32
リビングで大人しく待っていたリチャードは、椅子に腰掛けて部屋の隅々までをゆっくり見回していた。旅が長かったせいなのか、その眼差しはどこか遠く、懐かしんでいるようにも見えた。
ココロはミートを放して二階の部屋に荷物を運び込むと、すぐに下へ戻って、リチャードを風呂場へ案内した。
「お腹空いてますよね、ご飯の用意するんで、先にお風呂どうぞ」
「ああ、頂きます。ご厄介になります」ぺこり、とリチャードは頭を下げた。
「いえいえ、ご丁寧に。あの荷物どうします? 洗うものあれば洗濯しますけど」
訊くと、リチャードは自分の大きなリュックに目をやった。
「いや、着替えは特にないんだ。荷物も自分で運ぶよ」
「足、怪我してるじゃないですか、無理しない方がいいですよ」
「ありがとう」
ココロはリチャードに興味があって、彼を家に招き入れた。
晩年の冒険家なんて冗談だとしても、世界を旅してきたのなら面白い話が聞けるかもしれないし、自分がいつか旅に出る時の参考になるかもしれないと考えた。
体の臭いなんて洗えば落ちるし、そういうのは汗臭い整備工場で慣れっこだと思っていたが、彼の臭いは汗臭さなんかよりずっと酷い、嗅いだ事のない独特な生臭さがある。それも風呂に入れば落ちるだろう。それで落ちない時は、もう残された手は焼却しかない。
ココロは考えながら、リチャードにシャワーの使い方、お湯の出し方、固形のシャンプーやボディソープの位置を教え、脱衣所のカーテンを閉めた。
「脱いだ服はその辺に置いといてください。ボディソープもシャンプーも、遠慮なくガンガン使ってくださいね。あと着替え、お爺ちゃんのなんでちょっと大きいと思いますけど、置いときますから」
「はい」
行儀よく返事をして、リチャードはいそいそと着古した服を脱ぎ、浴室へ入った。
ココロはリチャードがシャワーを浴びている間に台所で手を洗い、残り物のスープを温め、トウモロコシを茹でた。
脱衣所に脱ぎ捨てられた汚れた衣服を抱えると、胞子でも舞っているんじゃないかと思えるほどはっきり輪郭を現した臭いに襲われた。急いで勝手口の傍にある洗濯機へ放り込み、外に置いた発電機を起動させ、いつもより多めに粉洗剤を盛り、スイッチを入れた。
マリオと二人で造った全自動洗濯機が、壊れそうな音を響かせながら激しく回り始めた。
「あとは着替えか」
ココロは二階のマリオの部屋のクローゼットを開くと、大きなパンツとシャツを手に取り、どのツナギを着せようかと手を泳がせた。
黒、白、グレー、紅色、桃色、紫やカーキ、全てツナギだ。
実に選びにくい。
「桃色でいっか」
一番キレイな、使われていないツナギがそれだった。
ハンガーから外して腕に掛け、脱衣所に着替えを運んだ。
キッチンに戻り、噴火寸前に熱された蓋を流しへ放り、スープもお玉で掻き混ぜ、火を落とした。茹で上がったトウモロコシやスープ、パンを食卓へ並べているうちに、リチャードが風呂を上がった。用意されていたツナギ服に着替え、ほくほくと体から湯気を立たせている。
「お嬢さん、あがりました。素敵な服も、ありがたく使わせてもらってます」
「ココロでいいですよ」
風呂に入って温まったお陰か、血色もよくなっていた。
体中の汚れを念入りに落としたようで、酷い臭いもとれ、ボディソープの花の香りがした。
長い髪や髭、眉毛は沢山水を含んで重く垂れ下がり、ぽたぽたと絨毯に水滴が落ちた。着替えはやはり大きすぎたようで、子供が大人服を着たように、裾も袖もぺろっとあまってしまっていて、シャツも襟が大きく垂れていた。
「お爺ちゃんのだとやっぱり大きすぎたか」
