ジョンが目を覚ました時、視界に映ったのはガラスのひび割れた腕時計だった。

 針は止まっているというのに、自分の心臓はまだ鼓動していた。

 夢だったらどれだけいいか。

 そう願っても、ぼんやりとした頭はしっかりと現実を認識していた。

 背中に残る鈍い痛みも、全身が鉛のように重く感じる酷い疲労感も本物だ。


 ジョンは重い頭を持ち上げた。どうやら民家の壁に背をもたれているようだ。隣に目をやれば、妻のステラも同じ体制でそこにいた。いったい誰が自分たちをここへ運んで、座らせたのか。あの怪物だとしたら、いったい何の為に。そう考えても、わかるはずはなかった。

 頭を垂れた妻の頬に手を触れると、微かにだが瞼が動いた。


「……よかった」


 生きてる。

 ほっとしたが、安心はできない。

 もしかしたら、気を失っているうちに感染したのではないか、と不安になる。だとしたら、殺されていないことにも、放浪する感染者に襲われていないのにも納得がいく。


「もしそうなら最悪だ」


 ジョンは溜息を吐き、空を見上げた。

 こんな日に限って、空は雲ひとつない快晴で、太陽の光りもあたたかく降り注いでいた。

 この空の向こうでは、きっと娘や父が、自分達の帰りを待っている。

 そう思うと、やはり簡単には諦め切れなかった。

 引きずってでも、ステラは連れて帰る。

 それぐらいしなければ、身を挺して守ってくれたガドにも合わせる顔がない。


 ジョンはポケットに捻じ込んだ折り畳み地図を開き、辺りの景色と見比べた。

 コロニー居住区の外れまでは来ている。そのお陰か、放浪する感染者も見当たらない。身を隠せる建物はゲートへ近づく程に少なくなっていくが、この大通りを南へ抜ければ、後は門まで一直線だ。

 ジョンは地図をポケットに戻し、平原が広がる南へ目を向けた。

 建物や木々も少ないせいで壁までは遠く感じるが、ここまでの道のりを考えればどうってことはない。周りを見ても、あの怪物も見当たらない。逃げるなら今しかない。


「よし」


 壁を伝って立ち上がろうとすると、足に杭を打ち込まれたような激痛が走った。


「なんだ。足が――」


 右足がまったく動かない。

 ジョンは壁に体重を預けて立ち上がり、ステラを担ごうとしたが、うまくいかなかった。

 動かない足、力めば痛む胸、腕にも力がしっかり入らない。自分で思っている以上に、体のあちこちが壊れている。この状態で気絶したままのステラの体を支えるのは厳しい。


「……っくそ。俺の体が機械なら、親父に修理してもらえたのにな」


 ジョンは自嘲気味に笑むと、そうはならない現実に小さく悪態を吐いた。

 自分だけなら這ってでも逃げられるかもしれないが、そんなのは願い下げだ。

 ジョンは壁に肩を預けたまま、力を振り絞ってステラの体を胸まで引き上げた。

 時間はかかるが、居住区を抜けるまでは建物の壁伝いに進んでいける。後のことを考えている余裕はなかった。とにかく、この場から一刻も早く離れたい。ジョンはステラの右腕を自分の肩に回してしっかり腰を支えると、壁に右半身を擦りつけるようにして歩いた。

 一歩ずつでも確実に進めることは、ジョンに活力を与えた。

 

 希望はまだある。


 しかしそんな希望も、見張っていたかのように迫る気配に霞んだ。

 象がゆったりと歩くような重たい足音、金属がぶつかり、チェーンが擦れる音が、確実に近づいてくる。一歩ずつ進む度に、ズル、ガリ、と何かを引きずる音も聞こえてくる。ジョンは逃げるように急いだ。肩越しに振り向くと、怪物の姿が見えた。


「くそっ、くそ――っ!」


 しかし、焦ったせいで躓き、地面に転がってしまった。

 ステラを庇って倒れたジョンは、迫ってくる怪物を注視したまま、後ろ向きに這うように地面を蹴った。後ろに下がり、ステラの体を胸まで引き寄せる。けれど怪物の一歩は広く、距離はあっという間に縮まった。


「くそ、来るなよっ!」


 手に掴んだ石を投げつけたが、鉄板の鎧がコン、といい音を響かせただけだった。


「……痛々しいな」


 ふと、そんな声が聞こえて、ジョンは耳を疑った。誰か居るのかと辺りへ視線を走らせようとして、いや、と怪物を凝視する。

 歪な響きを孕んだ、人の声というにはあまりにも不気味な声だったが、たしかに聞き取れた。

 怪物は唖然としたジョンの眼前で足を止めた。

 大きな体が、二人に影を落とした。

 怪物がいていたのは、車のボンネットを加工して鎖を繋いだもので、ソリに見えた。

 怪物は鎖から手を離し、ジョンの腕からステラを取り上げようとした。最初の時とは違って、割れ物を扱うように慎重で、ゆったりとした動きだった。ジョンは咄嗟に自分の腕から離れるステラの腕を掴んだが、「壊れるぞ」という怪物の声に思わず手から力を抜いてしまった。


