30

 門まで戻る頃には日も傾き始め、ココロとテムのモペッドも燃料が尽きた。

 ココロ達の声を聞いて守衛室を出てきたガンツとリッキーは、突然襲ってきた異臭に目を真っ赤にして、「ああすごい」と口にしながら、胸を弾丸に撃ち抜かれた人のように膝を突いた。


「平気?」


 ココロが訊くと、二人はゆらゆらと立ち上がった。

 鼻を摘むような失礼な素振りは見せなかったが、腰に手を当て、血色の悪くなった顔を伏せた。


「……何だお前ら、誰だその人、なに持ってきた」

「……森で拾ったんだよ」エルマーがこたえた。

「森の妖精さん」ココロは言った。

「また随分刺激的な妖精だな……あー、やばいぞこりゃ」


 ガンツとリッキーが口で深呼吸すると、リチャードが荷台を降り、挨拶した。


「はじめまして、私は旅の者で、リチャード・ロウといいます。怪我をして倒れていたところを、この子達に助けてもらったんです」


 リチャードがトラバサミの罠には触れなかったので、エルマーはこれ幸いと話を合わせた。


「で、この爺さん、リチャードさんを町で休ませてあげようと思って、連れてきたんだ」

「そういうことならもちろん、どうぞ。その、怪我っていうのは?」

「いや、たいした怪我ではないのでお気遣いなく、ただ、雨風が凌げる場所で休みたい」

「それなら宿か、部屋が余っている人に借りるかっすね」リッキーが言った。

「なるほど」


 しかし、今のリチャードを笑顔で歓迎してくれる家は多くないだろう。外からの客人となれば、皆これでもかという程もてなしてくれるが、今回は例外だ。宿も居住区なので、ここからだと遠い。どちらにしても、せめてお清めしてからだ。

 ガンツは煙草を咥え、ライターを取り出した。火を点けようとしたのを、リッキーが慌てて止め、「爆発したらどうするんですか」と険しい表情で言った。「あと、いま深呼吸したら死にますよ」

 ガンツはライターをしまい、煙草を耳にかけた。


「あー、うちとしてはもちろん歓迎しますがその、まずはその――」


 なんでしょうか、とリチャードは目を大きく開いた。

 ガンツは口を閉ざし、両手でリチャードの風体を指した。

 このままではまずい。

 そんなメッセージにリチャードも気を害することなく、ごもっともだと笑顔で頷いた。


「お恥ずかしい話、私は慣れてしまって、臭いがわからんのです。あなたたちの反応を見る限り相当ひどい汚臭を放っているようだ。そんな状態で人の家に上がるのは流石の私も気が引ける」

「ご理解、感謝します」ガンツは心底感謝し、敬礼した。

「しかし、どうしたものか。川で洗っても匂いは落ちそうにないし」リチャードは困った。

「とりあえずお清めが先っすね。あと、着替えも用意しないと」


 リッキーが言うと、全員が「何処で?」と顔を見合わせた。


「ガンツ達が宿まで連れてってあげられないの?」


 エルマーが訊くと、ガンツは腕を組んで唸った。


「できなくはないが、俺達は隣のゲートの連中の車で一緒に町まで戻るから、今からだとあと二時間くらいはここで待つことになるぞ」

「私は別にそれで構わないよ」


 このままでは本当に日が暮れそうだ。


「……そういうことなら、家来ますか?」ココロは口を半開きにして言った。

「お嬢ちゃんの?」リチャードはきょとんとした。

「あたしの家、町からは離れてるんですけど、ここからなら一番近いし、部屋も余ってる」

「いいのかい?」

「マジでいいの? ココロちゃん」リッキーが正気を疑うように訊いた。

「ココロちゃん?」リチャードがその響きを気にするように、眉を上げた。

「ココロ・ココニ。あたしの名前」

「そうか……それは、素敵な名前だね」リチャードは目を細くした。

「どうも」

「いやいやココロちゃん、マジでいいの?」リッキーが訊いた。

「とにかくまず、お風呂入った方がいいと思うし、怪我の手当てもしないとでしょ」

「そりゃ、助かる。頼めるか?」

「いいですよ」

「管理人には俺から連絡を入れておくよ。おいリッキー」


 ガンツが促すと、リッキーは守衛室からバインダーを取って来た。


「とにかくリチャードさん、一応それに記入をお願いします」


 リチャードは渡されたペンとバインダーを手に取ると、目を眇めた。


「あー、名前と――?」

「出身のコロニーを」

「ああ、わかりました」


 リチャードは顔をボードに目一杯近づけてサインを済ませた。字は大きく枠からはみ出し、波打った。ガンツはそれを受け取ると、紙についた汚れと、視覚化されそうな強烈な臭いに目を瞬いた。


「……0714コロニーの、リチャード・ロウさん。ご職業は?」

「晩年の冒険家です。年寄りには、後世に夢を託す、という大仕事がありますからな」

「ロマンチストなこってすな」

「はは、正直言うと、リタイヤ組みの無職ですわ」


 歯がスカスカの無邪気な笑顔に、ガンツは愛想笑いで応えた。

 冒険家なんて職業は無い。自称だろうが、おそらく本当に冒険をしているのだろう。その成れの果てがこれだと相当きついが、その心意気には共感できた。人生最後の冒険は男のロマンだ。ともすれば、話を聞いてみたくもあったが、今は遠慮したい。


「それじゃココロ、後は任せるけど、マリオさんに許可もらわなくて平気か?」

「怪我してるし、それにお爺ちゃんなら、きっと気にしないと思う」

「ま、そういう性格だな、あの人は」


 話が纏まると、エルマーはライフルを返却した。

 三人はリチャードを連れて門を潜り、畦道を走った。

 その姿を見送った二人は、深く息を吸い込み、目をまん丸にして首を振った。


「何年風呂入ってないんすかね、あの人。俺、鼻がバカになっちゃいましたよ」

「リッキー、ちょっと俺の脇の匂い嗅いでみろ」


 リッキーはガンツが広げた脇の臭いを恐る恐る嗅いだ。


「どうだ?」

「嘘でしょ、無臭だ」

「間違いなくぶっ壊れてるな。すげえ破壊力だ」


 ガンツは言うと、鼻をほじり、咥えたタバコに火を点けた。

 普段なら鼻腔で楽しむ煙草の香りも、この時ばかりは煙に消えた。

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