9. マヤのぬくもり、レティシアの決意


 前の人生でこの乳母のマヤは、レティシアが十歳の頃に風邪をこじらせた肺炎で亡くなってしまった。


 その時の侯爵夫人はレティシアに良き淑女であれと厳しい教育を施してきた一方で、使用人達に対してレティシアが我儘を言う事は黙認していた。

 侯爵夫妻による大きな期待や圧力と、レティシアが努力すればするほどに何故か疎遠になっていくリュシアンとの関係で苦しんでいたレティシアは、普段から極度のストレスを抱えていた。


 マヤはそんな過去のレティシアの我儘をいつも朗らかに受け止めてくれた大人の一人で、乳母としての役目を終えた後も侍女としてレティシアの側に仕えていた。

 そのマヤが亡くなった時には、レティシアも暫く食事が喉を通らないほどに落ち込んだ。

 

 思わぬところでそんな懐かしい顔に再会したレティシアは、流石に涙を堪えきれずに頬を濡らしてしまう。


「マヤ……っ! マヤぁ……!」

「まぁ! お嬢様、どうなさったんですか⁉︎」

「ごめんなさい……っ、マヤ……ぁ!」


 突然泣き叫びながら謝るレティシアに、マヤは訳が分からないというように眉を寄せる。

 そうしながらも飛びついてくるレティシアをしっかりと抱きとめた。


「あの……、殿下。お嬢様に、何かあったのですか?」


 グスグスとマヤのお仕着せに顔を寄せて泣き続けるレティシアの背を優しく撫でながら、マヤはレティシアに放って置かれたリュシアンに問う。

 リュシアンも、突然のレティシアの行動に苦笑いを浮かべる。


「先程レティーが脳貧血を起こして倒れたんだ。それが余程怖かったのかも知れないな。幸い、そう大きな怪我は無い」

「まぁ、左様でございましたか。それはそれは」

「直ぐにベリル侯爵家にも遣いをやったが、どうやら行き違いになったようだな。それで、いつもより迎えが早いようだが、どうかしたのか?」


 遣いをやってからまだそう時間は経っていないにも関わらず、ベリル侯爵家のマヤがこうして宮殿に来たという事は、何か別の用事でレティシアを迎えに来たのだとリュシアンは推測したのだった。


「あっ! そうでございました! お嬢様、どうかお喜びくださいませ! 予定日より少しばかり早うございますが、少し前に、お嬢様の弟君がお産まれになりました!」

「え……。パトリックが……?」


 レティシアは思わずまだ生まれたばかりの弟の名前を口にしてしまった。

 ベリル侯爵家では生まれた場所で初めて父親が子に名前を与える為、そこにいないレティシアが知る由もないはずの名前を。

 

「まぁ! どうしてご存じなんですか? そうです、弟君のお名前はパトリックと、旦那様がお決めになられました」

「以前にお父様が話していたのを聞いてしまったの」

「あら、そうだったのですね。ではお嬢様、屋敷へ戻りましょう」


 小さなレティシアと視線を合わせたマヤは、潤んだ紫色の瞳を覗き込み、にっこりと笑う。

 レティシアの方も、マヤの笑顔につられるようにしてゆっくりと微笑んだ。


「殿下、今日のところは失礼いたします」


 マヤはリュシアンに深くお辞儀をし、レティシアの方を見る。レティシアは小さく頷くと、リュシアンに対して可愛らしいカーテシーをして見せた。


「ではルシアン様、また」

「あぁ、またな。そうだ、また俺の方から弟のパトリックに会いに行くよ」

「はい! お待ちしています」


 先程まで泣いていたレティシアも、リュシアンの言葉に晴れやかな笑顔で答えた。


 久しぶりに乳母のマヤの手を握って馬車止めまで歩いて行くレティシアは、その優しい手のぬくもりに頬が緩む。

 そして今度こそマヤが風邪を引いた時にはしっかり治すように言いつけて、過去と同じく肺炎で死なせたりするものかと心に誓った。

 そんな事をレティシアが考えているとは思いもよらないマヤは、侯爵家の馬車に乗るなり姉としての心構えを話し始める。


「弟君が生まれたという事は、とうとうお嬢様は姉君になられたのです。これからはパトリック様と、仲良くしなければなりませんよ」

「ちゃんと分かっているわ」

「いつまでも甘えん坊のお嬢様ではいけません。……ですが、私にならば時々甘えても構いませんよ。お嬢様だってまだたったの四歳なのですから」


 向かい側に座っていたマヤが、走行中で不安定な馬車の中を上手く移動し、ドサリとレティシアの隣へ座る。そしてその豊かな胸元にレティシアを引き寄せ、ぎゅうっと抱き締めたのだった。


 レティシアにとって乳母のマヤといえば、幼い頃は母親である侯爵夫人以上に心を許す事が出来る貴重な存在であった。

 

 過去には、レティシアに対して愚かな傀儡であるように育て上げようとした侯爵夫人。それも決して厳しく躾けていた訳ではなく、寧ろレティシアを甘やかして蝶よ花よと育てていた。

 そうして人格を支配されたレティシアは、いつの間にか侯爵夫妻にとって都合の良い傀儡となり、決して口答えせず従順なところが皇帝とカタリーナ皇后のお気に入りになったのである。

 

 対してマヤは、そんなレティシアに苦言を呈する事が多かった。今思えばそれは全てレティシアの事を思って、レティシアが大人にとって都合が良く利用しやすい令嬢になる事を嫌うような素振りであった。

 しかし過去のレティシアにとっては侯爵夫妻からの言いつけが絶対で、マヤからの言葉を疎ましく感じ、そのうち少しずつ距離を置くようになった。

 やがてマヤは風邪をこじらせて亡くなってしまったのだ。


「ありがとう、マヤ。大好きよ」

「ええ、ええ。分かっておりますとも。私も、お嬢様の事が大好きですからね」


 一度は愚かさ故にリュシアンに遠ざけられ、命すら落としたレティシアは、今度こそ道を間違うまいと温かなマヤの胸の中で固く決意する。

 


 

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