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 優しい木の香りがする店内のカウンターで、店主のリガーが修理中のカメラと真剣な表情で睨めっこしていた。ココロは大きな音を立てないよう静かに扉を閉め、カメラ屋独特の香りを胸いっぱいに深く吸い込んだ。リガーが作業を終えるまでの間、足音に気をつけて、店内に並べられたカメラや、壁にかけられた写真を眺めた。


 静かな空間に、リガーが細かい作業をする音だけが聞こえる。

 試しにシャッターを切る音、フィルムを巻き取る音、小さなモーターが駆動する音、どれも好きな音だ。

 暫くして、大きな壁掛け時計が十二時を知らせてごーんと重たい音を響かせた。

 カメラを置いたリガーは小さく息を吐き、「ココロか」と顔を上げた。


「こんちはリガーさん、タイミング悪かった?」ココロは小さく手を振った。

「いや、モペッドの音が聞こえたからな、気づいてたよ」リガーは目の周りを手で揉んだ。

「うるさかった?」

「いいや。ただ、うちはケーキ屋でもないのに、涎垂らしてる子がいるなと不思議に思ったよ」

「食べちゃいたいくらい可愛いカメラ達に見惚れちゃって」

「相変わらずだな。それより今日は早かったな」

「仕事早く片付いちゃって、ちょっと早いかと思ったけど来ちゃった」

「っはは、何をそんなに楽しみに来たのかな?」

「もう、わかってるくせに」


 ココロが期待の眼差しを向けると、リガーはわかってるよと小さく笑んで席を立った。作業用のエプロンを脱ぐと、リガーの姿は渋いバーテンダーを思わせた。パリッとした紳士服を上品に着こなしていて、その辺を歩いていたらまず写真館で働いている姿は想像できない。


「ギャラリーでも見て待っててくれ、今取ってくる」

「はーい」


 リガーが畳んだエプロンをカウンターへ置いて二階へ上がっていくと、ココロはお店に隣接した間口の広いギャラリーブースへ移動した。

 カメラが並べられた正面と比べて三倍以上のスペースがとってあり、この空間だけが時間を切り取られたかのようにしんと静まり返っている。

 ブースの白い壁には、大小さまざまな写真が飾られ、その点数は常時、百を下らない。

 淡黄色のライトで照らされた薄暗いギャラリーの壁には、スポットを当てるように白いライトの光りが当てられた写真がある。

 ココロは床に敷かれた柔らかい赤い絨毯の上を歩き、それらをゆっくりと眺めた。

 足音は吸い込まれ、呼吸の音にすら気を遣う。微かに感じる息苦しさが、この空間での緊張感を増して、より鮮明に写真に切り取られた世界へ引き込まれていく。

 もう何十回、何百回も眺めているが、まったく飽きない。

 ギャラリーにはリガーが撮った写真にはじまり、コロニーに暮らすたくさんの人が趣味で撮った自慢の一枚が飾ってあり、それらを写真集としたアルバムも本棚に何十冊と収められている。

 スペースがなくなってくると、それらの一部は公共図書館へ寄贈される。

 ココロの父であるジョンも写真好きで、コロニーで暮らす人達や、風景写真をいくつも残していた。ココロがここで一番好きな写真は、両親のステラとジョンが結婚したときの写真で、ココロが通い出すとほぼ同時期にリガーが飾ってくれるようになった。

 ウェディングドレス姿の母はどこか困ったような、しかし優しい微笑みを浮かべ、タキシード姿の父はどこか照れくさそうで、誇らしげだ。そんな姿を見ると元気が出て、見るたびにとても胸が躍った。


「何度見てもお父さんかっこいいし、お母さんもすっごい美人」と絶賛している。


 父のジョンはこの写真館の常連で、旅に出る前にも愛用のカメラをここでメンテナンスし、万全の状態にしていったそうだ。リガーはその時のことを振り返ると、「あいつフィルム二百枚くらい持ってったからな、きっと山ほど写真を撮ったことだろう」と繰り返し言う。


「帰ってこないならせめて、その写真くらいは見たいもんだ」


 ココロも同じ気持ちだった。あるなら見てみたい。

 物心付く頃には、ココロも両親が帰ってくることは諦めた。

 行方不明になって十二年、世界には、俗に『感染者』、『ゾンビ』と呼称される廃人が沢山いることも知った。両親も旅先で感染した可能性が非常に高く、状況から言って、もはや希望は無かった。

