第28話 終わりと始まりとオレンジの花

「すみれちゃん、夏休みは実家に帰らないの?」


 すみれが塩崎の母、慶子にそう聞かれたのは八月に入ってすぐの時だった。

 アルバイトを始めて三ヶ月弱。すみれは週に三日必ず行う全ての花瓶の水替え作業をしているところだった。今は夏場なので真水に触れると気持ちがいいが、冬になったら大変だろうなと思う。


「お盆の時期に帰ります。塩崎生花店も、お盆の時期はお休みするんですっけ?」

「そうなの。一週間くらいね」


 慶子と塩崎は淀みない手つきで次々に仕入れたばかりの花の水揚げ作業を行っている。棘を取り、不要な葉を落とし、茎を斜めに切り落としたり削いだりと迷いが全くない。慶子はのんびりした口調とは裏腹にものすごく素早くかつ丁寧な手つきで花を扱っており、経験の長さを感じさせる。

 すみれからみた慶子の印象は、「美人で若々しいお母さん」だった。

 短く切った髪は綺麗なダークブラウンに染められており、年齢に見合った化粧はごく自然で嫌味がない。太り過ぎても細すぎてもいない体つきは健康的で、腕には程よく筋肉がついている。

 そんな慶子は非常に人当たりがよく喋りやすく、おかげですみれは塩崎生花店でのアルバイトがますます楽しくなっていた。


「すみれちゃんの実家はどこなの?」

「長野の上田です」

「真田幸村で有名な場所ね。上田城址公園は桜と紅葉が綺麗だから、私たちも行ったことがあるわ。ね、竜胆」


 話しかけられた塩崎は黙々と手を動かしながら一つ頷いた。


「今度いく時は、すみれちゃんに案内してもらおうかしら」

「そんなに観光する場所もないですけど……手前の軽井沢か、もう一つ先の長野駅から善光寺に行く方が楽しいと思いますよ」

「あらぁ。自然豊かでお蕎麦が美味しいっていうだけで十分よ」


 あっという間に水揚げ作業を終え、塩崎は壁に貼ってあるメモ書きを読み上げた。


「今日はアレンジメントの予約が十件入ってる」

「あぁ……やっぱり多いわね」

「まあな。色味の注文は全部一緒、オレンジ色。織本、リボンと包装用の不織布もオレンジで用意しておいて」

「はい」


 塩崎が仕入れてきた花も、種類は違えどオレンジ色が多い。

 この三ヶ月ですみれにも随分花の知識がついてきて、見ただけで何の花なのかわかるようになってきた。

 八重咲きのキンセンカ、ふんわり巻いたクレープのような形のカラー、細かな花びらが幾重にも重なったゴッホのヒマワリという珍しい名前のヒマワリ、ダリア、ガーベラ、バラに至るまで、ビタミンカラーのオレンジ色で埋め尽くされていた。

 明るく元気が出る色のはずなのに、この花を贈る相手のことを考えるとしんみりしてしまう。

 ーー今日は、古川書店の最後の営業日だった。


「古川書店は商店街で四十年、本屋をやっている古い店でね。橙さんはとっても優しい人だからみんなに慕われていたのよ。竜胆なんて、図書館に入っていない本があれば橙さんのところに入荷をねだって、お小遣い貯めて買ってたんだから。お金がなくて買えない本は、ずっと店で立ち読みしていたのよ。今考えると迷惑な客よね。しかも読んでいるのが人気の漫画なんかじゃなくって植物図鑑なんだから、我が息子ながら変わっているわ」

「俺の話は別にいいだろ」


 子供時代を暴露された塩崎はちょっと頬を赤くしながら慶子に反論する。


「竜胆だけじゃない、この街にずっと住んでいる人は誰しもお世話になった本屋なの。なにせ駅の向こうの大型スーパーができるまで、この街の本屋といったら古川書店しかなかったんだから」


 塩崎も慶子も、オレンジ色の花を束ねたアレンジメントを次々に作っていった。どれも色味は同じなのに、一つとして同じアレンジメントはない。メインに使う花を変えることでテイストを変え、全部が全部、異なるものとなっている。

 すみれは店先に花の苗を並べ、水やり作業に移った。

 真夏の今、午前十時現在で既に温度は三十度超え。凄まじい暑さとなっている。

 これまでのように店頭に花を並べていると、あっという間に水がひからびてカラカラになってしまうので、一度に与える水の量を多くして、かつ午前と夕方の二回、水やりをしていた。店の奥は花がだめにならないように冷房がガンガンに効いていてむしろ肌寒いくらいなのだが、店頭は暑い。

 既に大学は夏休みで、すみれは連日朝から晩まで塩崎生花店で働いていた。

 本当はもうとっくに実家に帰ってもよかったのだが、もうすこし東京に留まろうと思ったのは塩崎生花店でのアルバイトと大学の友達に海に行こうと誘われていたからだ。

 一人暮らしも大学生活もアルバイトも楽しくて、充実した毎日。四月の時点では考えられもしなかった大進歩だ。


「すみません、お花を買いたいんですけどーー」

「はい、いらっしゃいませ」

「オレンジ色の花で、ちょっとした花束を作ってもらえますか?」

「かしこまりました。少々お待ちください。塩崎店長、慶子さん、花束ご希望のお客様です」

「はい」


 奥から現れた塩崎が迅速に客の相手をする。


「オレンジ色、今日はたくさん揃えてありますがどの花がいいとかありますか」

「じゃあ、バラで。あとは合う感じの花をお願いします」

「全部オレンジ色にします? それともバラを引き立てるように黄色とかも使いますか?」

「そうね、黄色をお願いしようかしら」


 その客を皮切りに、次々と客がやって来る。世間一般のイベント日でもなんでもない日だが、いつもより塩崎生花店を訪れる人の数は多い。そして皆決まってオレンジ色の花を買っていく。買ったばかりの花を持って、塩崎生花店の二軒右隣にある古川書店を訪れるのだ。

