第6話
「うわあ、なんだよこれ」
登校して自分の席に座るなり、津吉は困惑していた。
「すげえ、ヌルヌルしてるし、へんなニオイがする」
ブツブツと呟きながら、机の中に入れた手を引っ込めた。指先のニオイを嗅いで、シブイ顔をしている。しばし考え込んでいたが、ふたたび机の中へ手を突っ込んでなんらかの物体をつかんだ。じっと観察すると意を決したような表情で立ち上がり、ズカズカと前の方へ行った。
「井沢、いいかげんにしろよ。こんなもの入れやがって」と言って、手にしていた物体を井沢茜の机の上に叩きつけた。たまたまそこを通りかかった金城優奈が、それを見て素っ頓狂な声をあげる。
「イカーーーッ」
イカであった。
「生のイカー、きたよこれ」
しかも生である。朝のホームルーム前に、意外過ぎるモノを自身の机に提示されて、井沢茜の目が白黒していた。十二分に引きつったその表情から、彼女が仕込んだものではないと津吉は悟った。
「両玖がイカあーーーーー」
隣の席の女子が叫ぶと、二年三組の内部が騒然となった。のちに両さんのイカテロ事件と呼ばれる出来事である。
男子生徒が生のスルメイカ一匹丸ごとを持ってきて、女子生徒の井沢茜に迫っていた。情報過多な光景を目撃し、二年三組のどよめきが止まらない。
「朝っぱらから、うるさいぞ」
そこへ、担任の竹内真由美教諭がやって来た。ちょっとばかり昨日のニンニク臭い女教師が、ざわつきの原因はなんだと、近くの女子生徒に訊いた。
「先生、両玖がイカで茜を脅迫してるんです」
「な、なに、イカ?」
朝から斬新すぎる武器で、男子が女子を脅かしているという。
「イカ臭い男子サイテイ」、「イカ男、イカ臭い」と非難の声が飛び交っていた。
「俺の机の中にイカが入れられていたから、てっきり井沢がやったと思って」
机の上にあるイカを指さして、津吉は泣きそうな顔で弁明した。井沢茜の顔色も悪かった。両者に非がないと直ちに判断し、さらになんとなく犯人に心当たりのある女教師が落ち着いて言う。
「いいイカじゃないか。先生がもらっとくよ。一夜干しにすると美味いんだから」
ポケットから白いビニール袋を取り出して、イカをつまみ上げてその中に入れた。さらに上着のポケットへ無理矢理ねじ込んでから教壇に立つ。
「はいはい、おまえら静かにしろよ。女子高生みたいにピーピー騒ぐんじゃない。ガキじゃないんだ」
まずは全員を着席させた。
「先生、どうして両玖がイカを持っていたのか、説明が必要です」
学級委員長であり、追及体質である飯島朋美が、津吉を呼び捨てにしながら説明を求めた。
「それはな」
竹内真由美教諭は、前方の席にチラリと目線を流した。
「タコだったら困るだろう。高校生男子が女子高生にタコをつきつけたら、それはそれで問題だからな。イカでよかったよ。いま高いしな、イカ。はい、お終い」
もちろん、その意味不明な説明で納得する生徒はいなかったが、竹内真由美教諭の強引な幕引きでイカテロ事件はうやむやにされ、平常通りの二年三組へと収斂していった。
クラスに微妙な空気感が漂う中、お昼休みとなった。
いちおうパンを持ってきている津吉であったが、キョロキョロとしている。綾香が一瞬彼を見て、コンマ一秒間ギュッとポイントし、ツンと真っすぐ前を見て教室を出て行った。
すると、後ろのドアからコソ泥みたいに身をかがめて退出する男子がいる。廊下に出た彼は、絡まって転んでしまいそうな急ぎ足で生物準備室へと急いだ。
「茜に謝りなさいよ」
「わかってるよ」
津吉が準備室に入るなり、綾香の痛烈なる言葉でビンタされた。今朝のイカテロ事件についてである。
「男にいきなりイカを突き付けられた女子の気持ち、考えたことあるの。暴力よ、暴力」
「だから悪いと思っているよ。学校に来たら机の中にイカが入っていたから、ちょっとカッとなってしまったんだ。どうせ井沢がおもしろがってやったんだと思って」
井沢茜を犯人だと決めつけたことを、津吉は後悔し反省していた。
「あのイカ、高かったんだから。回収しようと思っていたけど、先生にとられちゃった」
「ちょっと待て」
津吉の右手が綾香のおしゃべりを制止させた。
「あのイカを俺の机の中に仕込んだのは、もしかして文園なのか」
「呼び捨て禁止」
「ああ、ええっと、あのイカを机の中に入れたのは綾香さんだったのですか」
やや間があってから返答がきた。
「そうよ」
「いや、なんでだよ。ふみぞ、いや、綾香さんがイジメをしちゃだめだろう。俺を助けるって言ったじゃないか」