「おい、やめろ! 妻をどうするつもりだ! 返せ!」


 怪物は答えず、静かにステラをソリの上に寝かせ、今度はジョンに手を伸ばした。その手を払いのけようとしたが、大きさがまるで違う。赤ん坊が大人の手を払おうとするようなものだった。あっさり捕まり、ソリの上に、ステラの隣に座らされた。


「お、俺達をどうするつもりなんだ」


 戸惑いを隠せないジョンを見下ろした怪物は、目線を近づけるように腰を屈め、答えを吟味するように唸った。溶接マスクの奥に微かに見えた瞳は、その体の大きさとは裏腹に小さい、人のものだった。


「……お前たちをどうするかは、俺が決めることじゃない」

「……俺達……決めるって、言葉がわかるのか」

「おかしなことを言う奴だ。お前だって、話せるじゃないか」


 声音はともかく、言葉遣いは流暢だ。

 ジョンは困惑したが、話せるならと賢明に話しかけた。


「言葉がわかるなら頼む。俺と妻を、見逃してくれ」

「……見逃してくれ、か」


 怪物はその言葉を懐かしむように反芻はんすうし、「なぜだ」と訊いた。


「なぜって……帰りたいんだ。まだ小さい娘も、家で待ってる。だいたいなんで俺達を捕まえるんだ」

「こんな無防備な状態の人間は、この辺りじゃなかなか見つからないからな。お前たちこそ、こんな『死んだ町』に何の用だ? まあ、なんであっても、みすみす逃がす理由もない」

「まさか、食べる気なのか」

「冗談だろ、共食いする趣味はない」怪物は微かに笑った。

「あんたは、人間なのか?」ジョンは眉を顰めた。

「人は見かけじゃないだろ」


 その表情豊かな言葉に、同じ人間なら説得が通じるかもしれない、助かるかもしれないとジョンは思った。しかし怪物は、そんなジョンの考えを読んだかのように、「希望は持たないことだ」と言った。


「諦めろ。俺がお前の言葉に耳を傾ける優しさを持ち合わせてるなら、最初から襲っちゃいない」

「……ならなぜ、彼にあんな惨いことをした。俺たちも、彼も変わらないじゃないか」


 言うと、怪物はまた「惨い、惨いね」とその言葉を反芻はんすうした。


「最初はヤツも捕えるつもりだった。が、奴が体に打ちこんだ薬物はそこらの感染者が体に飼ってるもんを濃縮したもんだ。あれを使った以上、あいつはもう死ねない、いわば俺達側だ」

「死ねないって、彼はお前に頭を潰されたんだぞ、目の前で殺しておいて――」

「頭を潰しただけじゃ死なないのさ。何ヶ月か、何年後かは知らないが、いつかはここらを彷徨ってる連中の一人になる。そういうやつは要らないんだよ」


 怪物はそう言うと、もう一度、「諦めろ」と告げて、ソリに繋いだ鎖を掴み、いた。

 このソリは、どうやら自分たちを運ぶ為に用意されたもののようだ。

 怪物が歩き出すと、ジョンの視界に広がる荒廃した町の景色が後ろ向きに流れ始めた。

 振動で滑り落ちそうになったステラの体を支え、ジョンは思案した。

 言葉を解する怪物は、人間だ。確証はなくても、言葉を交わしていれば肌で感じる。そうなると、不安感も多少薄れて、冷静にもなれた。さっきまでは、人殺しもいとわない怪物に見えていたが、殺されるまでのことはないとわかれば、少しは気を強く持てる。

 ジョンは肩越しに振り向き、怪物の大きな背中に声を投げた。


「あんたは、何なんだ?」

「見たままの怪物だ……乗り心地はどうだ? 俺は工作が得意でな、ありあわせのガラクタで作ったんだ」


 異形の怪物が牽くソリの乗り心地がいいはずない。

 振動は大きいし、座らされた鉄板だって固い。

 ただ幼い頃に珍しく雪が積もった故郷で、父にこうしてソリを牽いてもらったことを思い出した。滅多に雪なんて降らない土地でソリなんてなかったので、父が即席で廃車になった車のボンネットを使ってソリを作ってくれたのだ。


「どこへ連れて行くつもりなんだ。せめて妻だけでも、なんとかならないか」

「説得には応じない。それに、その女は俺が撫でつけてから目を覚ましちゃいないだろう。頭、やっちまってるかもしれないからな、放り出しても生きて帰れる保障なんてどこにもない」

