ニンニクマシマシ、ザーサイ麻婆豆腐追加ご飯大盛りでwith 同級生の男子、とは言えないよな。
「とりあえず、そこのカフェでお茶しましょうか。もちろん、僕のおごりですよ」
ほんとにグイグイ攻めるな。文園は相変わらず仏頂面で、無関心を装っている。これはどうしたらいいんだ。
そうだ、自販機でジュースを買おう。そして偶然通りかかったフリをしながらワザとつまづいて、転んだ拍子に飲むプリンをぶっかけてやるんだ。もちろん、奥屋敷にだ。ぶっかけを二度もやったのでは、文園母になにをされるかわからないからな。ドロッとしているからシャレにならないことになる。
いったん、その場を離れて自販機を探した。五十メートルほど離れたところに三台ほど並んでいた。残念ながら飲むプリンはなかったので、強炭酸コーラのペットボトルを買った。これをおもいっきり振って振って振りまくって、ぶっかけてやったらおもしろいだろう。ぜったいに楽しいぞ。
「うわー、両玖君だ」
いきなり後ろから俺の名を呼ぶので、反射的に振り返った。
「金城さん」
金城優奈がいた。周辺を探ってもツレらしき人物は見当たらない。どうやら一人みたいだ。
「そのコーラ、開けるときに気をつけたほうがいいよ。油断しているとおもいっきり噴くんだから」
その場面を想像してクククと笑っている。
「金城さん、ここでなにしているんだよ」
「それはこっちのセリフ。両玖君こそなにしてるの。不審者っぽいけど、テロの準備とか」
周りはカップルだらけの公園だから、フードを被った男一人は逆に目立つな。そして、このぽちゃ女子は、わりとハッキリとものを言う。
「いや、そのう、朝の散歩。日課なんだ」とウソをついてみた。
「へえ、両玖君の家ってこの辺なんだ。おしゃれなところに住んでるんだね」
「ええーっと、まあ」
多少の後ろめたさを感じつつ視線を逸らすが、金城さんはなぜか俺と向き合ったまま離れない。なんとなく気まずくて落ち着かない。
「金城さんも飲まないか。おごるよ」
「うわあ、うれしい。男の人におごってもらうのは、お父さん以外じゃ初めてかな」
「なにがいい」
「じゃあ、このめっちゃ濃いやつで」
めっちゃ濃いミルクティーを買って渡すと、すぐに開けて一口飲んだ。
「ありがとう。すごくおいしいよ」
ぽちゃっているけど、笑顔がすごくいい感じだ。おふくろさん候補にしてやりたい。
って、どうしてついてくるんだ。金城さんと並んで歩いているのだけど、これじゃあ、まるでカップルみたいだ。すーっと腕を組まれても、受け入れてしまいたい俺がいる。ぽちゃぽちゃしているから、心地よい感触のはずだ。
「ねえ、私たちって付き合っているように見えたりしてね」
「ハハ、そうかも」
金城さんは嫌いではない。むしろ、ちょっとばかりファンになっている。しかし、今日の目的地はぽちゃ女子ではなく、悪魔でも、おもらし女子なんだ。
「あっ、あそこにいるのは文園さんだ。男の人といっしょだ」
見つけてしまった。女子というのは、こういうことには目ざとい。マサイ族なみの視力を有しているんだ。
「ねえねえ、一緒にいる人って、この前の告白君じゃないの。へえ~、一年生とデートしてんだ」
「いや、偶然出会ったんだろう」
ここは否定しておかないといけない。強がりとか嫉妬ではなく、客観的な事実としてそうだからだ。
「だって、この場所に男女がいるっていうことは、彼氏彼女ってことなんじゃないの」
「それだったら、俺と金城さんもそういうことになっちゃうよ。あいつに文園さんを落とすのは、しょせんムリなことさ」
どこかキザっぽく言ってしまってから気恥ずかしくなった。あいつにぶっかけるつもりだったジュースを一口飲んで、気分を誤魔化そうとした。
「ゲッホゲホ」だが、むせてしまった。
強すぎるだろう、この炭酸。二酸化炭素をもっと大事に扱えよなあ。なんて思っていたら、金城さんが俺の腕を引っ張って、行ってはいけない方向へと進みだした。
「ちょっと、待って」と言ってみたが、柔らかで心地よい質量が俺をしっかりと誘うんだ。抗いきれずに、文園たちのもとへ来てしまった。
「文園さん、おっはよー」
文園の目がまん丸くなって、俺と金城さんを見ている。奥屋敷は怪訝な、そしてイヤそうな顔でチラッと俺を見た。
{どういうこと、どうゆこと、どゆこと、どゆこと、ドユコトドユコト、でーいーこと}
連射のようにメッセージが届く。さりげなくスマホを見ているが、指の動きは光速の二乗だ。俺はこう返すしかなかった。
{偶然、偶然、偶然、ばったり、バッタリ、バッタリ、ばったと出会った}
尻のあたりでスマホをタップするのは、なかなかの高難易度だ。
{ずいぶん、ふっくらしたバッタじゃないの}
{いや、金城さんがバッタじゃなくて、バッタリという意味。ひょっとしてディスってね}
{あなたがバッタリ逝きなさいよ、この薄情者}
{だから、偶然会ったんだって。そっちと同じ}
メッセージのやり取りは、ここで終了した。文園がスマホを仕舞い、俺も尻のポケットの中へとねじ込んだ。
「ええーっと、たしか綾香さんと同じクラスの先輩でしたよね」
「そうよ。私は金城優奈、そしてこっちが両玖君ね」
ちゃんと俺を紹介してくれるのはありがたいが、奥屋敷のやつ、こっちを見ようとしない。
「金城先輩とは、この前会いました。レベルの高い先輩だから、よく覚えていますよ」
「褒めても、なんにもでませんよ」と言いながらも、我がぽちゃ女子は満面の笑顔だ。
女子に限らず、それがたとえお世辞とわかっていても、異性からの誉め言葉は栄養満点だよな。
「ええーっと、それでお二人さんはどういう関係なの」
金城さん、恋愛のことに関してはストレートすぎる。もうちょっとオブラートに包んで訊いてほしかった。
「金城先輩からは、僕たちがどう見えますか」
奥屋敷のやつ、自信満々なのか質問で返しやがった。
「そうねえ」
ぽちゃ女子が奥屋敷ではなくて俺を見ている。その視線に意味を感じて、ちょっとドキドキした。
「まあ、ただの通りすがりでバッタリ会ったとか、かな」
ぷっ、と文園がふき出した。おそらく、バッタリの箇所でツボに嵌ったんだと思う。仕舞っていたスマホを取り出して、さっそくCの二乗だ。尻がブルッと震えた。
