第2話 カフェ『Celestite』

横浜の海へと繋がる運河沿いに、ひっそりと佇む一軒の店があった。

朝8時、飲食店が開店するには、まだ早い時間。

この時間に高槻泉水たかつきいずみは店を開ける。


街路樹が影を落とす瀟洒な鉄の門扉の先に、煉瓦作りでイギリスの田舎家風な建物がある。それが泉水の勤めるカフェ『Celestite』(セレスタイト)だ。

店の周辺には横浜市役所などもあり、近代的なオフィスや高層ビルもある。アンティークな雰囲気に包まれているのはこの一角だけで、まるでここだけ時が止まっているかのようだった。

大きな特徴は運河に面したウッドデッキがあること。流れる水を眺めながらコーヒーを飲むことができて、それが人気でもある。ウッドデッキに並ぶテーブルは6卓。

店内も6卓だから、店の規模からするとテラス席のエリアが大きい。

泉水は、このカフェの二代目、兼バリスタ、兼調理担当、兼フロア担当…つまりはこの小さな店の、唯一の正従業員。

店長の父親と、たまに入るアルバイトと、自分。

働いているのはそれだけの、ささやかな城だ。


大学を出てすぐにパリに渡ったあの日から、2年半が過ぎていた。

半年前に帰国してこの店を任されることになったのは、父親の脚の具合が本格的に悪くなったからだ。

元々そのつもりで修行に出ていたので、タイミングが少し早まっただけとも言える。

だが、泉水としてはまだまだ準備が足りていない状態での店長就任となってしまい、最初はかなり不安な日々だった。

お客様に迷惑をかけてしまうことがあったり、味の面で厳しい意見を言われたりしたこともあった。それでも、この店を継げるのは自分しかいない、そう気持ちを奮い立たせて働いてきた。

試行錯誤の日々の中、父親の無言の激励と、バイトのメンバーや近所の常連さん達の温かさに支えられ、今はなんとか店も軌道に乗り始めている。


いつもの様に、泉水はユニフォームである淡いグレーのピンストライプの開襟シャツに黒のパンツ、それに長めのギャルソンエプロンを腰に巻いて身支度を整え、店内やデッキの掃除を、8時前に手早く済ませた。

入口前の小さな坪庭に咲く遅咲きの秋薔薇を一輪、キッチン鋏でカットしてカウンターに飾る。

アイス・バーグというこの品種は、うつむきかげんに咲く白い花びらが清楚できれいだ。これは亡くなった母が植えたもので、泉水にとってはお守りのような存在でもある。


調理器具やエスプレッソマシン、機械類の電源を入れて状態を確認し、食材のチェックと準備も滞りなく終わっている。今日使う分の豆も挽き終わり、全ての準備が整った。

よし、と思うのと同時に、これもいつもの通り、最初のお客様の足音が聞こえてくる。


最近、いつも朝一番に現れる。

それが、彼だった。

肩にかかる長めの茶髪を、サイドだけ拾って後頭部の少し高い位置で束ねている。

肩幅は泉水より広く男らしい体形なのに、顔立ちがどこか中性的なせいで女性っぽい髪形も似合ってしまう。

一度見れば忘れない、華やかな容姿。


「…おはよ、泉水さん」


軽いあくびと人懐っこい表情。

――これが彼の最大の武器だなと思わせる、太陽のような笑顔。


「おはよう。蓮くん」


にこりと笑い返すと嬉しそうに近寄って来る。


「今日はちょっと寒いよなー。温かいのがちょうどいい季節になって来たよねぇ」

「いつものでいいの?」

「うん」


彼のお気に入りは運河に面したテラス席で、誰もいない時間帯を充分満喫すること。朝のこの時間だけは煙草もOKにしているので、喫煙者の彼が一人でゆっくりするにはうってつけだった。

泉水はカウンターの中へと入り、エスプレッソマシーンの前に立つ。

彼のリクエストはいつもカフェラテで、少し甘い方が好みだ。

豆はグァテマラ。黒糖のようなコクと甘み、リンゴのような酸味を感じる品種。

味には敏感なタイプなので、彼に作る時は特に気を遣う。

一度、雨の日に、味が違う気がすると言われ、驚いた事がある。

エスプレッソで使う豆は湿度によって挽き具合を微妙に変えている。その度合いが彼の舌には違和感として感じられたらしい。

そんな風に的確な感想を言ってくれる人は稀なので――それ以来、泉水は彼に一目置いていた。彼がここに通い始めたのは三ヶ月程前からなのだが、随分前からいる常連のような気がしてしまう。

