カフェと雪の女王と、多分恋の話

草陰の射手

第1話 巴里の空の下

『――あなたに出来ること、夢見ていることがあれば今すぐ始めなさい。

   向こう見ずは天才であり、力であり、魔法です』


ゲーテのこの言葉を胸に、無茶を承知で単身フランスに渡った時。

下宿先を整えるより何より最初にしたことは、パリ・サンジェルマン・デ・プレ地区にある憧れの『カフェ・ド・フロール』を訪れることだった。


そこは、パリの知識人たちが集った場所として、今なお語り継がれる伝説的な店だ。

名実ともにパリを代表するカフェと言っていい。


地下鉄の駅を出て店の前に立った時、何だか現実とは思えなくて――

放心したように店の外観を眺め続けた僕は、少しおかしな外国人と思われたかもしれない。


エントランスの屋根を飾る植物のデコレーション。

全体がガラスに囲まれた明るいテラス席。

神殿のような白い柱が目を惹く、アールデコ風の内装。

観光客はもちろん、常連客のパリジャン、パリジェンヌで溢れる活気に満ちた店内。

ずっと来たかった場所は、全てがキラキラして見えた。


建物も雰囲気も、憧れていた通り素晴らしかったけれど、それ以上に僕を魅了したものがある。それは店の中を泳ぐように行き交う、黒いベストに蝶ネクタイ、白いカフェエプロンのギャルソン達。

その姿は僕の理想そのもので、いつまでも飽きることなく眺めていられた。

カフェという空間を完璧に演出する優雅な動きは、雑多な音を静かに調整するコンダクターのようだと思った。

むやみに笑顔を振りまくことはないが、アイコンタクトでこちらの意思を読み取って席まで来てくれる姿は本当にカッコよくて。

彼らはお客と対等な立場で接客する。そのプロらしい働きぶりに感動してしまった。


レモンタルトとカフェオレを頼み、ゆっくりしているだけで幸せだった。

パリにおいて、カフェは時間と空間を楽しむために訪れる場所であり、ただ珈琲を飲みほすだけの場所ではないのだと肌で感じた。


店内をうっとり眺めていると、隣席にいた地元のフランス人青年に声をかけられた。

この店は席と席との間隔がせまく、自然に人との距離感も近くなる。

間近で見るブルーの瞳がとても綺麗で。

僕がパリに来たばかりの日本人だと知ると、目を輝かせてこう言った。


「良かったらパリを案内してあげるよ。地元の素敵なお店を君に教えてあげたいな」


笑顔が優しくて――この人ならついて行っても大丈夫かなと思わせる雰囲気があった。

一人で海外に修行に来た心細さもあって、ついほだされたところもある。

ただ初対面の人間に対する警戒心ももちろんあって、危ないと感じたら口実を作って逃げなくちゃなどと頭の片隅で思ったりもしたけど……僕は彼の誘いにのった。

あの時のことは、自分でも想定外だった。

どちらかと言えば人見知りの僕がとった大胆な行動。

今までの自分とは違うと、思いたかったのかもしれない。


セーヌ川に向かいカルーゼル橋を通り、ルーブル美術館、パレ・ロワイヤルを眺めながらオペラ座、ガルニエ宮を目指して二人で歩いた。

夢のように美しい建物が次々と目の前に現れる。

普段、どちらかと言えば大人しい僕も、この時ばかりは高揚感につつまれて……

ああ、本当にパリに来たんだなと、彼に何とか興奮を伝えようとして拙いフランス語で頑張ったのを覚えてる。


彼は話し上手で、明るくて、退屈しなかった。建物の歴史を説明してくれたり、おすすめの場所を熱心に教えてくれたり。

僕はまだフランス語が片言だったけれど、お互い英語が少し話せたのもコミュニケーションが楽にとれた理由の一つだった。


結局、最初の不安や疑いもいつの間にか消え失せて――日が暮れるころ、気付けば僕は彼の部屋の中にいたのだった。

彼の熱っぽい目線や、仕種や、触れてくる指先から、単なる好意以上のものがあると気付いていた。僕らは同類を見抜くことにとても敏感な生き物だから、はっきり言葉にしなくても分かった。


――ある種の覚悟も期待もあった。

この場所で、自分を知る人間が誰もいないここでなら、生まれ変われるんじゃないか。

素晴らしく美しい街の魔法がかかっている今ならば、過去なんて忘れられる。

彼なら、もしかして本当に、僕を変えてくれるんじゃないか。

そう願って――彼の誘いを拒まなかった。


……結果、僕は彼を傷つけた。


キスまでは平気だ。

だけど、その先に行為が進むと――

僕の身体は動かなくなる。

僕はセックスに苦手意識があって……楽しむことが、出来ない。


相手が自分の身体を求めてくると頭の奥が急に冷えて、「一体何をしているんだろう?」と、俯瞰でお互いの姿を眺めてしまって、他人事のような感覚に陥ってしまう。

何の反応もなくシリアスに見つめ返されたら、相手は成す術もない。

百年の恋も魔法も、冷水を浴びせかけるような僕の態度で、全て泡と消える。

彼ならと思ったけれど、この時もやはりダメだった。


ごめん、とただひたすら謝る僕に、気にしなくていいよと言ってくれた。

ベッドの上で身支度を整えながら、そう言えば知っているかい?と何事もなかったかのように話し始めた。


「あのカフェ・ド・フロールも、1950年頃には同性愛者の客に3倍もの料金をふっかけたりしていたんだ。店から追い払いたいっていう理由でね。……酷い話だよ。

でも僕は、それでも店に通いつづけた当時の恋人達に、拍手喝采を送りたくなるなと思ったりもして……時代や受け取る相手によって、物事の価値や、見えかたは変わるし、マイノリティーはいつでも批判や差別の対象になりうるっていう一例だと思うんだけど」


蒼い瞳でじっと僕をみて、彼はこう尋ねた。


「君も、誰かに酷い扱いをされたことがある?」


それは、僕の心の奥深くに潜む疵に触れる問いで。

とっさに――返せる言葉が出て来なくて。


「……Aucun problème」


ただ、“問題ない”としか、言えなかった。

そんな僕を見て彼は少し寂しそうに笑い、肩を抱き寄せ瞼にキスを落とした。


「君のゲルダになれなくて残念」と。


その時は彼の言葉の意味がよく分からなかった。

後から、ああ、雪の女王か、と思い当たり苦笑した。

瞳と心臓に、悪魔の鏡の破片が刺さったせいで人間らしい心を失くしてしまい、雪の女王に魅入られた少年カイが、幼馴染のゲルダという少女に救われる物語……。


――彼を、好きになりたかったし、なれると思ったのに。


どうしてダメなんだろう?

どうして、どうして、と――

何度、問いかけたところで答えは同じだった。


……理由は分かっている。だけど、どうしたらいいのかが分からないのだ。


あの時から4年も経つのに、僕の心は凍って、ひび割れたまま。

手酷いかたちで初恋を失った高校生のあの日から。

今に至ってもまだ、僕は、砕けた心を抱えた自分を、鏡に映った他人のように冷ややかに眺めることしかできないでいる――…

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