「自分で俺達をこんな風にしたんじゃないか」

「加減が難しくてな、最後はうまくいっただろ?」

「だからって、このままついて行っても、助かる保障はないんだろ?」

「死なせない努力はするつもりだ」


 怪物はそう言うと、真っ直ぐコロニーのゲートを目指した。

 何の為に、どこへ、その手の質問に、怪物は二度と答えなかった。

 質問を変えて、名前や、家族の有無を尋ねたりしてみたが、返事はなかった。


「……わかったよ」


 怪物の一貫した態度にジョンは一人頷き、説得は諦めた。

 ステラの体を引き寄せ、耳元で何度か呼びかけたが、目覚める気配はなかった。

 ジョンは腰を浮かし、ポーチから使い古したポラロイドカメラを取り出した。

 旅の景色を写真に収める為に持ってきたもので、幸い、故障はしていなかった。

 ジョンは肩越しに怪物を見て、こちらに注意が向いていないことを確認した。

 フィルムの束が詰まったアルミケースを腹の上に乗せ、目に映った景色を一枚でも多く残そうと、シャッターを切った。フィルムが排出されるモーターの音は、ソリが引きずる音に消されて怪物には届いていない。ジョンは次々と排出されるフィルムをケースへ放り込み、怪物の後ろ姿も収めた。


 最後のフィルムをセットすると、レンズを自分とステラに向け、唇を噛んだ。


 このまま自分達が居なくなれば、残された娘と父はずっと、そのことを引きずって生きていくかもしれない。せめて、自分達のことを捜し続けることがないように、自分達がここで終わることを、伝えるメッセージを残したかった。

 ジョンはステラの頭に頬を当て、精一杯の笑顔を作ってシャッターを切った。

 排出されたフィルムに写しだされた自分達の姿を見て、ジョンは肩を落とした。

 眠るように瞼を閉じるステラと、精一杯に笑ったつもりでも、悲しさが消えない笑顔を浮かべた自分が写っている。

 ジョンは胸ポケットのペンを取ると、写真の裏にメッセージを残し、アルミケースの中に写真を揃えて閉じると、ビニールテープでぐるぐる巻きにした。


 故郷に残っている娘はまだ小さい。


 これが娘の手に届く可能性は極めて低いが、ゼロじゃない。

 捜索が始まれば、間違いなくこの町に誰かが調査にやって来る。

 そうなれば、届く可能性はある。


 そしてもし届いたなら、『自分の幸せ』を見つけて、精一杯に生きて欲しい。

 ジョンは額に当てたケースに願いを込めると、ケースを放った。

 自分達の足跡は、ここまでしか残せない。

 ジョンは遠ざかっていくケースを見つめながら、ステラの頭を撫でた。

 諦めた空気が伝わったのか、それとも自分がしていたことを黙認していたのか、全てのことが済むと、前を向いたままの怪物がふと言った。


「おまえ、奇跡を信じるか?」


 読めない怪物だ。

 しかしジョンは、静かに、力強く答えた。


「……信じる」

「俺もだ」


 怪物が、笑みを浮かべたような気がした。不思議なことに、護衛を殺し、自分たちを攫おうとしているこの怪物が、ただの化け物に思えなくなった。どうかしているとしか思えないが、どこか心が通ったような、不思議な感じがあった。

 ジョンは冷静に、もう一度だけ、同じ質問を投げかけてみた。


「……俺と妻を、どこへ連れて行くつもりなんだ?」

「奇跡を起こせるかもしれない場所だ」怪物は応えた。


 お前みたいな怪物の言う奇跡なんて、どうせロクなもんじゃないだろう。

 そんな皮肉が喉元まででかかった。

 それでも、奇跡という言葉は誰が吐いても希望を抱ける、美しく、恐ろしい言葉だと思った。


「お前の娘、名前は?」


 ジョンは答えなかった。

 ジャケットの胸ポケットに手を入れ、折り畳んでいた写真を開いた。

 重ねられた一枚の紙には、自分が好きな詩が綴られている。


 世界に触れるということは、見知らぬ誰かに触れるということ。

 人に触れるということは、まだ見ぬ世界に触れるということ。

 人との出会いが悲劇をもたらすなら、奇跡もまた、人との出会いが齎すものだ。

 愛であれ、憎しみであれ、悲しみであれ、喜びであれ、それらは他者と触れ合い、見つめ合うことから生じる奇跡だ。関わることで心や体が傷ついたとしても、その傷を癒すのもまた人であるということを、どうか忘れないで欲しい。


 この世界に、自分に関係のないことなんて一つもない。


 関係のない人なんて、一人もいない。

 

 ただそれだけで、人は生きる価値がある。


 だからこそ、人生は尊く、世界は美しい。


 故郷に居た頃は胸に響いた詩も、今となっては慰めにもならなかった。

 ジョンは詩の紙をよけ、家族みんなで写った最後の写真を見つめた。

 まだ幼い娘の頬を親指の腹でなぞり、「ココロ」とその名を呼んだ。

 廃屋の屋根に立つ錆びた風見鶏に留まっていた鳥が、ジョンの声にこたえるように一つ鳴き、大空へ羽ばたいた。ジョンの頭上を飛び越えたその鳥は、怪物の引くソリを目に映しながら、『第0556コロニー』の壁を越し、広大な世界へと飛び去った。

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