 今はただ、マリオとの暮らしの中、程よく働き、小さな幸せを掻き集めて、夢をあたためる日々だ。


「ココロ。ちょっとこっち来てくれるか?」


 呼ばれると、ココロはウサギのようにぴょんと跳ね、弾んだ足取りでカウンターへ向った。

 リガーは抱えていたカメラのレンズをココロへ向けるように置いた。


「お待ちかねのカメラだ。レンズと消耗品の交換は済んでる」

「いやーんよかったじゃーん」


 ココロはわが子を迎えるようにカメラを抱き上げ、「おかえりい」と甘ったるい声を出しながら頬ずりした。パーツの取り寄せに時間がかかって、この日を三ヶ月は待ったのだ。

 使い込まれたカメラの角には艶が出て細かい傷も多いが、それだけ思い入れも深い。

 それこそ小さい頃は抱えるように持ち、カメラの重さもあって手振れが酷かったが、今ではしっかりホールドできるようになった。これ以上に自分に馴染むカメラは、世界中を探したってどこにも無い。

 レンズカバーを外すと、ひび割れていたレンズはすっかり元通りで、生まれたての赤ん坊のように透き通っていた。レンズの他にもモーターやフラッシュライト、内臓パーツの交換も済んでいるはずなので、早く使いたくてウズウズした。


「やっばい興奮してきた、鼻血出そう」


 ココロは相棒に会えた喜びで頭がおかしくなりそうになり、天井を仰いだ。


「こいつもいい相棒に恵まれたお陰で長生きだ。もう十年か」

「六歳の頃からだから、今年で十年かな。そういえば前の持ち主って誰なの? このコロニーの人でしょ?」


 ココロは鼻を啜ると、ファインダーを覗きこみながら訊いた。

 リガーはカウンターの上を軽く拭くと、折り畳んだ布巾を端に置いた。


「それはわからん。なにせそいつはうちで仕入れたものじゃないからな」

「そうなの? お爺ちゃんが中古で買ってきたのかと思った」

「聞いてないのか?」

「ない」

「ほら、ランセットの廃品屋あるだろ」

「あるね」

「マリオさんがそこで見つけて、うちに持ってきたんだよ。ここで修理して、電池入れてフィルムと梱包だけやった」

「廃品屋って、じゃあこれ、ゴミだったの?」

「ゴミってほど状態は悪くなかった。前の持ち主を知りたいなら、ランセットに聞くといい」


 聞いといてなんだが、ちょっと気になったくらいであまり興味は無かった。

 そうする、とココロは返事をしてカメラを下ろし、しかしなるほど、と納得もした。

 廃品屋の店主であるランセットお兄さんとは知り合いで、小さい頃にカメラを持って遊びに行ったことがあるのだが、カメラをもらったことを自慢すると随分嬉しそうにしていたのを覚えている。


「あえて言わないところがラン兄ちゃんって感じだわ」

「まあ、前の持ち主が誰でも今の相棒はお前だ、これからも可愛がってやってくれ」

「もちろんだよ、本当は自分で修理してあげたいくらいだもんね」

「その気なら教えるよ。道具もあるし、ココロならすぐできるようになる」

「ほんと!?」

「ああ、次故障したら、その時にレクチャーしよう」


 ココロはやったね、と肩を躍らせ、カメラを置いた。


「リガーさん、新しいフィルムもちょうだい。あと電池」

「フィルムなら発色のいいものが出てるぞ。二十枚セットでチケット三枚、電池は二個セット一枚」

「フィルムって『中央ゼロ』の新作?」


 カウンターに身を乗り出して訊くと、リガーは後ろの棚を開け、手に取ったフィルムを差し出した。包装紙は『2044・P』と印字された黒い小さなテープで留めてあった。ココロはそれを鼻に当てて匂いを嗅ぎ、首を傾げた。


「何やってんだ」肩越しに見たリガーが訊いた。

「匂いでわかるかなって」

「……わかったか?」

「新品の香り」


 だろうな、とリガーは眉を上げた。


「第2044コロニーの『パルライド』ってフィルム工場の新作だ。いま中央で映像や写真なんかの記録を残すのに一番使われてるメーカーだ」

「パルライドって聞いたこと無い」

「メーカーなんて名前だけだ。最終的にはメーカーの技術も中央に吸収されて、そのノウハウがあちこちのコロニーにある工場に行き渡る。一人は皆のために、皆は一人のためにって精神の賜物で、そいつを土台にした新製品がバンバン出る。お陰でうちの在庫はあっという間に時代遅れで、取り寄せ用のカタログも積み木状態だ」


