43
自室に戻ると、ミートが部屋へ入ってくるのを待ってから扉を閉めた。
リチャードに椅子をどうぞと促し、自分はベッドに座った。
脇にリュックを置くと、ミートが膝の上に乗ってきた。リチャードは引いた椅子に腰掛けると、コーヒーを手にとって香りを楽しみ、一口含んだ。
「これも久しぶりだ」リチャードは味わうように飲んだ。
「それで、このワッペンはどこで手に入れたんですか?」
「……何年か前に、とある感染者の衣服から取り外したものだよ」
ココロはリュックからノートを取り出し、開いて差し出した。リチャードはベッドの傍に椅子を動かし、ノートを受け取った。「この中に?」と訊くと、リチャードはページを開いた状態で戻した。見ると、二番目に研究対象となった双子の少年だった。
「その双子だ。二人とも同じものをつけていたので、一つだけ借りた」
「どこで彼等に?」
「さあ、どこかの廃村、だったかな」
「廃村?」
「旧暦時代に捨て置かれた、誰も住んでいないゴーストヴィレッジだよ」
「ゴーストヴィレッジ」
「見たことは……あるわけないか」
「写真でなら」
「写真? そうか、写真か」
廃村なら、ロイズの写真集で見たことはある。
しかしリチャードはそういった土地を、その目でいくつも見てきた。
村だけじゃない。町や大都市、人が暮らすために作り、整えた生活環境だ。蔓延した疫病と、その被害者が現在のコロニーで暮らすようになるまでは、そういった壁に覆われていない土地で人は暮らしていた。
「感染者の群れのなかで、妙にこぎれいな子達が居るのを見つけてね。観察してみると、二人ともそのワッペンをつけている事に気づいた。これは、感染者の研究をしているコロニーがあるのかと、興味が湧いたんだよ。そのノートを見て確信を得ると同時に信じられなくて、とても驚いたよ。感染者の研究をしていたのが君たちのように若い子だったとは」
「じゃあ、最初に会った時にはもう」
「もしかして、という予感はあったよ。かなり原始的なトラップだが、感染者を傷つけず、かつ極端に拘束しすぎない捕獲罠だ。設置場所も、思い出して見れば暗所だ。感染者の習性を利用しているものだね」
「それで話を合わせてくれたんですか」
「合わせたわけじゃない。確信が持てなかったから、黙っていただけだよ。あの時の守衛の彼等と君達を見るに、君達が何かを秘密にしていることは察することはできたがね。そもそも、一般的にコロニーの住民が積極的に感染者に関わることはタブーだ。が、何の理由もなしにするようなことでもない。いったいどうして? こんなことを」
「リチャードさんは、サンセット事件って、ご存知ですか?」
「サンセット事件?」
「七年くらい前の、感染者の事故なんですけど」
「知らないな」
ココロはベッドの下にしまったアタッシュケースを引っ張り出し、ダイヤルを回した。いまさら隠す必要もないので、堂々と開いた。沢山の感染者の写真にリチャードは目を見張った。ココロはそこから、昔の新聞の切れ端を取り、差し出した。
「これです」
リチャードはその記事に目を通し、なるほど、と頷いた。
「これがきっかけで?」
「その記事を見て感染者をやっつけようって言い出した友達がいて、それがきっかけです」
「私を運んでくれた彼か」
ココロは頷いた。
「ただ、初めて出会った感染者が、野球ボールに興味を示して」
「想像していたものと違って、興味を持ったんだね」
「今までで六体、自分たちになりに感染者の習性を調べていたんです」
「それで、この子が七人目か」
リチャードは、今日ココロが撮った少女の写真に目を留めた。
少女に向って変顔をしているテムの写真だ。
それを見たリチャードの口元は微かに緩んだが、目元は少し寂しそうだった。
「こうしてみると、まるで普通の少年と少女のようだ。どこか神秘的で、幻想的で、世界が、人が抱える問題を解決する答えが、ここにあるような気さえしてくる。いい写真だ」
「この子が最後、ですけどね」
「最後、というと」
「あたし達は感染者には記憶や感情が残ってるって考えてて、それを思うと出来ることも限られちゃって」
「残酷な実験には踏み切れない」
「考えたこともないですけどね」
「なるほど、たしかに君達がその一線を越えたら、マッドサイエンティストの仲間入りだ」
「あの、リチャードさんは、なんでコロニーを離れて旅を?」