{バッタバッタ、バッタバッタバッタバッタ、ふっくらバッタ}
{だから、金太郎と銀五郎の命の恩人をディスるんじゃない}
文園と俺との光速の二乗SNSだ。お互い、尻でやり合っている。ヘンタイ同士ではない、念のため。
「そういう金城先輩は、その人とは付き合っているんですか。この前も一緒に掃除してたし」
ふつう、一年生が二年生を(その人)とは言わないよな。ちょっとムッとしてきた。
「おまえなあ、」と言いかけたところで、文園が口をはさんできた。
「その人、ではない」
「え」と、奥屋敷が訊き返した。
「だから、両玖先輩でしょ」
金城さんがそれとなく訂正した。一瞬奥屋敷の目が点となるが、すぐになにかを察したように頷いた。
「そうでした、すみません。両玖先輩ですよね、両玖勘吉先輩」
奥屋敷にとっては、してやったりの言い方だったようだが、反撃は予想外のところからつき刺さってきた。
「痛っ」と叫んで飛び上がり、尻を押さえてのダンスタイムだ。文園の必殺技、ちっとも安全ではない安全ピン攻撃だった。
「な、なんかいま、僕のお尻がハチに刺されたんです。僕のお尻がですよ」
「ぷっ」
「くくっ」
大仰な声で同情を誘い、歌舞伎役者のような表情をするもんだから、文園と金城さんがウケてしまった。
「この辺は海バチが多いんだ。気をつけたほうがいいぞ」
「え、マジっすか。てか、海バチってなに」
もちろん、海バチというのはテキトーなんだ。そんな謎生物、いるわけがないだろう。もし謎な生物がここにいるとすれば、それは学びの場でおもらしする最高の美少女しかいない。
「俺も一回刺されたことがある。あとで鬼のように腫れるから覚悟しておけ」
「マジっすか」
絶望する奥屋敷の顔を見て、文園が必死に笑いをこらえている。凶器となった安全ピンをそうっと金城さんに見せて、二人してニヤついていた。
「ねえねえ、文園さんは、ここでなにをしていたの」
「わたしは買い物に来ただけ。もちろん一人で」
「へえ、そうなんだ」
ぽちゃ女子の反応が平坦だ。ウソをついた文園は素知らぬ顔である。
「なんかメイクもキマってるし、素敵なイヤリングしているし、ホントに一人で買い物なのかなあ」
「店員にナメられないようにしなきゃいけないから」
疑惑の目線で見られても文園は平静を装う。
「金城さんはどうなの。まさかとは思うけど、そこの水かけイカ男とデートだったりして」
絶対にそれはあり得ないとわかっているくせに、あえて無理矢理な仮定を押し付けてきた。
「私はねえ、海を見に来たんだ。きれいな海が好きなの。だって近所はモノトーンで色彩の変化に乏しいから。両玖君とはバッタリ会っただけ。デートじゃないよ」
ブルッと尻のスマホが震えたが、今回は無視しよう。
「そうだ、せっかく会ったんだから、みんなで遊ぼうよ。買い物したり、カラオケしたり、きっと楽しいよ」
金城さんの提案だった。
「俺はそのう、文園さんとは三メートル以内の接近は禁止されているから」
タテマエとして言っておかなければならない。奥屋敷があとで通報するかもしれないからな。
「ここは学校じゃないから、その縛りは効力ないでしょう。たかだか学校法人の一つに過ぎないのに、日本国憲法で保障されている精神や身体の自由を制限できるはずがないよ。学校の外は、校則のアウト・オブ・眼中なんだから」
言われてみれば、たしかにそうだ。この女子、ふくよかな見た目に反して思考は鋭く論理的だ。
「でも、それは文園先輩がもちろんイヤでしょう。だって暴力をふるった男なんて、一秒たりとも一緒にいたくないですよね。DV男は、ぜったいにイヤですよね」奥屋敷がよけいなことを言うんだよ。
いやいや、暴力とかはしてないぞ。椅子は蹴っ飛ばしたけど、文園の体には一ミリたりとも触れていないからな。
「べつに」
さりげなく否定する文園を見て、金城さんが笑顔で頷いた。
「決まりね。じゃあ、どこ行きましょうか。そうだ、観覧車はどう。私、まだ乗ったことないんだ」
この海浜公園には、最近になって巨大な観覧車ができた。さっそく名物となってにぎわっている。じつは、今日そこへ文園を誘い込もうと算段していたのだが、先を越されてしまった。ガッガリしたい気持ちもあるけど、まるっきりダメになったわけでもないか。
「ほらほら、両玖君も来なさいよ。どうしても学校権力が気になるんだったら、二メートル九十九センチ離れてれば大丈夫だから」
いや、それでは三メートル以内に入っているじゃないか。ほんとうはアホなのか。
文園と金城さんが並んで歩き始めた。俺も遅れずについて行くが、邪魔な個体がくっ付いている。
「おまえも来るのかよ」
「その言い方、ひどくないっすか」
「おまえは偶然通りかかっただけだろう」
「先輩だって、そうでしょう」
「いや、まあ、そうだけど、一年が年上の女子と一緒じゃあ、なんかマズいだろう。年下にしろよ」
「僕の年下は中学生になっちゃいますよ。それって犯罪っぽいでしょう」
「だったら一年でも誘えよ。クラスに女子がたくさんいるだろう」
「この際だからハッキリ言いますけど」
奥屋敷が俺の前に立ってガンを飛ばしている。なんだ、やる気なのかと身構えた。
「クラスの男子は僕一人で、あとは女ばかりなんです。たまに話しかけられるときはイジられて、笑われて、お終いです。浮いてるんです。けっこう寂しいっす」
少し涙目になって力んでいる奥屋敷。俺と同じ苦労をしているのだとわかり、憎めないやつに思えてきた。気に入ったわけでもないけど。
「わかったよ。だけど、おまえにはおごらないからな」
「なんの話ですか」
しまった。いまの言い方だと、おごる相手がいると白状しているようなものではないか。
「先輩だからって、俺は気前よくないって意味だよ」
「そんなの知ってますよ。普段着がそれじゃあ、いかにも貧乏そうだし。逆に僕がおごりましょうか」
殴ってやりたかったが、そう思われても仕方ない俺がいる。ジャケットを忘れていたのが悔やまれる。
「自分の分はあるから、大丈夫だよ」
「それじゃあ自分の分は払ってください。僕は文園さんと金城さんの分を払いますから」
こいつ、点数稼ぎをしようとしている。そうはさせるか。
「いや、それは俺が払うよ。同じクラスなんだから」
