31

 エルマーはリチャードを乗せたモペッドを引いて坂を登りきった。

 カモミールの香りがリチャードの臭いを中和してくれたお陰で、深呼吸して息を整えても倒れずに済んだ。


「あー、なんだかんだ鼻って慣れちまうのな」

「ご苦労様、ちょっとここで待ってて、リチャードさん家に上げたら、ガソリン持ってくるから。リチャードさん、あたしの手に掴まってください」

「ああ、ありがとう」


 ココロはリチャードに手を貸し、ゆっくりと歩いた。リチャードはびっこを引きながら歩き、カモミールの花畑や、ブランコのある桜の木、二つの墓に目を向けて、「ここが君の?」と訊いた。


「家です」

「素敵なところだね」


 ココロはリチャードが玄関先の階段を上がるのを手伝い、リビングへ連れて行って椅子を引いた。リチャードは椅子に腰掛けると、疲れた顔で深く息を吐いた。


「ちょっとここで待っていてもらえますか、すぐに戻ってくるんで」

「ああ、お邪魔します」


 ココロは預かっていた荷物とリュックを置いて、金属の燃料容器ボトルと、冷蔵庫からオレンジのパックジュースを手に取った。玄関先にモペッドを移動させた二人に、パックジュースと燃料容器を渡した。エルマーとテムは全く同じ動作でパックの口を切ってジュースで喉の渇きを癒し、モペッドのタンクに燃料を給油した。


「ココロ、ミートはまだ寝てる?」テムが訊いた。

「ミート! テムが呼んでるよぉ!」


 顔だけを家に向けて呼ぶと、ミートが二階の階段から転げ落ちるように駆け下りて、玄関先で換気するように翼をばさばさと羽ばたかせた。テムが、「ミートおいで、遊ぼう」と誘うと、ミートもお尻をフリフリさせて飛び回った。ココロは玄関先の階段に腰を降ろし、カモミール畑で追いかけっこをするテムとミートを目で追い、カメラを構えた。

 シャッターを切って、排出されたフィルムを手に取り、脇に置いた。


「そうだココロ、明日とか、時間あるか?」エルマーが訊いた。

「特に予定はないよ。土曜で仕事休みだし」


 エルマーはキャップを閉めた給油ボトルと空のパックをココロに返し、隣に腰を降ろした。


「一応考えたんだけど、北のほうの山にも仕掛けてあったろ? 罠」

「ああ、うん」

「今日のことを踏まえて、撤去しようと思うんだ」


 その提案に、ココロはそれほど驚かなかった。

 リチャードが罠に嵌った事実があっては、そういう考えにだって至るだろう。

 感染者が増え、ガンツ達が山へ入ったことも踏まえれば、罠が見つかるのも時間の問題だ。

 誰が仕掛けたという話になれば、いい歳して頻繁に壁の外へ出ている自分達が真っ先に疑われるのは目に見えているし、出入記録を見られたら隠しようがない。

 回収できるなら、しておくに越したことはないのだ。


「せっかくあの人、ゾンビホイホイのこと黙ってくれてたのに、いいの?」

「いいもなにも、頃合かなってな」

「……テムはどう思うかね」ココロは頬杖を突いた。

「あいつももうすぐ十三になるし、そうなったらブラウニーを出て、自分の道を見つけなきゃならない。忙しくなる。たまにこうやってつるんで秘密の研究ってのも楽しいけど、それに関係ない人を巻き込みたくないだろ」


 ミートと追いかけっこをするテムに目をやって、エルマーは言った。

 今回のようなことは偶然だったかもしれないが、今後起きないとも限らない。

 むしろ今までが幸運だったのかもしれない。

 リチャードが門でトラバサミのことを伝えていたら、部外者に怪我をさせてしまったことも含めて、自分達は事情の説明を求められていただろう。もしもその場で持ち物を確認されたら、それこそ言い訳もできない。なによりココロは嘘が苦手だ。すぐ顔に出るし、普段はうまくごまかしていても、直球で来られたら絶対にバレる。


 特に付き合いの長いガンツは、自分のクセなどお見通しだ。

 何にせよ、そろそろ『感染者ゾンビ』の研究も限界に来ていたのは、ココロも感じていた。

 やることは毎回同じで、彼等に執着する『物』があるとわかっても、コミュニケーションを取ることもできない。エルマーの言う頃合は、本当に頃合なのだ。


「エルマーはもういいの?」

「何が」

「これはじめた頃は、ゾンビやっつけてやるって息巻いてたじゃん」

「ガキの頃の話しだろ、それ」

「そう、ガキの頃の話」

「拍子抜けだよ。だいたい、連中をやっつけたって世の中は何もかわらないし、ここの暮らしだってそうだ。それが普通で、当たり前なんだ。それにあんな無抵抗で無害な連中、殴る気にもならねえっての」

「たしかに」

「ココロこそ、いいのか?」

「なにが」

「父ちゃんと母ちゃん、探してたんじゃないのか? だから付き合ってくれてたんだろ」


 エルマーは言いにくそうに言った。

 ココロは立ち上がると、背中をぐっと伸ばして茜色に染まる空を見上げた。

 エルマー達と研究をしていれば、いつかお父さんやお母さんに会えるかもしれない。

 たしかに最初はそう思っていた。けれど、研究を続けるうちに、エルマーやテムと過ごす時間の方が、両親を待つ時間よりもずっと大事だと感じるようになった。

 感染者の特性を三人で調べるうちに、沢山の発見をした。

 それだけでも、じゅうぶん楽しかった。


「あたしさ、実はリガーさんからカメラ屋やらないかって誘われてるんだよ」

「……ついに転職か?」

「まだ考え中だけど。でもま、これをやめるなら、新しい被写体探ししないとだから、ちょうどいい頃合よ」

「お前がいいなら、いい」

「いいじゃん、皆で大人になってこ」


 ココロが言うと、エルマーは納得するように無言で頷き、腰を上げた。


「そろそろ行くわ」

「わかった。明日、時間は?」

「なるべく早い方がいいな」

「じゃ、九時ごろに、いつもの場所で」

「わかった。じゃ、あの爺さんよろしくな」


 エルマーは言うと、テムを呼んだ。

 ココロは帰路に着く二人に手を振って見送ると、ミートを呼んで家の扉を閉じた。

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