8. 黄金の瞳、謎多き薬師のアヌビス
「どうやらレティシア嬢は一時の脳貧血でも起こしたのでしょうな。後頭部に擦り傷が出来ておりますが、大した事はありません。ですから殿下、そのように怖いお顔でこちらを睨むのはやめてくだされ」
宮殿の薬師の中では年嵩の、長くて白い髭が特徴的なアヌビスという老人は、そう言って皺だらけの顔をくしゃりとさせた。
「別にアヌビスを睨んでなどいない。宮殿の薬師の中で誰よりも優秀なお前の事だ。レティーには傷の一つも残らないだろう」
「全く……元々残るような大きな傷はございませんよ。それに、まだレティシア嬢は幼い。小さな傷程度ならワシの手を借りずとも、すぐに治ってしまいますわい。フォッフォッ……」
アヌビスは先々帝の時代からこの宮殿で薬師をしている。しかし彼の年齢や家族、生まれ育った地などは誰も知らないという謎多き老人でもあった。
「いやぁ、それにしても……」
深い皺で囲まれた、この国には珍しい黄金色の瞳で、アヌビスはレティシアをじっと見つめる。
その瞳は全てを見透かしてしまうような、この世界の叡智が全て詰まっているような、そんな不思議な気持ちにさせる。
そしてレティシアは、自分が過去から来たのだと知られてしまうのでは無いかと思わず身体を強ばらせた。
けれど同時に、もしかしたらこの老齢の薬師が、この不思議な現象について何らかの事情を知っているかも知れない。そう考えると、緊張の中に少しだけ期待の気持ちが芽生える。
「厄介なのは……レティシア嬢はまだたったの四歳だというのに、このように殿下を慌てさせたり怒らせたりする。可愛らしい悪女ぶりじゃ。フォッフォッ……」
再び顔をくしゃりとさせたアヌビスは、一見枯れ枝のようにも見えるシワシワになった手で、レティシアの頭を優しく撫でた。
その時、レティシアの身体全体に温かな膜がふわりと纏わりついたような感覚があり、すぐ溶けるように消えてしまう。
「え……?」
レティシアにはその感覚が何かは分からなかったが、目の前のアヌビスは確かに何かを知っていて、戸惑うレティシアを励ましてくれているような、そんな気がしたのである。
「アヌビス! またお前は余計な事を言って! レティーは決して悪女などでは無い!」
「フォッフォッ……。ただの年寄りの戯言でございますよ。全く、余裕のない男は嫌われますぞ、殿下」
「いい加減に……っ」
未だ九歳とはいえ、普段は帝国の皇太子らしく感情をあまり表に出さないリュシアンだったが、このアヌビスの前では年相応の子どもらしい感情を曝け出していた。
レティシアは過去にこのアヌビスと接する機会が無かったので知らなかったが、リュシアンにとっては数少ない、信頼出来る人物だったのだろう。
「リュシアン様、アヌビス様、ありがとうございます」
レティシアはそっと寝台から降りると、その場で二人に向かって丁寧なお辞儀をした。
「レティー、アヌビスの言う事は気にするな。お前が悪女などでない事は、俺がよく知っている。そもそも、悪女などというものは……」
「ふふっ、リュシアン様、私はそのような事気にしておりません」
「……レティー。やはり頭を打ってから、何だか話し方がおかしいぞ」
確かに、一度は生を終えたレティシアが何らかの力によって過去へと逆行し、そしてどうやら今は四歳の頃だということが分かったのだ。
話し方や仕草も、デビュタントを終えたレティシアのままでは明らかに違和感があるだろう。
「ちょっと大人の真似をしてみただけよ」
「そうか?」
「
わざと子どもの頃のような拙く、舌足らずな話し方をするのには抵抗を覚えたが、リュシアンもいつものレティシアに戻った事で心底ホッとしたようなので、レティシアはこのまま続ける事にしたようだ。
微笑みを浮かべたレティシアは、小さな手でリュシアンの手を握った。昔はよくそうしていたようにするだけなのに、何故かとても胸が苦しくなる。
久しぶりのリュシアンの手は温かく、まだ柔らかな剣だこがいくつかあるだけの子どもらしいものだった。
「ルシアン様、行きましょう。それではアヌビス様、ごきげんよう」
レティシアの言葉に眦と口元の皺を深めたアヌビスは、右手を上げて答える。その後も老齢の薬師は、子ども達が仲睦まじく医務室から去って行く様子を、目を細めて眺めていた。
何らかの事情を知っていそうなアヌビスとは、また話す機会を持ちたいところであったが、今はその時では無さそうだと、レティシアはリュシアンの手を引いて医務室を出る。
「お嬢様!」
医務室を出た廊下の向こうから、レティシアが子どもの頃に大好きだったベリル侯爵家の乳母マヤが、ひどく慌てた様子で駆けてくるのが見えた。
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