「いやいや、両玖先輩ではダメでしょう」
「ぜんぜんダメじゃない。じつはけっこうセレブ」
「その恰好で散歩していたんですよね。セレブとかはムリです寒いです汚いです。職質されませんでしたか」
「されてねーよ。いいから、先輩にまかせろ」
「だから、僕が払いますって」
「いいや、俺が」
「僕が」
「俺が」
「二人とも、うるさい!」
振り返った文園に怒られてしまった。
「そんなにおごりたいのなら二人で出しなさいよ」
結局、俺と奥屋敷でおごることになった。
「お昼になに食べようかなあ。金欠だからちょうどよかった。すっごく楽しみ」
金城さんの食欲をナメてはいけない。俺は文園の分を出して、奥屋敷にまかせることにする。
「うっわ、間近でみるとめっちゃ大っきい」
「わたしも初めて見た。すごいね」
女子二人が観覧車を見上げて感動している。今日は晴れてどこまでも青空なので、確かに壮観な眺めだ。
ここの観覧車は、大きなゴンドラが売りだ。四人で乗ってもまだ座席が余るほどで、丸い形ではなくて、スキー場のやつみたいに四角形だ。
「僕と両玖先輩でおごりますから、ええーっと、二人ずつペアで乗りましょうか」
奥屋敷、それはナイスなアイディアだ。
「僕は文園さんと乗りますので、両玖先輩は金城さんとどうぞ」
ふざけんな。こいつは油断もスキもあったもんじゃないぞ。
「やったー。両玖君と一緒だ」と言って、金城さんが俺の腕に自分の腕を絡めて、さらに体をギュッとばかり押し付けてきたんだ。
ふっくら柔らかな感触が伝わってきた。これはこれで悪くない選択かもしれないと考えていたら、文園の凄まじく灰色の目玉が俺を見ていた。死んだ魚のような、負のオーラを出しまくっている。銀バエがたかってきそうで、俺はあらぬ妄想を振り払わなければならない。
「いや、公平にジャンケンで決めよう」と、とっさに言った。
「ジャンケンって、なんか久しぶり」
金城さん、とくに不機嫌になったりとかはしていない。よかった。
「負けないからね」と文園。
負けるとか負けないとか、そういう意図ではないのだが、この女子はわかっているのか。
「僕も、絶対に負けませんから」
俺も、おまえにだけは負けられない。
「さいしょーは、グー」早くも金城さんがゲームを開始した。
ちょっと待って。
こっちはまだ心の準備ができていない。精神をちょうどよく整えないと、勝負の前から負けが決まってしまう。でも間に合わないから、とりあえずグーを出しておく。俺にやや遅れて奥屋敷もグーを出した。展開が急すぎて、男二人がテンパっている。
「じゃーんけん~」
文園、わかっていると思うが、俺と一緒になることが最優先だからな。勝負とかムダにこだわるなよ。
「ポーーーーン」
勝敗が決まった。
「それで、なんで僕と両玖先輩が、このだだっ広い乗り物にいるんですか。ほかはみんなカップルばかりなんですけど」
「しょうがないだろう。勝負に負けたんだから」
ジャンケン勝負の結果、女子二人はグーを出し、男子二人はチョキを出した。文園と金城さんがペアで先に乗り、俺と奥屋敷が次のゴンドラに乗った。チケット代はこいつとの折半にした。
「男二人で観覧車に仲良くって、そういう関係だと思われるじゃないですか」
「個人の自由なジェンダーは尊重するが、俺はそういう感じではないよ。念のため」
「僕もですよ。念のため」
合意があって、なによりだ。
「先輩、もしも上の二人がそういう関係だったら、どうでしょう」
「文園と金城さんが」
愛らしいぽちゃ女子と、超絶美少女の濃密なるコラボか。
「うう~ん、すんごく萌えるな。イカン、鼻血が出てきそうだ」
「ですよね」
珍しく意見というか、趣向が一致したところで奥屋敷が上を向いて言う。
「ねえ、先輩」
「なんだよ」
「あそこいるやつって、ひょっとしてニャンコなんじゃないでしょうか」
「はあ? アホなのか。観覧車の屋根にネコがいるはずないだろう・・・、って、いるじゃん」
ゴンドラの天井部分は、かなりの部分が嵌めガラスとなっていて、上の景色が見えるようになっている。そこに動く物体がいた。
「三毛猫だ。どうして」
「危なくないっすか。ちょっとでも滑ったら落ちてしまって地面に激突ですよ」
「ネコって、高いところから落ちても大丈夫じゃなかったっけ」
「ある程度ならそうかもしれないですけど、ここから落ちて途中の骨組みの鉄骨にぶつかったら、さすがにヤバいでしょう」
畑を野良のトイレ代わりにされて、種を撒こうと思ったら茶色の塊が指にねっちょり付いてしまったことはあるが、ネコは嫌いではない。
「助けよう」
むしろ好きだったりする。ちなみにワンコもだ。
「ムリですよ。中からじゃ開かない構造になっていますから」
安全対策として当然だが、観覧車のゴンドラは中から開けられない。円周の最下地点に到達して、係員が開けてくれるまでは閉鎖空間となる。
「ああっ、動くな。じっとしてろって」
三毛猫はあきらかにビビっている。ゴンドラは頂点にも達していない。一周するまではまだまだかかりそうだ。それまでなんとか落ちずに踏ん張れよ。
「うわあ、け、けっこう風がすごいですよ。突風ですって」
いきなり風が強く吹きつけてきた 海風は急に変わるからな。
「ああ、ニャンコが、ニャンコが」
モフモフの動物が、風に吹かれるままにゴンドラの縁まで滑ってきた。野生の爪でひっかいているけど、もう足が空に浮いていた。バタバタさせてなんとか登ろうとする。
だがしかし、縁の部分は角が落としてあるので少し丸いんだ。引っ掛かりがなくて、ずるずると下がってきてしまう。落下するのは時間の問題だと焦った時だった。
ドタンッ、と天井に衝撃があった。
「な、なんだあ」
奥屋敷が焦って見上げている。ネコが落ちてしまったのかと思ったが、それならば静かになるはずだ。ゴンドラを揺らすほどだったので、相当の重量物が乗ったということになる。
「ひ、人がいる―っ。先輩、上に人がいますよ。人がいるって、勘吉」
一年のぶんざいでファーストネームで呼び捨てするな。いや、そもそも勘吉じゃないからな。
「ふ、文園先輩?」
「おっわ、文園。なにやってんだよ」
なんと、ゴンドラの天井にいるのは文園だった。あいつ、上のゴンドラから飛び降りてきたんだ。なんて無謀なことをするんだ。一歩間違えば死んでしまうぞ。
