29

「――兄ちゃんこっち!」


 テムがモペッドを飛び降りて駆け出した。

 ココロとエルマーもモペッドを放り捨てるように倒し、その後を追いかけた。

 茂みをかわし、木の根を飛び越え、躓いて転んでも走り続けた。

 駆けつけた場所で目にしたのは、トラバサミの罠に足を挟まれてうつ伏せに倒れた大きなカタツムリだった。いや、背負ったリュックが大きくて、そう見えただけだった。


 実際は、手足が骨のように細い、顔中毛むくじゃらの汚らしい老人だった。足に挟まったトラバサミが、頭が大きな蛇のように見えた。うねうねと地面を這うロープの先端についたハサミの頭が、老人の足をがっちりと挟んで離さない。

 木漏れ日も差さない暗くなった木々のドームの真ん中で、老人は疲れ果て、どうすることも出来ずに居たようだ。そんな老人は、こちらの存在に気づくとほっとしたのか、手を小さく挙げた。


「やあ、こんなタイミングで助けが来るなんて、こりゃ奇跡、奇遇、いや――必然か」

「言ってる場合かよ爺さん、大丈夫か? 骨! 骨は!?」


 真っ先に駆け寄ったエルマーは、顔を上げた老人の放つ独特の刺激臭に表情筋が破壊され、「っぐ!」と悲鳴を上げると顔から地面に倒れこんだ。まるで見えない銃弾に撃ち抜かれたような見事な倒れ方だった。


「だ、大丈夫かね? しっかりしたまえ少年」


 老人はえずいたエルマーの肩を揺すった。

 老人に見覚えはなく、このコロニーの住人ではないとすぐにわかった。

 こんな臭い人、何処を探したっていない。


「そこのお嬢さん、お友達の具合が悪そうなんだが」


 声をかけられたが、ココロは無視した。

 息を整えながら目を忙しなく動かし、状況の把握に努めた。

 エルマーが近づいただけで倒れるほどの刺激臭がこっちまで漂ってくる。

 得体の知れないガスが老人の周りに充満してるのかもしれない。

 ココロは老人を注視した。

 灰色の髭は胸まで伸び、眉毛は瞼を隠すほど垂れ、髪の毛は伸びきって顔に影を作っている。

 顔はミイラのようにしわくちゃで、からからに乾いた荒野のようにひび割れていた。レンズが片方外れた眼鏡をかけ、底の擦り切れた大きなリュックを背負っている。薄汚れて裾が切れた白衣を纏い、履いたスニーカーは底が剥がれてパカパカと浮いていた。

 意を決して一歩近づくと、すっぱいような、カサカサな刺激臭が強くなった。


「うわくっさ!」駆け寄ったテムも思わず頭を跳ね上げた。


 ココロも思わず歯を食いしばり、瞼を閉じた。


「あ、もしかして私のせいか。や、すまない、足なんてここ暫く洗ってないもんでね」


 老人は照れくさそうに笑ったが、足ではなく全身から臭う。

 エルマーは傍に生えていた白い花を鼻にあて、匂いを嗅いで鼻を癒した。

 自分がやるしかないか、とココロは前に出て、ぐっとその場で立ち止まった。

 鼻にくる刺激臭は既に想像を絶する。これ以上近づいたら、なにかに感染しそうだ。

 ココロはすぐに断念し、鼻をごしごしと擦っているテムの背中を押した。


「テム、ほら、お爺さんの罠外してあげて」

「え!? でもココロ」

「いいから、兄ちゃんの敵討ち」

「でも」

「年下でしょ?」


 ココロが淡々とした声音で言うと、テムは唾を飲んだ。


「テム、心配するな。俺も一緒にやる」


 エルマーが歴戦の勇者のように立ち上がり、鼻を親指で擦った。


「兄ちゃん!」

「さすがお兄ちゃん」

「いいか、息止めろよ、吸ったら死ぬぞ」

「息止めてても死んじゃうよ!」

「ぱっとやって、ぱっと離れれば平気だ」


 二人は一度老人から離れて深呼吸して息を止めると、トラバサミを外しにかかった。

 思いのほかすんなりいかず、二人は顔を真っ赤にしながら作業を続けた。

 トラバサミが外れるとすぐ、二人はその場から離れ、地面に生えていた草を毟って鼻の下に押し付けた。

 ココロは口で息をしながら、なんとなしにカメラを構えた。

 老人がカメラに気づいてにっと笑ったので、シャッターを切った。

 なんにしても、老人は被害者で、自分達は加害者だ、適当に放って逃げ出すにはいかない。

 ココロはカメラを下ろすと鼻を摘みながら訊いた。


「お爺さん怪我は? 折れてないですか?」


 老人は地面に座り、右足の脛を擦った。


「いや、折れてはいないよ。ただ、挟まれた時は足が無くなったかと思った。足元を見たらこれだろ? 大きな蛇に噛まれたのかと思って、びっくりして悲鳴を上げてしまったよ。まあ、今更無くなったところで惜しくもない足だが、お陰で君達が来てくれた。助かったよ、君達は、いい人だ」

