第29話 幸せは花の香りに満たされて①
猛暑は駆け抜け、残暑が厳しい季節も去り、ようやく秋の風が吹き始めた十月。
塩崎生花店は臨時休業し、鈴木夫妻の挙式のために装花の準備をしていた。
竜胆が鈴木夫妻と綿密に打ち合わせをして形にした理想の花を、いよいよ実際に作り上げる時が来た。
朝から竜胆が仕入れた花を、織本と母と三人で美しく仕上げていく。後期になって時間割が変わった織本は、金曜の本日授業が二限で終わりだと言って店に来てくれていたのだが。
「……くしゅん!」
「大丈夫、すみれちゃん? 無理しないで一度帰ってもう一枚羽織もの持ってきたら?」
「あ、大丈夫です」
そう言う織本は鼻頭が赤くなっていて、全然大丈夫には見えない。それも無理のない話だった。シャッターを閉めた店内は、冷蔵庫の中のようにキンキンに冷えている。花は温度管理が重要で、暑いとすぐにダメになってしまう。装花で使う花は長時間フラワーキーパーから出して作業しなければならないので、店の中全体を冷やさなければならなかった。
竜胆も母も寒い中で働くのに慣れているのでどうも感じないが、織本は違うだろう。
「無理すんなよ、厚着してこい」
「でも、作業が多いので抜けるのも申し訳ないですし……」
「んなこと言って風邪でも引いたら大変だろ。明日も働いてもらうし、いいから一度帰れ」
「じゃ、じゃあ、これだけ終わったら……」
なおも渋る織本に、竜胆は眉根を寄せ、自分の作業を一旦中断した。手にしていた花鋏をウエストポーチにねじ込むと、バックヤードに引っ込んでからカーディガンを探し出し、それを織本の頭にバサリと被せる。
「予備用に店に置いておいたやつ。着ておけ」
「……いいんですか?」
「俺は使わないから」
言ってから、ハッとする。
しまった、これはセクハラになるんじゃないだろうか。
店長の服なんぞ渡されても困るだけだ、気持ち悪いと思われるかもしれない。
慌てて回収しようかと織本を見たら、彼女はいそいそとカーディガンを着てだぶつく袖を折り返しているところだった。
「ありがとうございます。あったかいです」
「……おう」
にこりと笑う織本は特に竜胆の服を着ることに抵抗はなさそうで、よかったと胸を撫で下ろす。
「アンタも人に気をつかえるようになったのねー」と母にニヤニヤしながら言われた竜胆は「うっせぇ」と短く返しておいた。
今回用意するのは、ウエディングドレスとカラードレス用の各ブーケとブートニア、カラードレス用には花冠も。あとはフラワーシャワーで使う花びら。披露宴会場の高砂と各テーブル用の花。そして両親に贈る花束。すべてを三人で作るのはかなり骨が折れる。
久々に長時間ただひたすら花に向き合って過ごす。
花に触れ合う。花を眺める。花の状態を確かめる。花を見極め、ひとつひとつを最高の状態に持っていく。
今回の要望なナチュラルテイストなのでそのように仕上げる必要がある。「野に咲く花を自然に摘み取ったかのような」という形容はよく聞くが、だからと言って本当にただ摘んだだけでは洗練されたものは出来上がらない。
抜け感を出すためには、ちいさな花穂を取ったり、邪魔な枝を切ったり、そうした繊細な作業が必要なのだ。
出来上がりを想像し、緻密に計算をして花を束ねていくーーそうして花のことを考えている瞬間が、竜胆はたまらなく好きだった。ただでさえ美しい花が自分の手によってもっと綺麗になってゆくのを見るのが好きだ。瑞々しい花々が、より美しくなる手助けをできるなら、こんなに楽しいこともない。
「塩崎店長、なんだか楽しそうですね」
「あ?」
「表情がイキイキしています。つられて私も、楽しくなってきました」
ぶかぶかなカーディガンを着た織本がそう笑顔で言う。
「……おう」
楽しいのは本当なので、竜胆は肯定の返事をするにとどめた。
「やっほーう、竜胆くーん。いろり庵、特別に出前に来たよーう。今日結構暑いけど、あったかいうどんでよかったのかい……って寒っ!!」
昼過ぎにやって来た蓮村は、店に入るなり身震いした。
「えーっ、寒……もはや冷蔵庫の中じゃん。こんなとこでずっと作業してるの? 正気?」
「暑かったら花がダメになるだろうが」
「ストイックだなぁ。あったかいうどん食って体温めなよ」
「やめろ、店の中でラップ取ったら湯気で気温が上がるだろ!」
「じゃあなんで配達頼んだの!?」
「あらぁ、竜二くん。わざわざありがとうね!」
「お袋、織本、外で食え!」
持って来たうどんのラップを店内で剥がそうとする蓮村を止め、竜胆は母と織本の二人を店の裏に出した。
