ココロぞんび

キタビ

序章

 どれだけ責めても、自分のことを許すことができない。


「ごめんなさい。ここに来たこと、あなたをここへ連れてきたこと、後悔してる」


 気を失う直前、満身創痍になった妻――ステラが虚ろな瞳で空を見つめて言った。

 その目に涙が浮かんだ時、夫であるジョンはステラを抱き上げ、必死に励まし、肯定した。


「俺は君とここへ来た事を、生きてきたことをちっとも後悔なんてしていないよ。君はなにも悪くない。君を責める人なんているもんか」


 その声にステラは微かに微笑んだが、すぐに唇を震わせ、涙を呑んだ。


「……あの子は責める。許してなんて言えない。私は、悪いお母さんだもの」


 ステラは辛そうに言うと、途端に気を失って全身から力が抜けていった。

 ジョンは重くなったステラを抱きかかえたまま、奥歯をかみ締めた。

 ほんの一月前、ジョンはステラと二人、まだ幼い娘を父に預け、壁に囲まれた故郷を離れて旅に出た。

 故郷の『第0056コロニー』の外壁から十キロも離れたことがなかった頃は、その景色の果てに、数万キロ彼方の世界を想像して、冒険家になった妄想をしていたものだ。


 憧れの旅から戻ったら、娘に外の世界の話を聞かせてあげようと楽しみにしていたのに、現実は残酷だった。理想と現実は違うとは言っても、自分達はおおよそ見聞きすることのない、最悪の事態に見舞われている。

 ジョンは気を失ったステラの頭に頬を押し当て、胸を掻き毟りたい想いに駆られた。


 こんなはずじゃなかった。


 こんなことになるとわかっていたなら、娘の傍を、家族の傍を、生まれ育った故郷から離れようなんて考えもしなかった。

 ジョンは気を失った妻を強く抱き、固く瞼を閉じた。


 いや、きっとそれでも来たはずだ。


 この旅は、ステラが抱えた苦しみを取り除く為に必要だ。

 目的地である『第0556コロニー』は今でこそ事故によって破棄され、景色は荒廃し、往来する人影も『感染者』という生気を失った者達ばかりだが、ここはステラが暮らしていた、思い出がたくさん詰まった大切な故郷だ。

 感染者のなかには、ステラの家族や友人の姿もあった。


 そんな彼等に出会い、『さよなら』をすること。


 それがこの旅の目的だ。 


 幸せになる為に、背筋を伸ばして、堂々と生きていく為に、お別れを言えなかった人たちに、


「私は今、幸せだよ。みんなの分まで必死に生きるよ」


 そう伝えるための旅だ。

 それを拒む世界、非難する人が居るなら、そっちの方が間違っている。


「おい、しっかりしろよお父ちゃん!」


 その声に、ジョンは顔を上げた。


「オレが必ず帰してやる。この命に代えてもだ!」


 自分のことを『お父ちゃん』と呼ぶ、護衛として旅に同行した初老の男――ガドは、この地で出会ってしまった『怪物』を前にしてそう言った。このコロニーを離れようとしてすぐに姿を見せたその怪物は、他の感染者たちとは違い、執拗に自分たちを追い回してきた。ここまでの車も潰され、ステラもその怪物にやられた。


 怪物の体躯は二メートルを越え、丸太のような腕にはチェーンを巻きつけ、拳は家を解体する鉄球のように大きかった。胴は頑強な壁のように分厚く、鎖で繋ぎ合わせた鉄板を鎧のように纏い、車のタイヤや布切れで関節を、顔を溶接用のフェイスガードで覆っていた。

 ステラはそんな怪物の撫でるような動作一つで地面を転がり、気を失った。


「いいかいお父ちゃん、お母ちゃんを連れて走れ。振り返らずに、出来る限り遠くにだ」

「しかし、ガドさん!」

「いいから、ここはオレの出番でしょうよ」


 ガドは赤い薬物の詰まったカートリッジをピストル型の注射器に嵌めると、それを自らの首に当てて引き金を絞った。液状の薬が、まるで宿主を見つけた寄生生物のように彼の体内へ流れ込んだ。

 見る見るうちに、ガドの全身の血管が太く膨らみ、青く浮かび上がった。


「……人を守るってのは、楽じゃないね」


 そう言って、ガドは時代遅れで大仰な槍を構えた。

 ガドの体は一回り大きくなったように見えたが、対峙している怪物はさらに大きい。


「ほら早く、家に帰ることだけ考えて、走るんだよ!」


 ガドが槍を振ると、ジョンはステラを背負い、走り出した。

 背後でガドの雄叫びと、稲妻が弾けるような炸裂音がして、思わず振り向いた。

 砂埃に霞んだ景色の向こうで、ガドが怪物に捕われていた。


「ガドさ――っ」


 呼ぶ暇もなく、怪物は何の躊躇いもなく男の頭を卵でも割るように掌で握り潰し、地面へ放った。地面に転がったガドの体は痙攣し、首元からはおびただしい量の血が、心臓の鼓動に合わせるように脈打ちながら溢れ出た。

 ジョンは歯を鳴らし、体は震え、額の辺りがしんと冷えるのを感じた。

 指先の感覚も次第に消えて、喉が擦り切れるように痛んだ。

 怪物の頭がこちらを向くと、ジョンはコロニーの出口を目指して走り出した。

 怪物の目から逃れるように、遮蔽物になる建物や路地を使い、要所で息を整えながら、安全な道を探した。ただ、物陰には感染者も多い。動きは決して早くはないし、積極的に追いかけてくるわけでもないが、気配が感じられないだけに道の角で鉢合わせると、心臓が止まりそうになる。

 もしも噛まれでもしたら、自分たちも彼等の仲間入りだ。


「頑張れステラ、頑張れ」


 ジョンはぐったりした妻に呼びかけながら必死に走った。

 しかし、怪物の足音と気配は遠ざかるどころか、次第に大きく強くなっていった。

 通りへ抜けて一気にゲートまで駆け抜けようとすると、その道を怪物の影が遮った。

 先回りされた。咄嗟に踵を返そうとしたが、巨大な掌が自分に向って伸びてきた。背を向ければステラが捕まる。その瞬間、頭を潰されたガドの姿が脳裏に浮かんだ。 

 ジョンはステラから手を離し、伸びてくる掌を迎え撃とうと両手を前に突き出した。

 

 けれど、勝てるはずがない。

 

 掴まれてしまえば、まるで巨大な蛇に体を締め上げられるように、抵抗ができなかった。


「コノォ――ッ!」


 軽く締められただけで、全身の血液が頭と爪先へ集まり、視界が真っ赤に染まった。

 頭が破裂しそうだ。目の前の景色が黒く霞み、唇は痺れ、こめかみが酷く痛んだ。


 潰される。全身が弾け飛ぶ。


 そう思った直後、全身に強い力がかかり、風を切る音を聞いた。

 放り投げられたのだ。眩しい太陽や空、地面が自分を中心に回転している。

 目が回り、上下の感覚も定まらないまま、背中に強い衝撃が走った。息が詰まり、全身に走った激痛は耐えがたかった。暗い靄がかかった視界に映ったのは、倒れて動かなくなった妻を拾い上げる、怪物の姿だった。


 もはや、腕を伸ばす力もなくなっていた。


 意識が途切れる寸前まで溢れたのは、ただ無力な自分に対する怒りの涙だった。

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