これは大いに憤慨してもいい案件だと、津吉は確信していた。
「昨日、わたしを無視して、みんなでラーメン食べに行ったじゃないのさ」
「はあ?」プリプリと怒っている女子を眺めながら、津吉が考えを巡らす。
はは~ん、と納得した様子だ。綾香一人だけラーメンを食べそこなった&仲間外れにされたので、不貞腐れているのだとわかった。
「べつに無視したわけじゃないだろう。真由美先生も誘ってくれたし、断ったのはそっちじゃないかよ」
「断るしかないでしょう。わたしは津吉と三メートル以内に近づけないんだから」
「呼び捨て禁止、じゃなかったっけ」
「津吉君、津吉殿、津吉ごん、津吉のバカ、アホ、アンポンタン、死ねばいいのに」
言っているうちに怒りの乗数効果が発揮されていた。
「だから、あれはもともとの約束で、真由美先生のお誘いは断れないよ。あの人、けっこうヤバい噂があるし」
「それはそうね。元凶悪ヤンキーで、DQNを何人か生き埋めにしたってことだし」
「うわあ、それマジかよ。はじめて聞いた」
竹内真由美教諭のお誘いで津吉を責めることはできないと、綾香もわかっていた。
「それでどうだったのよ」
「なにがだよ」
「ラーメン、どうせマズかったんでしょう」
「いや、けっこう美味かったよ。チャーシュー麺の大盛だったし、餃子もつけてくれて、金城さんなんか、ご飯大盛り、おかわりしてたし」
「どんだけ食い意地が張っているのよ。チャーシュー麺の大盛に餃子に大盛りご飯じゃ、炭水化物の取り過ぎでしょ。血糖値が極限になって、ひたいの血管から血が噴き出すんだから。この国の医療保険制度を崩壊させる気なの」
「おかわりしたのは金城さんであって、俺じゃないよ」
「どうせ、そそのかしたんでしょ。耳元で甘い言葉をささやいてさ」
「どんな甘い言葉をささやいたら、女の子がご飯大盛をおかわりするんだよ。なんかこの会話、おかしくないか」
「おかしいのはあなたの名前よ。こち亀をマネして、なんなんの」
「だから名前は親がつけたし、苗字はよくわからないけど先祖代々のものだし、ああ、もう、わけがわからない」
かみ合わない会話に頭を抱える男子を尻目に、女子はメルヘンの世界へ飛ぶ。
「はあ~、わたしは孤高すぎる女。バカ、アホ、アンポンタンな男子に水をぶっかけられたうえに、ラーメンまで食べさせてもらえないなんて、どんなに不幸なんでしょう。小公女セーラがセレブに思えるほど可哀そうだわ。ジャン・バルジャンだって同乗してくれるわ」
「それを自分で言いますか。てか、セーラはもともとセレブ」
津吉は呆れていたが、綾香のそういう芝居がかった態度は嫌いじゃなかった。
「よーし」
とある決心が、彼を漢道へと突き動かした。
「ラーメン、おごるよ」
「え、なに?」
「だから、バカ、アホな男子が綾香さんにラーメンをおごるって言ってんだよ」
デートに限りなく近いラーメンへのお誘いである。津吉が女子を食事に誘うのは人生初体験だった。多少よりも、かなり多めな緊張感が沸き上がっていて、顔がけっこう赤くなっている。
「アンポンタンが抜けているけど」
「バカ、アホ、アンポンタンな男子が綾香さんにラーメンをおごりますよ。餃子をつけてもいい。もちろん、ご飯は大盛りで」
手厳しい指摘を受けて、正しく言い直す津吉であった。
「まあ、食べてあげてもいいけど。それでいつ」
「え」
「いつよ。日時を指定しないと予定が立てられないでしょう」
これでもいそがしいのだからと返されてしまう。津吉は即断をしなければならない。
「じゃあ、今週の土曜日」
「何時」
「お昼だから、十二時頃」
「午前九時ね」
「いや、お昼で九時はおかしくないか」
「お昼からいきなり重いものを食べると消化に悪いでしょう。その前に体を動かしてお腹を空かせておかないと。街をいろいろと見て歩きたいのよ」
初デートは、不慣れで不器用な男よりも機転の利く女がリードした方がいい。
「なるほど、それもそうだな」
津吉に異存はない。土曜日に朝っぱらからの初デートが決まった。
「あと、ちょっと気になってんだけど」
「なによ」
綾香が持参しているバッグからお手製のサンドイッチを取り出して、津吉の前に置いた。礼を言ってから、彼にとっては重要すぎる話を切り出す。
「昨日のあの一年、誰なんだよ」
「わたしが知るわけないでしょう。勝手にしつこく言い寄ってきたんだから。アンポンタンといい、一年生といい、この学校にはヘンタイが多すぎるわ」