「ネコを救いにきたみたいですよ」
落ちそうになっているギリギリネコを抱き上げた。どうやって外に出られたのか知らないけど、上から見ていたんだな。なんせこのゴンドラ、床の一部もシースルー仕様になっているんだ。
「なんか、今日の文園さんは白みたいですね」
「ああ」
下からガラス越しに見上げているので 下着の色がわかってしまう。文園のスカートは、若干短めなんだ。
「見るなよ、この痴漢ヤロウめ」
「先輩だって見てるじゃないですか。すんごいしっかりとガン見してましたよ」
「うるさい。俺は状況を確認しているだけだ。どう考えても、ヤバすぎるだろう」
同級生の下着を愛でている場合ではない。ただでさえツルツルな足場なのに、突風が吹きつけているんだ。ネコを抱いたままだと安定しなくて、下手をすると滑り落ちてしまう。
ドンドンと、上から衝撃が降ってきた。文園が蹴りを入れて俺たちに危急を知らせようとしている。遠くの方から叫び声が聞こえるけど、おそらく金城さんがパニックになっていると予想する。すごく近くから、遠くの声が聞こえてきた。天井の天使からである。
「寒いんだから開けなさいよ」
「上に出入り口はないって」
「だったら、ドアを開けてよ。なんとか入るから」
「中からはムリだ。そっちの手は届かないのか」
「ちょっとやってみる」
ゴンドラの上で文園が腹ばいとなった。風が強いのか、俺の好物なポニーテールが煽られて、わちゃわちゃになっている。飛ばされないように、ネコが首元にしっかりとしがみついていた。
文園の手がドアの留め金付近をまさぐろうとしているが、残念ながらまったく届いていない。
「ぜんぜん届かないですよ、先輩。どうするんですかっ、責任とってください」
奥屋敷が俺を責め立てるのだけど、罪の意識がないのでリアクションのしようがない。それよりも突然降臨した堕天使とネコの回収に努めたい。ここからの眺めは最高だが、いかんせん風が強い。ビュービューって音が心臓に悪いんだよ。
「届かないからやめろ。それ以上身を乗り出したら落ちてしまうぞ」
今回は俺の忠告に素直に従ってくれた。諦めて立ち上がった。
「白ですね。やっぱり白はいいっすよね」
見上げて下着の色を楽しんでいる下級生を本気で殴りたくなった。
「ここのガラスを蹴って割るから、ちょっと端っこによけててくれる」
文園の声が、強い風の中でもハッキリと聞こえた。天井窓のガラスを割ってここへ降りてくるつもりのようだ。だけど、それは命取りになるかもしれない。
「やめろ」と言ったが遅かった。
「えいっ」と、かすかな掛け声が聞こえたかと思ったら、ドンときた。
「ヤバッ」
天井の窓はガラスではなくて透明な樹脂製だと、俺は気づいていた。そこを蹴っても割れずに足が滑ってしまう。案の定、つるんとなって尻もちをついた。さらにすすーっと流されて天井から落ちてしまう。
「やばっ」
だが、まだ落ちてはいない。腕一本で、いや、左手の指三本で窓枠の出っ張りに掴まっていた。
「津吉、津吉」
文園が俺を呼んでいる。絶体絶命とは、まさにこのことだ。
「うわあ、ヤバいヤバい。文園さんが落ちそうです。落ちてしまいますよ、これもうダメでしょう。僕たちが殺人犯ですって」
テンパっている奥屋敷がウザい。こいつにかまっているヒマはないぞ。俺の行動は決まっていた。コンマ一秒のためらいも許されないし、もうドアを蹴っていた。太ももに力を込めて、三度目にドアの留め金がぶっ飛んだ。
「よっし、開いたぞ」
ドアが開いた。すぐに身を乗り出して文園の救出をする。あいつがぶら下がっているのは角付近だ。若干の距離があるので、救出はギリギリになりそうだ。窓枠に指を引っかけて、片腕だけで空にぶら下がっている。文園母が見たら卒倒しそうな状況だ。
「奥屋敷、俺の腕をつかんでいてくれ」
「ぼ、僕は体力には自信のないイケメンですので」
言い訳がいちいち癪に障るが、いまはこいつを頼るしかないんだ。
「文園、もう少しだ。がんばるんだ」
「津吉、お願いー」
ゴンドラの外へ身を乗りだすが、あいつまでは微妙に届かない。もっと大胆に身を乗り出さなければダメだ。
「奥屋敷、引っぱり過ぎだ。もう少しゆるめてくれ」
「そんなことしたら、僕まで外に出ちゃいますよ。まだ童貞的な未経験者なんです。死ぬのはイヤです」
俺だってそうだし、文園だって、あくまでも希望的観測だが、おそらくそうだろう。だから、みんなが死ねないっていうことになる。
「俺をつかんで離すな」
「うわー、ムリムリムリ」
体のほとんどが外に出た。ゴンドラに残っているのは片腕の手首から先だけで、そこは弱気な一年生と繋がっている。足先を側面に押し付けて、なんとか踏ん張った。
「よし、つかまえた」
文園の体に左腕を回してガッチリとホールドした。これで引き寄せればいい。
「津吉」
「大丈夫だ、文園。このままゆっくりと中へ行こう」
「呼び捨て禁止なんだよ」
「すまない、綾香」
文園の体から十分な丸みを得たが、少し華奢にも感じた。女子の体は金城さんとの接触からフィードバックしているので、感覚がバグッているのかもしれない。もう少し上か下かの感触を確かめたい。
「こらっ、それ以上はダメ」
「すまない、抱えるのにちょうどいい場所を探していたんだ」ウソだけど。
「ウソね」見透かされるとは思っていた。
「痛、いて、こ、やめろ、やめなさいって」
めちゃくちゃパンチされていた。ポコポコと俺の顔面に連続してヒットしている。
「怒りのネコちゃんパンチを受けるがいい、ハハハ」
文園の首にしがみついているネコがネコパンチしてくるんだ。いちおう俺は助けに来ているのだが、どういうわけか敵認定だぞ。一歩間違えれば落下して激突死なのに、野生の暴力が止まらない。
「指に力が入らなくなってる。津吉、早くしてよ」
「わかった。だけど俺もほとんど外に出ているから、戻る力が入らないんだ」
「わたしを抱えているからね、ごめんなさい」
つねに勝気でツンデレな女子に謝られると、ものすごく申し訳ない気がする。腕の中にいる文園が愛おしくて仕方がない。俺なんかよりも、この女だけは助けなければと思うのは、おそらく本能なんだ。
「大丈夫だ、心配しなくていい。俺たちは、すぐにゴンドラの中だ」