「私にはちょっと大きいね。下着もぶかぶかで、歩くと落ちてきしまうよ」
リチャードは余った裾と袖をぱたぱたと振って笑った。
ココロは裾と袖を捲るのを手伝い、サイズを合わせた。靴はボロボロだったので、普段マリオが家で履いているサンダルを貸したが、これも大きすぎて、歩く度に踵を引きずり、パカパカと音を立てた。
「あ、そうだ」
ココロは思いつき、手をぱんと打った。
部屋から友達からプレゼントされた花の髪飾りと輪ゴムを持ってきて、ドライヤーで乾かしてふわふわになったリチャードの髪を可愛らしくセットした。
鏡を見せると、リチャードは愉快そうに笑った。
「不細工なババアがいるよ」
「ジジイですけどね」ココロも笑った。
「なにから何まですまないね、まるで子供の時分にでも戻った気分だよ」
「腹の虫にも用意はできとりますぜ」
「なるほど、お嬢さん――ココロちゃんは、とても優しいんだね」
ココロは食卓に牛乳を注いだコップを置いた。
リチャードは椅子に腰掛けると、久しぶりに目にしたちゃんとした食事に見惚れた。
「ちゃんとした食事なんて久しぶりだ。とても美味しそうだ」
「昨日の残り物で申し訳ないですけどね、トウモロコシも農家からもらったのが余っちゃってて」
「遠慮なく頂きます」
「よかったら、旅のお話聞かせてくださいよ」
「楽しい話ができればいいんだけど……そういえば家のご主人は? まだ仕事かな、お世話になる挨拶をしておきたいのだけど」
「ああ、あたし両親いないんですよ」
「……小さい頃から、かな?」
「ええ、小さい頃に」
「それは、寂しかったろうね」
「別れたのは、うんと小さい時だったから、思い出はあんまりなくて、両親のことはアルバムや写真でしか知りません。ま、お父さんはかっこよくて、お母さんは美人なのが誇りですよ」
「そのようだね」
ココロも食卓に着くと、どうぞと促した。
リチャードはココロが見守るなか、そっとパンを手に取り、その感触を確かめるように親指で撫でると、スープにつけて頬張った。歯が殆どないので、柔らかくしないと食べられないようだった。頬張ったパンをゆっくり租借するリチャードを、ココロはじっと見つめた。
「味、どうです?」
「染みるね。人が生きるっていうのは、こういうあたたかい料理を食うってことなのかもしれないね。腹の底から力が漲ってくるのがわかるよ」
よかった。とココロは微笑んだ。
リチャードは本当に暫くまともな食事を摂っていなかったようで、育ち盛りの子供のようにがっついた。残った奥歯を使ってトウモロコシを齧り、牛乳を髭につけた。いい食べっぷりだ。ココロも食欲が湧いてきて、一緒に食事を摂った。
「リチャードさんは冒険家って言ってましたけど、旅はずっと一人で?」
「ああ、こんな生き方、独りでないとできないさ」
「旅の最中は何を食べてたんですか?」
「食糧があるうちは、乾パンや干し肉に、ドライフルーツとかかな。缶詰めは重宝したが、私のような年寄りが持ち歩くには重くて。それも旅を始めた最初のころだけだ」
「食糧がなくなったら?」
「……虫とか、その辺の草とかだね。探せば、食べれるものも多いから」
「……虫」ココロは顔を顰めた。
「貴重なタンパク源だ。人間その気になれば何でも食える。まあ毒があるのはダメだが」
「って言ったってなかなか……勇気いるなあ」
「人間、生きることを諦めなければ、たいていのことは克服できるよ」
「コロニーに立ち寄って、食糧の補充をしたりしないんですか?」
「時と場合によるね。それに、食糧を手に入れるにもチケットがない」
「そんな、言えば分けてくれるでしょ」
