6. 一度目の生涯、愚かな傀儡令嬢の最期


 あのデビュタントの夜以降、レティシアはますます皇帝夫妻によって宮殿へと呼び出される機会が増えた。

 

 今日はベリル侯爵も共に席に着き、近く執り行われる皇太子夫妻の婚姻式についての打ち合わせを兼ねた茶会であった。

 豪華な菓子が準備されたテーブルには、皇帝と皇后、そしてベリル侯爵とレティシアがそれぞれ腰掛けている。


「全く。あの皇太子はよほど悪運が強いとみえる。せっかく戦場の最前線へ駆り出してやったというのに、死ぬどころか武勲を立てて帰ってきおった」


 皇帝は、幼い頃から為政者として優れた適性を持っていると皆が褒め称える皇太子リュシアンの事が気に入らなかった。

 髪の色こそ皇帝と同じ黄金色を持って生まれたリュシアンだったが、瞳の色は、皇帝である自分に恐れを抱く事なく数々の苦言を呈してきたソフィー皇后の持つ深い青色だった事も癪に触った。


 その為、皇太子であるリュシアンを隣国との争いに向かわせ、あわよくば戦死でもすれば良いと図っていた。皇族の一員が民の為に立ち上がり、戦死すれば皇族の支持率も上がるだろうと。

 けれどもその思惑は半分外れ、リュシアン率いる第一、第二騎士団達は、見事隣国を退けて帰って来たのである。

 それどころか、皇太子を推す民の声が喧しくなってきた。

 

「本当に。あの時戦死でもしてくれていれば私の可愛いニコラをレティシア嬢の相手にすげ替えたのに。残念でならないわ」


 皇帝の隣で赤い唇を歪めて笑うカタリーナ皇后は、自身の血を引く第二皇子ニコラを溺愛していた為、非常に残念そうに相槌を打つ。


 レティシアは出征してゆくリュシアンを心の底から心配したあの戦に、そのような意味合いがあったのだと初めて知ると大きな衝撃を受けた。

 唇が震え、全身が冷えてくる。指先が痺れて今にも目の前が暗くなりそうだった。あの頃、リュシアンから言われた事を思い出す。リュシアンは皇帝や皇后の企みに気づいていたのだ。

 何も知らないのは愚かな自分だけ。

 

 自らを情けないと思った途端にひどい目眩に襲われ、倒れそうになる。

 けれどこのような場で倒れる訳にはいかないと、貴族令嬢としての矜持から歯を食いしばって耐えていた。


「近頃愚民どもの声の中には『皇太子を皇帝に』などというふざけたものが上がっているようだが、おおかた第一騎士団におるイリナ嬢の父親、ジェラン侯爵の差し金に違いあるまいよ」


 思わぬところでイリナの名を聞く事になり、レティシアはハッとする。それでなくとも皇帝と皇后による胸が痛くなるようなリュシアンへの侮辱や嘲りを、手の中に傷ができるほど拳を握り込んで耐えていたのに。


「全くでございます。恐らく私どもの家門が皇族の一員となる事に焦りを感じているのでございましょう。イリナ嬢のような男勝りな女子おなごなど、未来の皇后には全く相応しくありませんがな! はははっ!」


 隣で笑う父の声が遠くに聞こえている気がした。『未来の皇后に相応しくない』のはイリナなどではなく、自分ではないのか。

 皇帝達の目論みなど何も知らずに、ただ悲しげにリュシアンの出征見送ったレティシアを、きっと全てを悟っていたリュシアンはどう感じていたのだろうか。


 お守りなど渡して白々しいと皮肉に笑ったのだろうか。

 

 デビュタントを迎えたあの日、イリナとリュシアンがとても似合いの雰囲気だったのを、レティシアは思い出す。


「当然ですわ! 女子の分際で殿方のやる事に並ぼうなどと、そのように分不相応な者はこの帝国フォレスティエの皇族に不似合いで、死んで当然ですもの! ねぇレティシア、貴女もそう思うでしょう?」


 嘲りながら声を高くする皇后の言葉には、相当熱がこもっていた。ソフィー前皇后の事を指しているのだとレティシアはひしひしと感じ取る。

 息子の婚約者であるレティシアにも優しくて気高くて、美しかった前皇后の笑顔を思い出すと同時に、それを喪った時のリュシアンの悲しみ様も呼び起こされた。レティシアも、幼い頃からソフィー前皇后の事が大好きだった。