「うん」珍しく、素直な返事だった。心臓のあたりがほんわかと温かくなった。
「俺にしっかりとつかまって離すなよ」
「わたしをつかまえているのは、津吉だよ」
今度はネコパンチが飛んでこなかった。ミャーと一言もらっただけだ。事態が良い方向へ向かっている気がした。
「奥屋敷、引っぱってくれ」
「できませんよ」
「なんでだよ」
「僕が非力だからです」
「非力なのかよ」
だがしかし、急ブレーキがかかった。あいつの腕力ではムリっぽいな。このままゴンドラが下に行くまで頑張るという選択肢もあるが、一秒でも早く文園を救いたいんだ。この場所と体勢は危険すぎる。
ネコパンチ、ネコパンチ。
「いたたたた」
ネコパンチを二回くらったので訂正すると、一秒でも早く文園とネコを救いたいんだ。
「いまいくよー」
唐突に太めの声が落ちてきた。上を見ると、ひとつ前のゴンドラの入り口に金城さんがいた。なぜか{気をつけ}の姿勢で立っている。
「危なっ」と思っていると、空中に一歩を踏み出した。そのまま落下し、俺たちのゴンドラの天窓を突き破って着地した。背筋を伸ばして両手をあげてポーズをキメる。それは体操選手のフィニッシュであって、ぽちゃのわりには姿勢がいいぞ。
「うっお」
びっくりした奥屋敷がコケそうになった。こいつの手が離れると、俺たちは落下してしまう。
「おい、ばか、離すな」と言った瞬間に離れてしまった。ふっ、と空中に浮かんだ気がして絶望する。
「はい、つかまえた」
だが次の瞬間には、ぽちゃ堕天使が俺の腕をガッチリと掴んでくれたんだ。
「金城さん、そのまま引っぱっててくれ」
「あいさー」
市場のおかみさんみたいな威勢のいい相槌が返ってきた。
心強い支柱を得たので、力を振り絞って慎重に横移動する。とくに文園を抱えている左腕にはメガトン級のエネルギーを充填した。金城さんのバカ力で引っぱってもらい、二人と一匹でなんとか空中回廊を渡りきった。倒れるようにゴンドラの椅子にもたれかかって、安どのため息をつく。
文園の首元からパッと三毛猫が飛び降りて、対面に座っている奥屋敷のお腹に乗った。そんで、顔面に向かってネコパンチネコパンチネコパンチ。
「あぎゃ」
金城さん、文園、俺の順番で爆笑した。
とくに文園のツボに嵌ったらしく、こらえきれないのか腹を抱えてジタバタしている。ネコパンチを嫌がっていた奥屋敷だが、可愛い先輩に笑ってもらえるのが嬉しいのか、かえって顔を突き出してネコパンチを甘受していた。そのマヌケな仕草に、金城さんが大ウケだった。
それにしても、難攻不落の樹脂ガラスを突き破った金城さんはすごい。文園の蹴りにはビクともしなかったのに、{気をつけ}姿勢の落下だけで破壊するとは、彼女の質量ポテンシャルが計り知れない。やっぱりアインシュタインは正しかったんだ。
「よくドアがあきましたね。僕たちのはしっかりと施錠されていたのに」
「留め金が、ちゃんと掛かってなかったみたい。バイトのお兄さんの不手際だけど」
「でも、そのせいでネコちゃんを救えた」
金城さんと文園はネコを救出できたことに満足しているが、俺は違う意見を持っている。これは言っておかなければならない。
「ちょっと言わせてもらう。文園、金城さん」
俺は二人の前に立った。
「もう二度とするな。たまたまネコを救うことができたけど、まかり間違っていたら二人とも死んでたんだぞ」
けっこう強めに言ったんだ。これは、おふざけなしのマジ説教だ。だって、動いているゴンドラから飛び降りるなど正気の沙汰ではないだろう。危険というよりも無謀でしかない。たとえ小さな命を救うためでも、絶対にやってはダメだ。
「まあ、ちょっとやり過ぎたみたい。ガラスも割っちゃったしね。てへへ」
金城さんは反省しているようだ。だけど、文園は口を真一文字に閉じてあっちの方を向いていた。良かれと思って命がけで行動したのに怒られてしまって腹が立つ、といったところか。
「文園、わかっているのか。死ぬところだったんだぞ。下手したら金城さんも巻き込んでいたんだ」この深追いは余計だった。
文園は腕を組んで、ついでに足も交差させた。いつものような偉そうな態度ではなくて、拒絶の強さを示したんだ。そのあまりにもつっけんどんな態度に、もう二度と口をきいてくれない気がした。
「両玖君、私は自分の意志で飛び降りたんだから、文園さんは関係ないよ」
「まあまあ両玖先輩、落ち着きましょうよ。綾香先輩はニャンコを救おうとしただけですって」
二人になだめられて、俺はそれ以上の追及はしなかった。文園は相変わらずあっちを見て、ガン無視状態だ。なんだか憎らしいような、それでいて慈しみたいような、形容のできないヘンな気持ちになった。
雰囲気が十分に悪くなったところで、割れた樹脂ガラスの破片を足の先でいじくりながら、金城さんが言う。
「これって弁償しなきゃいけないかな」
「大丈夫だよ、それは、俺が払うから」とカッコつけて言ってみた。文園は無表情だ。
「だけど両玖先輩、これって、けっこう高そうですよ。たぶん、十万円以上はする」
「マジか」
悲報だった。そんな大金は持ってない。
「両玖君、ムリしなくていいよ。壊した私が弁償するから」
金城さんのありがたいお言葉だが、心なしか声のトーンが低い。十万円とか、俺たちに無理すぎる大金なんだ。
みんなで意気消沈していると終着駅に着いてしまった。蹴破られたドアと天井の破壊具合に気づいた係りのお兄さんが、目を丸くして驚いている。どういうふうに切り出そうかと思っていたら、文園がとんでもないウソを言い出したんだ。
「なんかあ、上からネコが降ってきて、ガラスを突き破ったんですけど」
抱いていた三毛猫を突き出して、しかもやや責め口調で迫ったんだ。大学生バイトらしきお兄さんがキョドっている。ネコは、シュッシュとエアーパンチを繰り出していた。
「わたし達、危うく怪我しそうになったんだけど、あなたの責任問題ですよ。上の人にちゃんと言っておいてください」
文園、その強気は勘違いしているぞ。悪いのは俺たちであって、そのお兄さんは善良なバイトさんなんだ。
「じゃあ、そういうことで」