マグカップに粉末のミルクティーを落とした。沸かしておいた電子ケトルのお湯を注いで、津吉に差し出した。再度「ありがとう」と言った彼は、甘すぎるそれをずずっと啜った。
「うまいな、これ」
「でしょう。フランス軍のレーションに入っていたのよ。残さず頂くのが綾香流なんだから」
薄くジャムが塗られた文園家流のサンドイッチを美味しくかぶり付きながら、津吉は粘着質な性格を発揮する。
「で、どうなんだよ」
「だから、なによ」
「だから、あの一年だって。けっこう顔がよかったし、なんていうか、そのう、まさかつき合ったりとかはないよな」
奥歯にものが挟まったようなややキョドリ気味の男子を、綾香が冷ややかな目線で見ていた。
「たしかに顔はよかったかな。イケメンというよりはカワイイというか、中性的な感じでエモい。まあ、わたしは外見では選ばないから。興味なしよ」すました顔で紅茶を啜る。
あっさりと否定したので、追及は次の件に移った。
「そういえば、昨日はなんで第二体育館に来てたんだよ」
「掃除をサボッて逃げ出さないように、津吉を見張っていただけよ。まさか金城さんを誘惑して手伝わせているとは思わなかったわ。どういうエサで釣ったの、ご飯大盛り?」
バラの枝で真皮をこするような言い方をされて、津吉は苦笑するしかなかった。綾香は、してやったりの得意顔である。
それからしばらく、二人での食事と歓談が続いた。綾香の機嫌が良くなったので、おしゃべりに時間が追いついていなかった。
「あら、もうこんな時間」
「教室に戻らないとな」
二人は、二人一緒に準備室を出るという禁忌を完全に忘れていたが、幸いなことに誰にも見つからなかった。
廊下の突き当りを左に曲がる刹那、先を歩いていた綾香がいきなり振り返り津吉と対面した。
「アンポンタンの津吉殿、土曜日のラーメン、絶対に約束だニャン。ニャン、ニャン」
綾香がまねき猫みたいに手を曲げて、さらにお尻を突き出した。抜群の笑顔を見せて、可愛らしくてセクシーなニャンニャンポーズをしてから、パッと角を曲がった。
「うっほ」
その萌え切った姿に骨の髄まで溶かされてしまったアンポンタンな男子は、我を忘れて角を曲がり、同じく手をまねき猫風に折ってネコ属性を惜しむことなく発揮した。
「了解したニャニャ~ン」
「ぎゃああああー」
だがしかし、そこにいたのは金城優奈であって、綾香ではなかった。彼女は突然 奇っ怪な仕草の男子生徒と遭遇してしまい、えも言われぬ恐怖と気色悪さを真正面から浴びてしまった。
「うわああ」恥ずかしさで奇声をあげてしまう津吉であった。
「なんなの、なんなの、いまのは。すっごくキモくて死ぬかと思った。めたくそ地獄の気分になって、生れてはじめて死んでしまいたいと思う。キモッ」
純真な十七歳少女による、ウソ偽りのない心境の吐露であった。津吉は涙目で深々とお辞儀をしてから、疾風のごとく走り去った。
「なによ、ケンカでもする気か」
放課後の二年三組の教室にて、津吉が井沢茜に詰め寄っていた。
「いや、そのう、朝は悪かった、ていうか、ごめん」
深々と頭を下げたわけではない。バツの悪さを誤魔化すように後頭部を二度三度掻きながらである。
昼食の際に、綾香からキッチリ謝罪するようにと念を押されていた。
普段から理不尽な嫌がらせを受けているので謝りたくないと抗議したが、「そこは漢の度量を見せてやりなさいよ」と諭された。
土曜日のラーメンデートを控えて綾香のご機嫌を損ねたくないと、男のスケベ心が起動しての謝罪である。綾香の意図は、緊張して凍りついてしまったクラスの雰囲気を解凍することなのだが、それは津吉も理解していた。
井沢茜が睨みつけている。刺すような視線であり、どこかふざけた感じのある綾香とは違い、一カロリーの熱量もなかった。凍ってしまいそうなほど冷えていた。
「絶対に許さない。あんたのしたことは痴漢以下のゲス」
厳しい指摘だった。井沢茜の取り巻き連中が、偉そうに腕を組んで津吉を見ていた。ウンウンと一様に頷いている。
「痴漢以下の以下は、イカじゃない以下だから。なんちゃって」
果敢にも、空気を読まずに割り込んできたのは金城優奈である。しばしの沈黙が支配し、教室の一角に粉雪が舞っていた。
「ちょっと優奈さあ、それって寒すぎるんだけど」
取り巻きの一人が言うと、金城優奈は「テヘヘヘ」と舌を出した。
「いきなり出てきて、なんなの」と、井沢茜が不機嫌をぶつけようとした時だった。