そんな彼、川嶋蓮の『いつもの』お気に入りを、細心の注意を払って最高の一杯になるように淹れた。冷めないうちにと、出来たてをテラス席の彼の元へ運ぶ。


「はい、どうぞ」

「ありがとうー。あー、いい匂い。この一杯の為に生きてる気がする、オレ」


カップを手に、目を閉じてうっとりと香りを嗅ぐ姿が幼く見えて、思わず笑ってしまう。


「……いい顔するよね。そういう顔されると、作る方としてはやる気がでる」

「でしょ?俺ってすごく良い客だと思う」

「それを自分で言うから、ありがたみが薄れるんだって」


笑いながらのこんなやり取りが日常で、25歳の泉水にとって4歳下の蓮は弟のような存在になっていた。


「だけど、こんなに頻繁に来てくれるのは蓮くんだけだよ。そんなにコーヒー好きだとは思わなかった」


正直、本当に感謝している。週4日か5日ぐらいで店に来てくれるのだ。彼の家が歩いて15分くらいの場所にあるからだと以前に言っていたが、それにしても多い。


「まあ不健康な生活してるし……朝イチの散歩くらい頑張ろうかなって、さ」


気怠く笑う蓮の職業は『ホスト』である。

彼が勤める店は桜木町にあり、家に帰って睡眠を取ったあと、運動がてらここに来てくれる。

泉水の淹れる『目覚めのコーヒー』が、何より楽しみなのだと言ってくれるありがたい常連客だ。


「……」

「どうかした? 味がおかしかったかな」


無言で見詰めて来るので不安になり、泉水は蓮の顔を覗き込んだ。


「いや、俺、泉水さんの顔とコーヒーで、リセット出来てるのかもなぁと思って。なんて言うか、心が洗われる……みたいな?」


テーブルの傍に立っている泉水を上目遣いに見ながらそんな事を言って来る。

少しおおげさじゃないかなと思うが、悪い気はしない。


「そんなに効果絶大?」


はは、と笑う泉水に蓮はむくれて見せた。


「いや、ホント、マジだって。泉水さんのこの味、俺にはどストライクなだけに他の店のコーヒーが物足りなくなっちゃって、飲めなくなりつつあるんだよね。この責任、どう取ってくれんの?」


などと本気とも冗談ともつかない理不尽な訴えを真顔でされ、泉水は苦笑いを浮かべる。

リップサービスだと分かっていても、自分に甘えてくれるのは――やっぱり年下っぽくて可愛いな、と思う。何より、自分の淹れたコーヒーが一番だと言ってくれているのだから、嬉しくない訳がない。


「まぁ確かに、土日以外ほとんど毎日来てくれてるよね……それにはもちろん感謝してる。そうだなぁ、このブレンドのコーヒー、少し分けてあげようか?」

「え、いいの? 店で売ってるのとは少し違うんだよね?」

「カフェラテ用に作ってあるから、少しコクも苦味も強めなんだよね。ちょっとクセが強いんだけど、蓮君なら充分楽しめそうだし、良かったら」

「おー、やったー! やっぱり神対応だなー。さすが泉水さん」

「はいはい。大事な常連さんだからね。これからも通ってください、って事で」


無邪気に喜ぶ姿に、泉水もつられてまた笑ってしまう。何となく犬の耳とパタパタと揺れる尻尾が見える気がする。仔犬というよりは、じゃれつかれたらこちらが倒れてしまいそうな大型犬、といった雰囲気だが。

男の自分から見ても魅力的な笑顔だと思う。

容姿の良さもあるが、自由奔放というのか――仕事柄の営業スマイルではない、心からの笑顔だと感じさせるものが彼にはある。

客とは節度ある距離感を保つのが常の泉水でさえ、蓮にはいつの間にか懐に入られている、という自覚があった。


「――でもここに通うのは最初に会った時の約束だから、今更でしょ」

「!」


(あの時僕が言ったこと、覚えているんだ)


少し驚いた。

初めてここを訪れた時の蓮は、今の様子からは想像もつかないくらい荒れていたし、酔っていたから。

覚えていないと思っていた。

見た目の印象と違って、律儀な性格なんだよなと改めて感心する。


「ありがとね、じゃあまた明日来る。ご馳走さま」


きちんと挨拶をして、お土産のコーヒーを入れた紙袋をひらひらと掲げ、嬉しそうに帰っていく。

近頃は開店後のこの流れがルーティーンになってしまった。

朝の8時台にテイクアウト以外で来る客は限られていて、今日のように蓮と二人きりの時間も多い。そんな時に二人で交わす他愛のない会話が、いつの間にか泉水にとっても良いリフレッシュタイムになっている。


(……正直、こんな風に話せる相手になるとは思ってなかった)


運河の向こうに見える景色にぼんやりと視線を泳がせ、昔の事に思いを馳せていると、


「おーい、泉水―。コーヒー無くなったんだけどー」


何とも無粋な呼びかけが聞こえてきた。

……そうだった。二人きりじゃなくてもう一人いたんだった。

意図的に忘れていた存在が。


「もういっそ自分で淹れた方が早くない?」


接客に関しては『神対応』などと言われる泉水らしからぬ、そんな言葉が漏れる。

店内のカウンターの隅に居ついている客――いや、客と言えるのかどうかは微妙な存在。

その昔馴染みの相手をするために、泉水は店内に戻った。

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