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 イヴが人に強い執着を見せないことは、幾度か試してはっきりした。

 一メートル、三十センチ、十五センチの距離まで近づいても、噛み付くどころか、捕まえようともしてこない。腕に触れてみたり、足に触れてみたり、柔らかくてひんやりしたほっぺを突いてみても、これといった反応を示さない。

 それよりも、辺りを飛び回っている鳥や蝶々に興味があるようで、ゆっくりとではあるが目で追っていた。

 これだけでも他の感染者との違いは歴然だ。


「注意を向ける方向が、普通の子供と一緒って感じ」ココロは言った。

「だな」

「反応の仕方や速度なんかは赤ん坊に近い感じがしますわね。幼児とか、そう、五歳くらいまでの子でしょうか」

「感染前は、虫とか動物が好きな子だったのかな」

「かもしれないけど、さすがに動物を捕まえてくるってのは難しいな」

「ミート連れてくる?」テムが提案した。

「かわいそうだから、やめてやれ」


 イヴはやはり特殊だった。視力や聴力が他とは違う。

 太陽の光に晒されることも嫌がらない。

 強い光の中でも、他者や小さい虫や鳥の動きを目で追いかける。

 しかし、これだけ自分達に無抵抗、無反応だと、どこまで接近できるか興味すら湧いてくる。


「――さて、誰がやる?」


 エルマーはゴム手袋を掲げた。

 それを嵌めて、少女の口を開いてみようという話になった。

 もしかしたら、歯がないのかもしれない。それなら、噛み付いてこないのも頷ける。


「唇を押して、開くだけだ。つっても、かなり怖いけどな」

「あたしがやる」ココロが手を挙げた。

「お前、怖くないのか?」

「工場にある機械に手を巻き込まれるほうが怖いよ」


 ココロは言いながら手袋を嵌め、ぎゅっと握りこんだ。このゴム手袋は、普段使っている医療用の手袋よりも厚みがある。噛み切られないとも限らないが、注意さえしていれば万が一噛まれても、手を引っ込めれば問題ないだろう。

 ただそれ以上に、ココロはイヴに対して恐怖を感じていなかった。

 この子はきっと、人を傷つけたりしない。そんな風に思ったが、口にはしなかった。

 ココロは手袋をした手を握りこみ、ワキワキと動かしながらイヴに迫った。


「はーい、じゃあ歯医者さんごっこしましょうねえ」


 ココロは膝を着くと、小さなイヴの顔を手で挟み、そっとイヴの口元に親指を当てた。

 唇は薄く柔らかい。ぐにぐに触っても、イヴは瞬き一つしなかった。

 ココロはふぅっと息を吐き、唇を上下に優しく押した。

 イヴは視線だけココロに向けて、うぅっと唸ったが、歯を固く食いしばったまま、噛み付こうとはしなかった。


「どうだ? どんな感じだ?」エルマーが緊張した面持ちで訊いた。

「んー、ちょっと嫌がってるような気がする。口を開けようとしないね」

「我慢してんのか?」

「噛むのを?」

「噛まれんなよ? 他には」

「歯並びがいい。それも真っ白で綺麗、あと、涎が垂れてきた」

「歯並びが綺麗だってよ」エルマーはエミリに伝えた。

「歯並びが綺麗、ですわね」エミリはノートにペンを走らせた。

「カメラで撮ってくれる? あたし抑えてるからさ」


 ココロが言うと、エルマーがカメラを用意してイヴの歯を撮影した。


「よし、じゃあ歯医者さんごっこはこれくらいにして、イヴが好きなもの、何かないか探してみよう」

「オッケー」


 ココロはイヴの顔から手を離し、外した手袋を黒いゴミ袋へ放り込んだ。

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