「井沢って、けっこう可愛いんだな」
呟くように津吉が言った。おどけたり、ふざけたりしている様子はなく、彼自身の素直な感想といったところだ。
「な、」
いきなり可愛いと言われて、井沢茜は言葉が出なかった。怒りの勢いを削がれてしまい、気持ちの中に空白ができてしまう。不健全で攻撃的な返答が来ると予想していたので、まさか褒められるとは思ってもいなかった。取り巻きの女子たちも、どういうリアクションをしたらいいのか戸惑っていた。
「のっわっ」
奇声をあげて津吉が飛び上がった。尻に手を当てて、その場でジタバタしている。金城優奈がクスクスと笑っていた。
「ば、バッカじゃないの。なに一人で騒いでいるのさ。頭おかしいんじゃないの。イカでも食ってろ。イカ男」
みんな行こうと言って、井沢茜と取り巻き連中が教室から出て行った。
残された津吉は相変わらず尻を押さえて、辺りをキョロキョロと見回した。数秒前に彼のそばを通り過ぎた綾香の後姿が見えた。右手には安全ピンを握っており、どこか灰色っぽいオーラをにじみ出していた。
{さっき俺を刺しただろう。しかも、お尻だ}
{安全ピンが、たまたま当たっただけ。安全ピンだから安全だったでしょう}
{ちっとも安全じゃないかったぞ。スズメバチにでも刺された感じだった}
{スズメバチぐらいで、なによ。ブラックマンバにでも噛まれればよかったのに}
{それ、めっちゃ毒蛇な。ハチのほうがまだマシ}
{八兵衛は、うっかりだから、敵の女子にでもおべっか言うのよね。橋の下でウドンを啜りながら一人で反省しなさいよ}
{いや、俺は八兵衛じゃないし、うっかり敵のご機嫌をとったわけでもないし、そもそも、ウドンはどん兵衛であって八兵衛ではない。いろいろと情報が多すぎて書き込みがツライのだが}
{茜にいじられすぎて快感になったから、今度は口説こうとしたんでしょ。そんなにドMだとは思わなかった}
{俺はドMじゃない。あれは、たまたまそう思っただけで、あいつを口説こうなんてこれっぽっちも思ってない。そもそも、とにかく褒めろって言ったのは、どなたでしたか}
{容姿を褒めろとは言ってない}
「容姿は褒めてない」
{可愛い、って言ったじゃん}
{それは言ったけど、うちのクラスには超絶的に可愛い女子がいるから、それと比べるとかなり軽めな可愛いさだよ。正真正銘じゃないから、かえって気軽に言えるんだ}
SNSが沈黙する。津吉は画面からいったん目を離して気長に待っていた。そろそろかなとスマホに視線を落とすと、ちょうどよくブルッと震えた。
{ちなみにきくけど、その超絶な女子って誰かしら}
ここで津吉は考える。意地悪して(金城)とタップしかけたが、それは止めにした。
{俺の記憶がたしかなら、前の席にいて、いつもいい匂いがして、ちょっとケチぃけど特製サンドイッチがやたらと美味くて}
{ふむふむ}
ここで、また書き込みを止めた。男子高生がニヤついていると、すぐにブルッと震えた。
{それから?}
もっとも肝心なところを焦らされている女子高生は短気になる。催促は素早く、シンプルな文字だった。
津吉も躊躇はしない。ただし急がず、かといって遅滞することなく客観的な事実を送信した。
{たまに、おもらしする}トドメを刺して、小さくガッツポーズをした。
スタンプが鬼のように送られてくる。それぞれが別の意味を持っているので、繋げてしまうと支離滅裂であった。綾香の心情をあますことなく伝えていた。
着信音が鳴った。音声通話を望んでいる相手は、もちろん綾香である。さっそくスマホを耳に当てた途端、その声が津吉の鼓膜にぶつかってきた。
「このアンポンタン」
その一言で一方的に切られてしまい、ふたたびSNSでの交流となる。
{超絶な女の子を侮辱したイカ男に罰を申し渡す}ときた。
{超絶って、自分で書き込みますか}と返した。
このやりとりは津吉がやや優勢であったが、次の一文により土曜日のデートに暗雲がたれ込めてしまう。
{ザーサイ単品と麻婆豆腐と春巻きも追加だから}
勝敗が決し、本日のソーシャルネットワークサービスが終了した。
「くっ、中華をナメんなよ。予算オーバーだ」
どんだけ食い意地が張っているんだと地団駄を踏みつつ、土曜日が待ち遠しい津吉であった。スマホの画面をいつまでも触りつつ、月明かりの夜道を彷徨っていた。
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