あくまでも被害者ヅラして、俺たちは観覧車から離れた。最初はゆっくりと、ある程度遠ざかったところで猛然とダッシュだ。先頭は文園なのだが、これが案外と逃げ足が速い。
「なんか、うまくいきましたね」
「十万円を弁償しなくてよかった。ご飯が食べられなくなっちゃう」
金城さんがホッとしている。やっぱり食欲って大事だよな。
「津吉、いまのは貸しにしとくから、みんなにクレープをおごりなさいよ」
「いやいや」
どうして俺が悪いことになっているんだよ。だけど文園が口をきいてくれたのはうれしい。緊張が抜けたら、お尻が痒くなった。どういう感情の発露なのだろうか。
クレープをおごることになったので、ワゴン車店舗の前で待っていると、文園が来たんだよ。
「一人じゃ持てないでしょ」
持てないこともないが、助っ人がいるのはありがたいし、それが文園であることにディスティニーを感じてしまっていいだろうか。
「なあ、怒ってないのか」
「なんのこと」
「だから、さっきの俺の態度っていうか、ちょっと言いすぎたかもしれない。ごめん」
「謝ることなんてない。間違ったことは言ってないでしょう」
「だって、怒っていただろう」
「呼び捨てにされていたからよ。あれほど言っているのに、また文園って呼び捨てだから」
「金城さんと一年生がいるのに、綾香さんとは言えないだろう」
「どうしてよ」
「いや、それはなんというか、なんというか、なんだろう」
「あの一年生でさえ綾香さんって呼ぶのに、あなたはなんなの。それでも男なの。情けない」
そこまで言われて黙っている俺じゃない。かといって、金城さんたちの前で綾香さんと呼ぶのはすんごく恥ずかしくて意識してしまう。
「じゃあ、ふみちゃんって呼ぶよ」と告げると、バシッとワゴン車の車体を叩いて、キッとした顔で睨みつけてきた。
「キモイわ」
「いやいや」
「ふふふ」
「あはは」
いつか通過したデジャブを感じつつ、俺たちはお互いの顔を見て笑いあった。
「クレープが待ち遠しくて来ちゃったんだけど、まだかなあ」
甘いものの誘惑に辛抱たまらず、金城さんが来てしまった。俺と文園は、お互いに対して知らん顔でそっぽを向く。食いしん坊女子もそうだが、彼女の後ろについきている奥屋敷には要注意だ。いろいろと勘ぐられたくはない。
「はい、じゃあ、これは金城さんに」
ちょうどよくクレープができあがったので、文園が受け取って、最初のイチゴたっぷりのやつを食いしん坊女子に手渡す。生クリーム大盛り仕様なので、満面のぽちゃ笑みがステキだった。
次のチョコレートたっぷりなやつは俺に、文園本人には南国フルーツ盛りだくさんのトロピカルなクレープだ。ただし、支払いは俺の電子マネーからである。この先、お昼の中華三昧が控えているので、チャージポイントの減り方には気をつけたい。
「ちょっとこれ、ひどくないっすか。僕のだけスッカスカですよ、スッカスカ」
奥屋敷のは一番チープなタイプだ。見た目は、素クレープである。もちろん、選んだのは文園なんだよ。俺がイジワルしたわけではない。
「餡子が入っているんだよ。ちゃんと見ろよ」と元気づけてやった。
「あ、ほんとだ。下の方に少しあんこがあります。てか、クレープにあんこってヘンじゃないっすか。なんかヘンっすよね。ヘンじゃね」
餡子少年を気にせず、俺たちはベンチに座った。文園の機嫌がよくなったのが朗報だ。もう一生口をきいてくれないと心配していたから、このタイミングでの糖分補給がちょうどいい。
「ねえ、次は映画を観ようよ。一年生君、チケットをたくさん持っているようだし」
どういうわけか、奥屋敷の五次元ポケットを知っている金城さんが、映画鑑賞を提案した。
「どんなのにしますか。あるのはアニメと恋愛と、あとはくだらないホラーです」
こいつ、ホラー映画のチケットも持っていたのか。ポケットが五次元ではなくて、トワイライトなゾーンに繋がっているんだな。
「くだらないホラー映画がいい」文園の趣味は、そうだと思った。
「私もホラーかな」と金城さん。ぽちゃ娘がホラー好きなのは意外だった。
「俺はアニメがいいかな」
オタクというわけではないけど、アニメはわかりやすいからな。
「却下!」文園がきびしいぞ。
「アニメはテレビで見てるし」と、金城さんも冷めた顔だ。
「先輩、キモオタだったんですか。ヤバすぎますよ」奥屋敷にまでバカにされてしまった。
おまえはアニメのチケットも持っているだろう。さっきそれで文園をナンパしようとしたじゃないかよ。俺が選んだからって、否定するんじゃねえよ。アニメは素晴らしいんだよ、アニメは。
「ねえ、一年生君。いまはどんなホラー映画やってるの」
「ええっと、血の配達屋さん、ていうクソくださらないやつです。それと僕は一年生君ではなくて奥屋敷飛翔です。つばさ、って呼んじゃってもいいんですよ」
「いかにも低予算なB級って感じよね」
「ほんと、キラキラネームってダサい」
金城さんと文園にやり取りに、微妙なズレがあるのがおもしろい。
「それって、僕の名前のことをいっているわけではないですよね」
女子二人がクスクス笑いだ。奥屋敷がぶ然としている。
結局、くだらないホラー映画を観ることになってしまって、俺たちはモール内のシネコンへ行った。映画館の受付にて、奥屋敷の魔的ポケットからチケットが披露されたが、ちょっとばかし足りない気がする。
「二枚しかないじゃないか」
「ペアで行くことを想定していたので、もちろんそうですよ」
「どうするんだよ」
「チケットは綾香さんと優奈さんに使ってもらいます。僕と先輩は自腹ということで」
こいつ、しれっと金城さんのことを優奈さんと呼んでいる。厚かましいにも程があるが、これくらいナンパなやつが女にモテるんだろうな。くやしいけど勉強にはなる。
「お金ないんだったら、おごりますか」
「いいよ、大丈夫だよ。俺はセレブなんだから」
映画代はチケットをもらえると皮算用していたので、自腹となるのはガッカリだ。
「じゃあ、行こうか」と言ったところで、文園はあっちを向いた。あれ、と思っているとスタスタと歩き出してしまう。他人行儀どころではなくて、俺から遠ざかりたい意志が満ち満ちている。
「文園さんはどうしたんだろう」
今度は金城さんに言ったのだが、なぜか彼女も同じ態度になって行ってしまった。質量がある分だけ、その踵返しはドッシリとしていた。