 リガーがカウンターの内側を顎で指した。見ると、縁に埃を被ったカタログが何冊も積みあがっていた。埃の被り具合からして、リガーはカタログの中身には興味がないようだった。


「それ、いらないの?」

「作業するとき足乗せると高さがちょうどいいんだよ」

「そのカタログにあたしのカメラって載ってる?」

「心配するな、パーツの取り寄せもできるし、なければ作ってもらえる」

「なら安心だね。じゃあフィルム百枚と、電池は十本ちょうだい」

「修理とフィルム百枚、電池十本、合わせてチケット四十枚」


 リガーが梱包されたフィルムの二十枚セットを五束、二本セットの電池が入った小さな箱を棚から取ってカウンターに積み上げた。

 ココロはポケットから取り出した平らな革財布から、束になった『勤労チケット(通貨の代わり)』を四十枚数え、差し出した。リガーは枚数をチェックすると、使用済みのチケットをパンチで挟んで穴を開け、引き出しに放り込んだ。


「はい毎度あり。手提げ袋は?」

「いらない、リュックあるし」


 ココロはリュックをカウンターに乗せ、フィルムと電池の箱を手際よく詰めた。


「そうだ、実はココロに渡しておくものがあったんだ」

「……なに?」


 リガーは幅三十センチ、縦四十センチ、厚み三センチほどの厚紙で包装された包みを取り出し、麻紐で縛ったそれをカウンターに置き、口角を上げた。

 ココロは意味深なリガーの笑みにもしやと思い、期待を込めて「ホントに?」と訊いた。


「開けていいぞ」

「ウッソ最高、新作出たの!? 何年ぶり!?」


 ココロはリュックを床に置くと、麻紐を解いて、包装紙を丁寧に開いた。

 まるで宝箱を開ける冒険家の気分で、期待通りのお宝の姿に、うっとりと吐息を漏らした。


「きたよ……これ」


 『ロイズの世界丸見え写真集・X』と題されたそれは、四十年以上も前から写真家として活動しているロイズと仲間達によって少ないながら製本され、入手ルートも知人伝いという、手に入れるのも非常に困難な代物だった。

 ココロもリガーというマニアがいなければ決して出会うことがなかった本だが、一度出会ってしまったら、もう虜になるしかなかった。一つ写真集が出るたび、それが最後になる可能性も高いため、こうして新作に出会えると神様にすら感謝したくなった。

 『ロイズの写真集』は、普通人の踏み入ることのない世界の景色を収めた写真が並び、そこには息を飲むほど雄大な美しい景色や、巨大な植物、人の形をした木々や、人が暮らさなくなった大昔の都市、大移動する『感染者の群れ』など、冒険小説や絵本を読むだけでは決して見ることのできない現実、嘘偽りのない世界があった。

 どこで撮った写真なのか明かされていないだけに想像が膨らみ、ページを捲ればココロの世界も、夢も、希望すらも、空のように果てしなく広がっていった。

 当時幼かったココロにとって、ロイズの写真集に出会ったことは救いにもなった。

 文字通りロイズと一緒に世界を冒険していくうちに、コロニーの外に取り残され、今もどこかを彷徨っているかもしれない両親が、こんな世界を目にすることが出来るのなら、悪いことばかりではないと、そう思えたのだ。

 いつしかその憧れは夢になり、こんな風に人を感動させる写真を撮りたいと思うようになった。


 その新作が今ここにある。


「見てもいい?」

「もちろん」

「ありがとう!」


 今回はどんな景色が見られるんだろうか、とココロは本を裏表と返し、ゆっくりと表紙を開いた。

 最初の一ページ目は真っ白で、そこにはたった一言こうあった。


『私と一緒に、この広い世界を冒険しよう』


 ちょっとクサイが、これが堪らないと、ココロはニヤニヤした。


「何か飲むか?」

「飲む」


 ココロは答えながら、傍の長椅子に移動して腰を降ろした。


「コーヒーは飲めないんだったな、甘いホットミルク? 冷たいほうがいいか?」

「ホットミルクに氷入れて」

「じゃあミルクでいいだろ」

「それじゃ砂糖が溶けないよ」

「いま持ってくるよ」

「リガーさん大好き」


 リガーは微笑み、裏で注いだ氷入りのホットミルクをカウンターへ運んだ。

 夢のひと時が始まると、ココロはロイズの旅路に引き込まれ、夢の世界へと旅立った。

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