三人が何か喋っている楽しそうな声が聞こえる。時折「竜胆がね」「すみれちゃんがいい子で」などと断片的な単語とともに笑い声が耳に入ってきて、一体何を喋っているのだろうかと気になった。
「じゃあまたね、すみれちゃん」という蓮村の声が聞こえ、内心で「おいなぜ織本の名前を呼んでいるんだ」と思った。馴れ馴れしいにもほどがあるだろう。
裏扉が開き、二人が戻って来た気配がする。
「何喋ってたんだ?」
「アンタの昔話をちょっとね」
「はあ、俺の昔話?」
「高校時代、花に感かまけすぎて彼女に振られた話とか」
「おいマジでやめろ」
まさかの黒歴史の暴露に竜胆は顔を顰めた。誰にだって触れられたくない過去はあるものなのに、なぜ母親というのは子供の個人情報を軽率に人に暴露するのか。そーっと織本の様子を伺うと、相変わらず野に咲くスミレのようにほのぼのとした笑みを浮かべている。
「塩崎店長らしいなと思いました」
「……今は流石にもう少し気遣うだけの余裕はある」
「カーディガンを貸せるくらいには成長したわよね」
「うっせ。お袋、今日はもう少し仕事してもらうぞ」
「はいはい、わかってるわよ」
最終仕上げは当然、会場に行かなければできないが、できるだけのものは今日作っておく必要がある。さすがに夕方四時を回った時点で母は家へと帰した。
「えぇー、まだできるわよ」
「明日も手伝ってもらわないといけないんだ、今日でへばったら困んだろ」
「慶子さん、私がまだもう少し頑張るので大丈夫です」
「じゃあ……お願いしようかしら」
その日は夜遅くまで二人で作業をし、なんとか全てを完成させた。
明日の朝まで冷蔵保存しておく必要があるため、フラワーキーパーの中に全てを収納してから店の裏手の扉の鍵を閉める。
「お疲れ様でした」
「待って、もう二十二時で遅いから送ってく」
「家、すぐそこですけど……」
「すぐそこでもなんでももしなんかあったら大変だからダメだ。最近は事件とかも多いし。行くぞ」
織本の返事を待たずして竜胆は家まで送ることにする。表に回って飲み屋の明かりが漏れる商店街を歩いていると、織本が話しかけて来た。
「塩崎店長が今日作っていたお花たち、すごくイキイキしていましたね」
「そうか?」
「はい。いつもお店で作っている花束とかアレンジメントとかとは違うテイストで、何ていうかオリジナリティに溢れていました。橙さんに贈ったテラコッタの花束とちょっと似ている感じで」
「あぁ……確かに。商店街の店で売るのはどうしても、万人受けするものを作る必要があるから、奇をてらったものは作れない」
「でも私は、橙さんに贈った花束とか今日の装花みたいなものの方が好きです」
意外な言葉に竜胆は思わず織本を見た。竜胆より背の低い織本は曇りなき眼で竜胆を見上げている。
「繊細で、優しくて、花に対する愛を感じられて。塩崎店長らしさが出ていてとてもいいと思いました」
意外な言葉だった。戸惑う竜胆に織本がなおも言葉をかけてくる。
「ああいう抜け感のある花束がお店の前にあったら、若い人もいいなぁって思って手にとってくれるかもしれないです。ほら、お店に来るお客様って、結構年齢層高めの人が多いじゃないですか。ここは学生も住んでいるし、素敵な花束があったら、普段使いに買うのは難しくても記念に買っていく人もいるかもしれないですし……」
最後の方はちょっと自信なさそうでうつむきがちになった織本だったが、竜胆からすると目から鱗の意見だった。
おそらく竜胆は、枠にはまり過ぎていた。父母を見ていたせいかもしれない。
「街の花屋で作る花束とはこうあるべき」という固定概念に囚われ、自由を失っていた。無難に仕上げることに注力し過ぎていた。
それはきっと、万人に受けるものを作ろうとするならば大切にしなければならないことでもある。織本の言う通り、塩崎生花店の客層は四十代以上の人が多い。そうした人たちを相手にする時、あまり独創的な花束を作るべきではない。受け取り手がどう思うかわからないので、普通に仕上げるべきである。
ーーけど。
もう少し店で扱うアレンジメントでも「竜胆らしさ」を出していこうと思った。
ブーケのように華やかに。唯一無二の竜胆にしか作れない花束を。
それを気に入ってくれるお客様も、きっといるだろうから。
「織本さん」
「は、はい」
「ありがとう。考えてみる」
いつの間にか織本の家の前に来ていた。
「お疲れ様。明日もよろしく」
「……はい! よろしく、お願いしますっ。お疲れ様でした!」
織本は元気に挨拶をすると、外階段を上って部屋に入っていく。それを見届けた竜胆は、自分も家に帰るべく歩き出した。
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