 あぁ、やはりこの方達はこれからもリュシアンと分かり合う事は決して無いのだと、その時唐突にレティシアは悟る。

 いくら自分が彼らの間を取り持とうと努力しても、今後上手く交わる事は何があっても無いのだと。


 それどころか自分は何も分かっていなかったのだとひどく憐れに感じ、自然と頭を垂れた。


 今更気付いてももう遅いのかも知れない。リュシアンはこの様な事を平気で口にする彼らに対しとっくに見切りをつけていて、レティシアもその一味なのだと思っている。


 だからいつの間にかあの様に、冷たい態度を取るようになったのだ。


「私は……」


 レティシアが震える唇を開こうとしたその時、重厚な扉が勢いよく開かれ、なだれ込む様に駆けてきた騎士達がレティシア達のいるテーブルを囲んだ。

 皇帝と侯爵は素早く立ち上がり、皇后とレティシアは呆気に取られて動けないでいた。


「無礼な! 何事だ⁉︎」

「ひ……っ! ニ、ニコラ⁉︎」


 騎士達の間から現れたのは第二皇子ニコラの首を手に持ったリュシアンだった。

 ニコラの髪や顔は血に塗れ、リュシアンの騎士服も鮮血で汚されている。


「皇太子! お、お前! 何を⁉︎」


 怒りに顔を真っ赤にした皇帝は、無表情で立つリュシアンへ掴み掛かろうと飛びかかる。

 そこからはまるでスローモーションのようにゆっくりと時間が流れた。

 意味不明な言葉を叫びながら飛びかかった皇帝の身体をリュシアンが袈裟斬りにし、冷たい石の床へと倒れた皇帝の背中へ躊躇なく剣を突き立てたのだった。


「陛下! おのれ、乱心したか!」

「いやぁぁ……っ! ニコラぁッ!」


 一瞬の間を空けて侯爵がそう叫ぶと、同時に我に返った皇后がリュシアンの手にあるニコラの首へ縋り付こうと動いた。

 しかし皇后がリュシアンの元に辿り着く前に、その背中から鋭利な剣鋒が血と共に飛び出したのである。


「皇后陛下……ッ!」


 そこでやっと掠れた声が出せたレティシアは、皇后が正面から女騎士イリナによって突き殺された事を知る。

 イリナも、リュシアンも、周囲の騎士達もその顔は一様に無表情で、レティシアはゾクリと背筋が震える思いがする。


「皇太子! このような事が許されるとお思いか⁉︎ それにジェランのメス犬め! 其方も自分のした事が分かっているのか⁉︎ 皇族殺しは大罪ぞ!」


 レティシアの父であるベリル侯爵は額に血管が浮き出るほど興奮し、唾を飛ばす。


「五月蝿い。アンタみたいな貴族がいるからこの国はダメになるのよ」


 そう言って腰の剣を抜いた侯爵をイリナが斬ろうとしたところで、レティシアは侯爵を庇うように二人の間へとその身体を滑り込ませた。


「う……っ!」

「レティシア!」


 父親が自分を呼ぶ声が聞こえたその刹那、熱いものが全身を巡ったような、そんな感覚に陥ったレティシアは、短く唸って冷たい石造りの床へと平伏した。

 視界は徐々に赤く染まり、せっかく身を挺して庇った侯爵も、次の瞬間にはリュシアンによって屠られるのを見た。


「リュシ……アン……さ、ま」


 せめて愛するリュシアンへと手を伸ばそうとするが、無情にも嘲笑を浮かべたイリナによって叩き落とされる。


「安心して死になさい。愚かな傀儡令嬢レティシア。これから殿下の事は私がお支えするから心配いらなくてよ」


 お願い、最後に一目だけ、リュシアンの表情が見たいとレティシアは願った。

 けれどそれは自分を見下ろすイリナによって阻まれる。しかし自分がこうなってもリュシアンが駆け寄ってくる気配すらない事から、本当に嫌われていたのだと実感し、痛みと悲しみで次々に涙を零した。


 どうして……。私はずっと貴方を……。


 目の前が次第に霞んでくる。もうそろそろ死ぬのかとそう思った時、「イリナ」と呼ぶリュシアンの声がすぐそばでしたような気がした。レティシアは最後の力を振り絞って目を開ける。


「リュシアン……さま」


 イリナと代わって目の前に現れたリュシアンの黄金色の髪へと手を伸ばす。ただ嬉しくて、いつの間にか微笑みすら浮かべていた。

 

「この国の為、ニコラは自ら首を差し出した。お前は……あの侯爵を庇うなど、最期まで愚かな傀儡令嬢だな」

「もう、しわけ……あり……」

「俺は新しい帝国を造る。昔語り合ったような、民の為の帝国を」


 レティシアにはリュシアンの表情が、声が、段々とぼやけて分からなくなっていた。その声色は、昔のように優しかったような気もするし、そうでなかったような気もする。


「民に報告を。殿下、行きましょう」


 イリナがリュシアンを呼ぶ。短く返事をしたリュシアンは、倒れたレティシアを置いてその場を去っていった。


 リュシアン様……、私が愚かでお父様達の傀儡だったから。だから自立したイリナ嬢をお選びになられたのですね。


 悲痛なその言葉は音になる事なく消えていく。


 レティシアは自らの命がそこで途切れたのを感じた。


 


 

 


 


 

 



 


 

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