「何不自由ない暮らしを自分から捨てて旅人になったんだ。そう都合よく甘えてばかりはおれんよ。それに、いつでもコロニーに立ち寄れるように行動していては、自ら世界を狭めるようなものだ。それではたいして遠くへは行けないんだよ」
なるほどな、とココロは唸った。
「リチャードさんは、ハイリベンジャーなんですか?」
ココロはトウモロコシの粒を指で一粒ずつ取りながら、口へ運んだ。
リチャードはスプーンを置き、布巾で上品に口を拭った。
「いや、私はしごく個人的な理由で旅をしている。もうコロニーを離れて、随分経つ」
「個人的な理由……どれくらい旅を?」
「どうだろう。なにせカレンダーも時計も持ち歩かない旅だ。気づいたら、爺になっとったし」
過去を振り返ってか、少し遠い目になったリチャードは、卓上の一点を見つめ、そのうちふっと瞼を落とした。シャワーを浴びて、お腹が一杯になったのだ。長い旅の緊張が解けて眠気に襲われても無理はない。椅子から落ちかけて目を覚ましたリチャードは、慌てて体を支え、瞼を擦った。
「申し訳ない。急に眠気が」
「部屋に案内するので、少し休んでください。夜にはお爺ちゃんも戻って来ると思うので」
「ではお言葉に甘えて、少しだけ休ませてもらうよ。話の途中ですまないね」
「足の具合はどうです?」
「いやいや、手当ては必要ないよ。少し痛むだけだから」
リチャードが椅子を降りると同時にココロも席を立ち、荷物を担いだ。
来客者用の、二階の空き部屋を案内した。
「どうぞ」
部屋の隅に、ココロは荷物を置いた。
リチャードは部屋をゆっくりと見回し、眉を顰めた。
夫婦用の大きなベッド、クローゼット、家族写真が飾られた机や、壁にかけられたジャケットやハンチング帽、時計、絵画、ラジオ等、埃一つ被っていない所を見ると、当時のままとはいえ手入れされていることは一目瞭然だった。
「……ここは」
「両親の部屋です。お爺ちゃんのお客さんとか友達が来たときは、ここを使ってもらってて」
「なんだか、悪いよ」
「どうぞ遠慮なく、お客さんに貸せる一番キレイな部屋、ここだけで。それに、お父さんとお母さんは賑やかなのが好きだったって、お爺ちゃんも言ってたし」
「ほんとにここしかないのかい? 私はあれだよ、外にあったガレージでもいいんだよ? なんならトイレでもいい。風呂の浴槽だって、私にしてみれば王族の宮殿みたいなもんだ」
「あたし達にとっては、トイレはトイレ、お風呂はお風呂です。お客さんをそんなところに寝かせられませんって」
「いや、しかしだね」
「……お年寄りが細かいこと気にしない」
くどい遠慮に苛立ったココロは腰に手をあて、子供を叱るような目を向けた。
リチャードはびくっと肩を縮こまらせると、下唇を噛んで思案した。
遠慮するなと言われても、今は亡き両親の部屋を使うなんて不躾すぎる。が、かといってこれ以上遠慮を重ねると、殴られそうだ。
「じゃあ、少し休ませてもらうよ。ありがとう」
「それでいいんですよ、お客なんですから」
「はい」
「トイレは一階のお風呂の向かい側、あたしの部屋は階段の方の突き当りなんで、何かあったら呼んでくださいね」
ココロは言うと、リチャードを部屋に残して下へ降りた。
リチャードは一度ベッドに手を触れると、そこに寝転がるのを遠慮して、床に置かれたリュックを引き寄せた。床に腰を降ろし、それに寄りかかり、瞼を閉じた。
胸が安らぐ屋内での休息、人の暮らすぬくもりと匂い、何の危険にも脅かされることの無い空間に、本当に久しぶりに深い眠りについた。
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