「先輩って、じつは嫌われてますよね」
奥屋敷にそう言われた刹那、後ろにイヤな気配を感じたんだ。本能が危機を察知したのだと思う。
「あ」
「おわっ」
なんと、井沢茜がいたんだよ。
「な、なんで、あんたがいるわけ。ひょっとしてストーカー」
「そ、そんなわけないだろう」
イヤな気配は一つだけではなかった。
「わあー、両玖がいるう」
「ヤバいやつがいるじゃん。茜がピーンチ」
「ぶっかけられるよ、ぶっかけ」
井沢のほかに三人の女子がいた。同じクラスの連中で、全員俺に対して容赦がない。
「一人で映画観に来るとかキモすぎ。ボッチは死ねよ、虫けら」
吐き捨てるように言われてしまった。
俺は一人ではなくて四人、しかも男女混合で、女だけで来ている井沢よりは優越していると心の中で歌っていると、なんか孤独を感じてきたんだ。
「あれえ、みんなどこ行った。誰もいねえじゃんか」
文園や金城さんだけではなくて、あのウザい奥屋敷までがいなくなっていた。
「ああ、そうか」
俺と一緒のところを同じクラスのやつらに見られるとマズいからな。両玖菌に感染してしまい、みんなからハブられてしまう。だから、とっさに逃げたのか。うう~ん、まあ、仕方ないか。とくに文園は三メートル以内に近づけない。罰せられるのは俺だ。
映画館の中で合流すればいいと考えて、とりあえずチケットを買って、井沢たちから離れた。ホラーらしく四番スクリーンで 土曜日だから人が多い。くだらないホラー映画にお金を使うなよな。やっぱりアニメだっただろうと思っていたら、ブルッときた。文園からだ。
{どこにいるの}
{前のほう。そっちは}
{後ろのほう}
文園と金城さんはペアチケットなので一緒にいる。混んでいたので後ろへの座席指定ができず、俺はかなり前側の座席となってしまった。
{茜たちがいたから逃げてきちゃった。グレないでよ}
{めったくそに罵倒された。なぐさめてほしい}これはちょっと甘えすぎだった。
{キモッ、キモッ、死になさい。ホラー映画で死になさい}と返されてしまった。亡き者にされないうちに話題を変えた。
{奥屋敷がいない}
{わたしたちと一緒だよ}
あいつ、ちゃっかり文園にくっ付いていやがる。抜け目のないやつだ。
自分の指定席を離れて文園たちのもとへ行こうとした。近くの人に頼んで席を替わってもらう算段だ。その時、ブルッと震えた。
{茜がキターッ、よ}
なんと、井沢たちが入ってきたではないか。あいつら、よりによって、こんなクソくだらないホラー映画を選んだのか。
「まずいっ」
すぐに着席して素知らぬ顔をしていると、さらに良くない偶然が重なる。
「ちょっとー、ウッソでしょ」
俺はもっとも通路側の席なのだが、すぐ横に井沢が来て見下ろして言ったんだ。
「どっか行けよ、クズ男」
「ここが俺の席だ。ちゃんと金は払っているから、文句を言われる筋合いはない」
どうやら井沢の席は俺の隣のようだ。連れの連中は少し離れたところに固まっている。混んでいたので、こいつも一人だけ流されたんだな。
「クソが」と言って俺の前を通った。わざと膝をぶつけてきて、さらに痛くはなかったけれど蹴られてしまった。口の悪さもだけど、けっこう暴力的な女だ。我がクラスのサディスティック女は文園だけではなかった。まあ、知ってたけどな。
落ちるように隣の席に座って、不機嫌というか、敵意のオーラを全開にしている。
ブルッとした。後ろの女子からのSNSだ。
{敵と一緒になるな}とのこと。
{指定席だから仕方ない。やっぱアニメ観るか}と返した。
{ホラー映画は神}
文園はホラー属性な女かもしれないな。ナマンダブナマンダブ。
なんだかんだで映画が始まった。せっかく女子との初映画鑑賞だったのに、文園ではなくて井沢というのが、ホラーな感じだ。
オープニングから柑橘系の酸っぱい匂いがしてくると思ったら、井沢が冷凍ミカンを食べていた。そんなものどこに売っていたのかと呆れていたら、プシュッと飛んできた汁が目に沁みた。
「アチッ」て呻いてしまったらブルッときた。
{冷凍ミカンの汁で熱いって、www~}
文園のやつ、かなり後ろの席にいて、しかも暗いのに、よくこっちが見えているよな。どんな眼力してるんだよ。やっぱりホラー属性の怖い女なのかもしれないぞ。まあ、可愛いからいいんだけどな。
冷凍ミカンの汁と匂いが気になっていたけど、グロいシーンになってきてから映画に集中してきた。低劣でくだらない内容だが、目を離すのはもったいない。料金分は観てやろうと思っていた。
だけど、今度はバリバリポリポリとうるさい。井沢のやつ、冷凍ミカンの次は煎餅を食べ始めたんだ。しかも、満月みたいにデカいしょう油煎餅だ。どこに隠し持っていたんだ。ばあちゃんかよ、ったく。
ブルッときた。例のごとく、文園からだ。
{うるさい}
{俺じゃない}
{取り上げなさいよ}
{他人のものだからムリ}
そんなことしたら、井沢になにをされるかわかったもんじゃない。殴られるかもしれないし、警察を呼ばれてしまったら最悪だ。
「ちょっとー、クズのくせして痴漢するのかよ。キモいからあたしの足を触るな」
煎餅をバリバリ食っていた井沢が唐突に絡んできた。いったいなんのことかと、小一時間悩んでしまうじゃないか。
「なんで俺が痴漢なんてするんだ。ふざけるな」
「クズのくせして、あたしのこと可愛いとか言ってただろ」
「じつは、あんまり可愛くない」
「はあ? ぶっ殺してやろうか」
いちおう、小声での会話だった。俺も井沢も顔を合わせたくないので、前を向いていた。
「うわっ」
スクリーンを観ていたわけなんだけど、いきなり激烈グロ・ゴア・ゲロシーンとなった。くだらない映画のわりには斬新な映像だったので、痴漢と言われたことを忘れて見入ってしまった。井沢も同様で、バケモノの内臓がとび出したところで短く悲鳴をあげた。
「きゃっ」
その時だった。
俺の足元の暗闇からなにかが飛び上がって、それが井沢の顔面に貼り付いたんだ。
「フェ、フェイスハガー」、だと思った。
だって、突然飛んできて井沢の顔全体をガバーッて覆っているんだ。ホラー映画で、ちょうどグロいシーンが続いていたから気持ちがバグってしまった。
「ンンンンンンーーーー」
