5. 月夜の決別は、思い出の場所で
レティシアの華麗なるデビュタントは、皇太子の婚約者という存在感を示すという点では成功だった。
帝国フォレスティエで一二を争うほどの圧倒的な美しさを誇ったベリル侯爵令嬢に、皇帝をはじめ新皇后カタリーナもその他の貴族達も、レティシアこそがこの帝国の皇太子の婚約者として相応しいと認めたからだ。
そして父親であるベリル侯爵のもとには、数多くの貴族達が挨拶に訪れた。そこで未来の皇后となるレティシアを褒め称え、媚を売り、今後の為に自分達の家門を売り込む事を忘れなかった。
しかしレティシアの求めていたリュシアンとの距離を縮めるという意味では、このデビュタントは失敗だった。
何故ならばレティシアをエスコートしていたリュシアンは終始仮面をつけたような無表情であったし、心のこもった褒め言葉も、熱のこもった眼差しもレティシアに与えられる事は無かったのだから。
社交界デビューとなる初めてのダンスを課せられた義務のように一曲踊ると、リュシアンはさっさとレティシアの元を去ってしまう。
残されたレティシアは、続々と現れてはダンスの申し込みをしてくる貴族令息達に流されるように、いくつもの曲をこなしていった。
ダンスを踊りながらもレティシアの視線は常にリュシアンを求めて会場を巡っていたが、チラリと目に映ったのは胸が引き絞られるような光景だった。
会場の片隅ではリュシアンが率いる第一騎士団の面々が集まっていた。
そして騎士服のイリナと会話を交わすリュシアンの姿がある。
僅かに微笑んでいるようにも見えるリュシアンと親しげに会話をするイリナは、婚約者であるレティシアが隣に並んだ時よりも余程お似合いに見えた。
「……私にはそのようなお顔、久しく見せてくださらないのに」
「え? 何かおっしゃいましたか?」
ポツリと零した独り言を、ちょうど先程ダンスを終えたばかりの伯爵令息が拾う。
レティシアにとって、熱い視線を向けられたいのはこの伯爵令息ではなくリュシアンであるのに。
「いえ、何でもありませんわ。少し疲れたので、風に当たって参ります」
「それでは、お供いたしましょうか?」
「大丈夫です。お気遣いいたみいります」
一人になりたくて手近なバルコニーへと向かおうとしたレティシアだったが、いつの間にかイリナ嬢と別れたリュシアンが庭園の方へと降りて行くのが見えた。
「リュシアン様……どこへ向かうのかしら」
レティシアは明かりが灯された庭園へ降りようと、優雅な仕草でふわりとドレスを翻した。
なるべく目立たぬように早足でリュシアンの背中を追いかける。
「リュシアン様……?」
リュシアンが立ち止まったのは多くのハーブが植えられた区画で、二人が幼い頃にヒソップを摘んで遊んだ場所でもあった。
「なんだ……追って来ていたのか」
「申し訳ありません。リュシアン様がこちらへいらっしゃるのがふと目に留まったものですから。……ここは、昔よく二人で遊んだ場所ですね。懐かしい……」
ここは良き思い出の場所だというのに、今の二人にはあの頃のような穏やかな雰囲気は感じられない。
戦に向かう前に渡した、ヒソップの刺繍を施したお守りはどうなっただろうか。尋ねてみようと勇気を振り絞って口を開いた。
「あの、リュシアン様。あの時……」
しかしリュシアンは一度鋭い眼光をレティシアへチラリと向けただけで、凍りつくように冷たい声色だけを返す。遠慮がちに話し掛けたレティシアは、その様子に続きを口に出来なくなった。
婚約者同士とはいえ、その関係はもう完全に冷え切っていた。
「お前は変わった。今では父ベリル侯爵の傀儡となり、皇帝とカタリーナのご機嫌取りに勤しみ、自ら民達の苦労を知ろうともしない愚かな令嬢だ」
厳しい言葉を投げかけながらも、リュシアンの眼差しは嬉々として夜の庭に咲き誇る花々へと向けられている。
もう視界に入れるのすら嫌だと言うように、決して自分の方を見ようとはしない婚約者に対し、レティシアは胸を刃物で抉られるような痛みを覚える。
「きっと母上も其方の変わりようを嘆いているだろう」
「そんな……」
レティシアは「違う」と言いたかった。
リュシアンの実母ソフィー皇后の亡き後、リュシアンが出征している隙を見て、待っていたかのように皇后の座についたカタリーナ新皇后。
そんな新皇后と非常に仲睦まじい様子の皇帝。
傀儡になったのは自分を守る為だけではない。リュシアンと彼らの確執を少しでも和らげる事が出来たらという思いから。そして、第二皇子となる腹違いの弟との難しい関係性を何とかしたいという考えから、レティシアは懸命に立ち回ったつもりだった。
一見皇帝と皇后、そして第二皇子のご機嫌取りに見える行動も、レティシアからすれば全てはリュシアンの為を思っての行動だったのである。
彼らは邪魔者となったリュシアンを排除する事も厭わないのだから。そうさせない為に、レティシアはレティシアなりに必死だったのだ。
それに、母親である侯爵夫人は「レディーは愚かでありなさい。決して意見などしないように」と口を酸っぱくして教え込んできた。
それもこれも、賢明なソフィー前皇后が皇帝に対して様々な進言を行った結果、それを良しとしない皇帝から疎まれ、挙句身籠っていた子を流産し、身体を壊して儚くなってしまったからである。
実は、ソフィー前皇后は何者かによって殺されたとの噂もあった。
同じ皇族の一員となるならばと、前皇后の二の舞にならぬようレティシアは徹底して愚かな令嬢である事を求められたのだ。
ただ淑女らしく、政治には口を出さず、美しく着飾って殿方をお迎えする。
母親からそう躾けられてきたレティシアが、義理の両親となる予定の皇帝夫妻と、出来る限り良好な関係になれるよう取り計らうのは当然の流れだった。
しかし皮肉なことに、そのせいで婚約者であるリュシアンとの溝が深まる事になってしまったのだ。
それに対してレティシアは、一体どうしたらいいのかと頭を悩ませていたところなのである。
いつから道を誤ってしまったのか。いっその事ここで全ての気持ちを吐き出してしまおうか。
レティシアは昔と同じように仲睦まじい二人に戻るキッカケになればと、たった今もそう思ってリュシアンの背中を追いかけてきたのだ。
「リュシアン様……私は……」
「いや、聞きたくない。会場へ戻れ。お前とはもう片時も共にいたくない」
勇気を出して口を開いた途端、明確な拒絶の言葉をぶつけられたレティシアは、みるみるうちに紫色をした眼に涙の膜を張り、小さく「はい、申し訳ございません」とだけ呟いてその場を去る。
リュシアンは去り際のその小さな背中を見ても、もう心を動かされないのか微動だにしない。
いつから歯車は狂ってしまったのか。大きく変わってしまった二人を、古から変わらない月が見下ろしていた。
「ヒソップ、か」
実はこの夜、リュシアンはとある決心を胸に抱いていた。
幼き頃の思い出の場所を訪れたのは全くの偶然で、ただざわつく心を落ち着かせようと亡き母ソフィーの思い出が詰まった庭園へと足を踏み入れたのだった。
月明かりに照らされゆらゆらと風に揺れるヒソップを、その深みのある青き瞳に焼き付けたリュシアン。
数日後、この若き皇太子はこの国を、民を救うべく、愚かな皇帝と皇后、そして……婚約者を屠るのであった。
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