思い切って聞いてみると、リチャードは窓の外へ目をやって、コーヒーカップの縁を親指で撫でた。
「……ココロちゃんは旅をしたいと思ったことはないかね? この壁に囲まれた世界のずっと先へ、見たこともない景色や、出会ったこともない誰かとの出会いを夢想したことは」
「妄想だけなら、いつもしてます」
「現実にすれば、想像以上の出会いや発見がある。そして旅は、出会いは、人を変える」
「それが出来たら最高。でも、なかなか難しいです」
「うん、簡単ではないかもしれないね。けれど思い立ったが吉日だ。今日飛び出しても、後悔はないかもしれないよ」
「それは流石に」
「普通はそう、躊躇うものだよ。けれど、君は特別だ」
「あたしが?」
「ああ、君はきっとそういう星の元に生まれた特別な子だ。会えてうれしいよ」
改めて握手を求められて、ココロは戸惑った。
そういう星の元に生まれたとか、特別な子、と言われても意味がわからなかった。
ただ、会えて嬉しいと言われた事だけは素直に嬉しく思えて、その手を握った。
骨と血管が浮き出た細い手、節くれだった指、かさかさに渇いた皮、冷たい肌の奥から伝わるかすかな熱を感じた。
「君は、あたたかいね」
「そうだ。いいもの見せますよ」
ココロは思い立ち、本棚からロイズの写真集を取り出した。
「これは?」
「ロイズっていう人の写真集です。全部じゃないんですけど、あんまり出回ってないレア物なんですよ。あたしもいつか、この人みたいな写真を撮るのが夢なんです」
ココロが言うと、リチャードはゆっくりと写真集を捲りながら目を細めた。
「……すばらしい写真だね」
「そう思います?」
「ああ。しかし写真とは恐ろしいものだね」
「恐ろしい?」
「真実とは美しく、残酷なものだ。美しさは人の目を曇らせ、真実に隠されたものを覆い隠すという、ひねくれた私の教訓だよ」
ココロは首を捻ると、リュックからカメラを取り出して、リチャードにレンズを向けた。
シャッターを切ると、リチャードが気づいて顔を上げた。
真っ黒のフィルムに写し出されたリチャードの横顔は最初に撮った時とは違い、知的で、物憂げで、世界の全てを見てきたような深い瞳をしていた。
「どうぞ。イケメンに撮れてますよ」
ココロが写真をプレゼントすると、リチャードはそれを見て小さく笑んだ。
「ありがとう。この事はマリオさんには黙っておくよ。なにせ私は居候の身だからね」
「お願いします。けど、乙女のノートを勝手に見るってどうなんです?」
「私からアドバイスできることがあるとすれば、そういう秘密のノートはタイトルなんてつけないほうがいい。かえって目立つからね。目立てば興味をそそられる。魔が差してちょっとだけとなるのが人の情だ」
「リチャードさんばっかあたしの秘密知ってずるいな」
「っはは、目に見えるか弱さは、時に人の目を甘くするものだよ。子供は無意識に、老人は意識的にそこへ漬け込むことが出来る生き物だ。覚えておくといい」
リチャードが写真をツナギのポケットにしまって怪しげな笑みを浮かべると、ココロも「なにそれ」と可笑しそうに笑った。
「――っぐ!」
不意に腹を襲った腹痛に、ココロは体をくの字に曲げた。
「どうしたんだい?」
「きゅ、急にお腹が」
「顔色が悪い。何か悪いものでも食べたのかい? もしかして女の子の――」
「ちょ、ちょっとトイレ」
ココロは我慢しようとしたが、堪らず立ち上がり、トイレへ駆け込んだ。
ミートも着いて来たが、締め出した。
もっとリチャードと話をしたいのに、今更になって賞味期限切れの牛乳が暴れ出した。
出すものを出せば治まるだろうと思ったが、思いのほか賞味期限切れ牛乳の攻撃力は高く、しかも長引いた。日が暮れて、起きてきたマリオがトイレの扉をノックする頃になっても、ココロは外へ出られなかった。
「おいココロ! まだか!? このままじゃ爆発しちまう!」
「外でやってきて!」
「……わしもでっかい方なんだが!?」
マリオが切羽詰った声で叫ぶと、ココロは一瞬開けた扉の隙間からトイレットペーパーを放り投げた。
マリオはトイレットペーパーを拾い上げると、目を泳がせ、悩んだ挙句に外へ向った。
結局、ココロはこの日、リチャードとはロクに話すことも出来ずに一日を終えた。
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