井沢が呻いているんだけど、よく聞こえない いったいなにが貼り付いたのかとまじまじと見たら、正体がわかった。
「ネコだ。さっきのやつだ」
観覧車で救った三毛猫だった。あのあと、どこかに行ってしまったのだけど、しっかりと俺たちについてきていたのか。全然気づかなかった。
ということは、井沢の足を痴漢していたのかコイツだったんだな。ネコは柑橘系が嫌いだから、冷凍ミカンにイライラしていたんだ。怒ってネコパンチをしていたけど、気まぐれな獣らしく顔に貼り付いてしまったということか。これだから、ネコ科は可愛いんだよ。
「・・・」
井沢が、顔にネコを貼り付けたままスーッと立ち上がり、気をつけの姿勢をして数秒間停止していた。なにが起こったのかと、周囲の目が彼女を見つめている。スクリーンには、このホラー映画で最悪・最恐の超絶グロシーンが映し出されていた。
暗がりに、顔の部分が{毛もじゃ}の人間がいる。ホラー映画と現実の出来事がリンクした。カチリ、とスイッチが入った音がしたんだ。
「ギャア」とか、「うわあ」とか、俺の周辺がすごく騒がしい。井沢が歩き出したけど、前が見えないので、椅子にぶつかったり人に体当たりしたりで、よけいに混乱を引き起こしていた。ゾンビみたいに両手を出して、ウロウロしているんだ。ネコを引き剥せばいいのだけど、得体の知れないものを触る気はないみたいだ。
「お化けーっ」
小学三年生くらいの女の子が叫び、「えいえい」とネコ井沢の脛を蹴っていた。このホラー映画を小学生が観ているのはどうかと思うんだけど、それよりも場内の騒々しさがハンパない。
あっちにこっちに井沢がうろつき回っているので、まるでゾンビに追われているかのようにパニックとなっているんだ。
「津吉、こっちよ」
騒動の真ん中で、ぼーっとつっ立っていた俺の手を引っぱっているのは文園だ。二人で 群衆をかき分けて劇場の通路に出た。
「あのネコ、文園が連れてきたんだろう」
きっとそうだ。めちゃくちゃ可愛い顔しているくせに、意味不明な行動をする女だからな。
「呼び捨て禁止」と注意された。
「綾香が井沢にネコをけしかけたんだろう」
「呼び捨て過ぎなんだけど」
「いまは緊急事態だから、やぶさかではないんだ」
「茜はニャンコアレルギーで有名だから、イタズラしただけよ」悪びれる様子もなく言うんだ。
「ちょっと、やり過ぎだぞ」
けっこう大きな事件になっている。俺たちの周りも、右往左往する人でごった返しているからな。
「(ちょっと)と(やり過ぎ)を、言葉としてつなげるのはヘンだわ」
「屁理屈を言うな」
ドンと通路の壁を叩いた。初めて壁ドンしたけど、けっこう手が痛い。
「屁理屈を言う女を、津吉は嫌い?」なぜか、潤んだ瞳でそう問いかけてきた。思わず息をのんでしまう。
「いや、別に、そういうのもアリかもしれないけど、なんだ」
「そう、だったら」
お互いの顔が近づいている。周りはすごく騒がしいのだけど、俺たちだけの空間は静かすぎる。
「うわっ」
誰かが俺にぶつかってきた。勢いがあったので横にふっ飛ばされてしまう。膝頭を打ってしまったので、抱えながら立ち上がった。
「いててて」
「す、すみません。バケモノがウロついてたもので・・、って、先輩じゃあないですかあ」
奥屋敷だった。すっごく決定的な場面になろうとしていたのに、ちょうどよく割り込んできやがった。まあ、でもホッとした気持ちもある。まだドキドキが治まらないんだ。文園は、あっちの方を向いて他人のフリをしている。
「綾香さんもいたんですね、よかった」俺たちを探していたのだと言う。
「金城さんはどうした」
「私ならここにいるよ」
「うわ、ビックリした。いつの間に」
金城さんが後ろにいた。
「ずっといたよ。声をかけようと思ったんだけど、微妙なタイミングだったから」
壁ドンの顛末を見られていたようで、ニヤニヤしながら俺の顔を手招きする。耳を貸せとの指示なので、そうしてみた。
「女の子にはやさしくだよ、両玖君」と耳打ちされた。
顔が真っ赤になった。文園はというと、すっ呆けた顔して奥屋敷と話をしている。さっきのことは、どう思っているのだろうか。ひょっとすると俺は攻めすぎたのかもしれない。あいつの心の準備は整っていたのかな、などと考えていると金城さんが叫んだ。
「うわー、なんかキター」
向こうからネコ井沢がやってくるではないか。前が見えないので両手を突き出したゾンビ歩きで、人にぶつかったり壁に激突している。とりまきの女子たちはどこかへ逃げてしまったようだ。
「ねえ、あの人の顔にくっ付いているのって、ネコちゃんじゃないの」
「さっきの三毛猫が井沢の顔にくっ付いてるんだよ」
「えっ、あれって茜なの。ゾンビのマネしたヘンタイ異常者かと思った」
金城さん、知ってて言っているような気がする。ニヤついているからな。
「もう、いいかげんネコをとってやらないとな」
「そうだね。このままじゃあ警察が来そうだし」
観客たちの多くは、まだパニックを続けている。ネコアレルギーの井沢も、もちろんアナフィラキシーショック状態だ。彼女は俺の敵なのだけど、なんだか可哀そうになってきたよ。
「ホイ」
いともたやすく、井沢の顔からネコを引きはがしたのは文園だ。
いきなりアレルギー源から解放されて、俺の敵はキョロキョロ辺りを見回していた。騒いでいた観客たちはほとんどいなくなって、「茜、大丈夫?」と言いながら、とりまき連中が駆け寄っていた。
「このニャンコ、どうしようか」
「野良に戻すのは気が引けるしね。でも、私のとこはペット禁止だから」
「勘吉先輩が飼えばいいんじゃないですか」
「なんで俺が。てか勘吉じぇねえし」
文園が抱えているネコの将来について俺たち四人で考えていると、ニャーとひと鳴きして走り去ってしまった。
「あ、待って」
文園が後を追いかけたので、俺たちも続いた。シネコンを出てモールを抜けて、街の通りに出た。
ほんとうは文園と二人でラーメンを食べに行きたいのだが、ちょっとばかり邪魔な二人がいるし、逃げたネコも探さなければならないし、今日はなにかとタイヘンなことになりそうだ。
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