「いい人?」

「人の悲痛の叫びに、応えてくれる人間、という意味さ」

「そんな、当たり前のことですよ」何もしていないが、ココロは言った。

「当たり前じゃないさ、とにかく助かった。ありがとう」


 微笑んだ老人に、ココロも笑顔で応えた。

 骨は折れていないようで、心底ほっとした。ただ、この骨に皮を貼り付けただけのような細い足には、ただ挟まれただけでもダメージは大きいだろう。


「爺さん、立てるか?」エルマーが訊いた。

「ん、待ってくれ……いたた、こりゃ、うん、ダメだな」


 立ち上がろうとしてすぐ、老人は諦めて尻をついた。


「足、やっぱり痛めたか?」

「ああ、腰が痛い」


 腰は、多分自分達のせいじゃない。

 しかし、まずいことになったな、とココロ達は顔を見合わせた。

 この老人をコロニーへ連れて行くにしても、事情を説明したら罠の話は避けられないし、そんなものをあちこちに仕掛けたことについても追及される。最初は研究が続けられなくなることも覚悟していたが、老人の怪我も大したことがないとわかると、途端に研究のことは隠したくなった。

 どうにかごまかせないか、と三人はアイコンタクトで相談しあった。


「それにしても、こんな所にトラバサミとは驚いたよ」


 そんな老人の声に、三人はびくっとした。「しかも縄まで張ってある。これは何を捕まえる罠なんだい? 見たところ、獣を捕らえるものには思えないが、君達が仕掛けたのかな」

「何で俺達が仕掛けたって?」

「躊躇なく刃の間に手を入れただろう。これに刃がついていないことを知っていたみたいだったから……違ったかな?」


 鋭いな、とエルマーは首を掻いた。


「いや、まあなんていうか……っていうか爺さんこそ、こんな所で何してたんだよ」

「ああ、旅をしていてね」

「旅? 歩いて?」

「車が途中でダメになってね、乗り捨ててからはずっと歩きだよ。一週間くらいかな、食糧がなくなって、森に入れば何か実っているかと思ったんだ。案の定、木の実が沢山生っていたから、食べれるのはないかなと、下を向いたり、上を向いたりして歩いていた。間が悪く、上を向いてるときにそれを踏んづけた。まあ、仮に下を見て歩いていたとしても、私の場合、この目ではよく見えないから、どのみち罠にはかかったかもしれんがね」


 老人は自分の目玉を指した。レンズがない方の目は白く濁り、残ったもう片方もうっすらと濁っていた。


「お爺ちゃん何者?」


 テムが率直に訊くと、老人は両腕を広げた。


「見てのとおり、もう骨と皮だけの爺だよ」

「名前は?」

「名前は、えー」

「まさか、名前を忘れたなんてことないよな?」


 エルマーが眉を顰めると、老人はからからと笑い、咳払いした。


「長いこと人に会っていないものでね、咄嗟に出てこなかっただけだよ、私の名前はリチャード。そう、リチャード・ロウだ」


 リチャード・ロウ。そう名乗った老人は、改めて見ると感染者より不衛生だった。

 歯は何本も抜け落ちていて、口を開けば唾液が糸を引いた。

 ココロはそんな老人からそっと目を逸らした。


「どこから来たの?」テムが鼻を摘みながら訊いた。

「遠いところからだよ、坊や。君達は、近くのコロニーの子達かな?」

「そうだよ。すぐそこ」

「そりゃよかった。ここは、第0056コロニーで、あってるかね?」

「そうだよ、皆はコロって呼んでる」


 それを聞くと、リチャードはほっとするように息を吐いた。


「どうやら辿り着けたようだ」

「目的地がここだったの?」

「目的地のない旅だよ。地図が風に飛ばされてしまってね、記憶を頼りに、近くにあるコロニーを頼ってここまで歩いてきたんだ。森を見つけていなかったら、今頃野垂れ死んでるところだよ」

「そりゃ幸運だった」エルマーは言った。

「罠にはまってなければ完璧だったのにね」


 ココロが言うと、リチャードは笑って足をさすった。


「骨を休めたいんだが、コロニーまで案内してもらえるかな」

「それはいいけど、歩けない、よね?」


 リチャードは木の幹に体を預けて立ち上がった。

 骨は細く、筋肉も殆どなかった。

 荷物が重いせいか、膝も曲がり、背中も丸まっている。

 まるで立ち上がったアルマジロのようだった。


「すまないが、誰か肩を貸してくれないかな。歩くとなると、少し辛い」


 三人はもちろんと笑顔を作ったが、誰一人として肩を貸そうとはしなかった。


「荷物はあたしが持つよ」ココロは最初に口を開いた。

「重たいよ。割れ物も入っているから、気をつけてくれ」

「はいはい」


 一番被害が少なそうなものを選んだつもりだったが、これはこれで、凄い臭いがした。

 結局、モペッドの燃料の先払いということで、エルマーが肩を貸すことになった。モペッドを回収してからは、荷台にリチャードを乗せ、二人乗りで来た道を戻った。


「すまないねー」リチャードはエルマーにしっかり抱きついた。

「爺さん、喋らないでくれ、口からドブみたいな匂いがするんだ」


 エルマーが嗚咽を堪えて頼むと、リチャードは口にきゅっとチャックをした。

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