 年齢は、三十代過ぎの人が多かった。

 まだ小さな子供の手を引いた主婦、パートの合間に急いで来たのであろうすみれの母と同年代の女の人、山本時計店でよく見かけるおばあさんやおじいさん。

 誰も彼もが花を手に書店に吸い込まれていく。


「じゃあ私は先に上がらせてもらうわね」


 昼下がりに慶子がそう言うと、自分で作ったとっておきの花束を抱え上げた。


「見てよこれ、腕によりをかけて作った花束! 今日一番の出来栄えだわ」


 オレンジ色のガーベラがメインの花束は、同じくオレンジ色のカーネーションやヒマワリ、そしてグリーンがあしらわれていて惚れ惚れするような出来栄えだった。


「メインにヒマワリじゃなくて、あえてガーベラを持ってきたところがポイントよ。すみれちゃん、どうかしら」

「とても素敵だと思います!」

「竜胆はどう思う?」

「ありきたり」

「歯に絹着せない息子ね……! じゃ、竜胆ならどういう花束を橙さんに持っていくのよ」

「カラーとスターチスでテラコッタ風に仕上げる」

「くっ……悔しいけど素敵な組み合わせね」


 慶子は拳を握って悔しさを顕わにしてから、気を取り直して自分が作った花束を持って店を出た。


「じゃあ、一足先に橙さんのところに行ってくるわ」


 慶子と入れ替わるようにして、いろり庵の店長蓮村が顔を出した。


「織本さん、やっほー」

「いらっしゃいませ、蓮村さん」

「竜胆はパワハラしてこない? 慶子さんがいるから平気かな」

「おかげさまで、楽しくお仕事しています」

「何かあったらいつでも言ってね」


 愛想よく軽快に話しかけてくる蓮村に返事をしていると、間ににゅっと手が伸びてきてビタミンカラーの花が割って入ってくる。


「おら、お前が頼んでいたアレンジメントだ」

「なになに、竜胆くーん、俺が織本さんと楽しそうに喋っていたからって、嫉妬?」

「んなわけねーだろ! さっさと代金よこせ」

「おぉ、怖い」


 蓮村はからかうように言ってから、アレンジメントの代金を払った。


「じゃ、またねー」


 ヒラヒラと手を振って去っていく。

 山本時計店の山本もカメラのヤスムラの安村も、惣菜屋あさひの店員も、すみれのアパートの大家さん夫妻までもが現れててんてこ舞いだ。

 すみれが店頭に花の補充をしていると、見慣れた顔がまたもややってくる。大学の友人にして岡田着付け教室の娘、岡田志穂だ。


「すみれ、お花買ってもいい? オレンジ色の花を」

「うん。橙さんのところ?」

「そう。小学生くらいの時にはよくあのお店で漫画とか買ってたんだ」


 この場所が地元の志穂もやはり古川書店はなじみがあるらしく、花を買うと、奥にいる塩崎にふと目を止めてからすみれに耳打ちする。


「あの人、怖くない? 大丈夫?」

「いい人だよ、大丈夫」


 すみれはついつい苦笑をこぼす。志穂は肩をすくめた。


「もし何かされたら、いつでも言ってね」

「ありがとう」


 オレンジ色の花を抱えた志穂が、ヒールの高いサンダルの足で店を出た。

 夕方五時を回った頃、不意にすみれに塩崎が言う。


「織本さん、これ、橙さんに渡しに行ってきて」

「え」

「俺からのはなむけって。あの店午後六時までで、ウチより早く閉店するから」


 差し出されたのは、親指ほどの小さな花が先端に密集して咲いているスターチスと、一枚の花がくるんと丸まるように咲いているカラー、そしてススキのようだがススキよりもボリュームがあるパンパスを束ねたものだった。どちらもオレンジ色を使っていて、まるで野に咲く花を摘み取って無造作に束ねたかのような風合いだ。綺麗にオレンジ色のリボンがかけられたそれと、塩崎との顔を交互に見比べる。


「えっと……こういうのは自分から渡した方がいいんじゃないですか?」

「俺は店、抜けらんねーから。しくったな、お袋がいる時に行っときゃあよかった」

「もしもお客様がいらっしゃったら、呼びに行きますよ?」

「ダメだ。そんな私情で客を待たせるのはよくない」

「…………」


 塩崎はこういう時意見を変えないと、三ヶ月の付き合いの中ですみれは知っている。


「じゃあ、少し待っていてください」

「おいっ、花持って行けよ」


 すみれは塩崎の意見を聞かず、そのまま店を飛び出して二軒先の古川書店に入る。中は、以前すみれが花の本を買いに来た時とはうって変わって人がたくさんいた。


「橙さんっ」

「おぉ、織本さんじゃないか。そんなに慌ててどうしたんだ」


 既に客から贈られた花やらお菓子やらで埋もれつつある橙さんにすみれは呼びかける。


「あの、塩崎店長がご挨拶したがってるんですが閉店後も少し待っていてもらえませんかっ?」


 橙さんはオレンジ色の縁眼鏡の奥で目を丸くした後、ふっと目尻に皺を寄せて優しく笑みをこぼした。


「構わないよ、今日は余韻に浸ろうと思っていたんだ。それに、仕事帰りに寄ると連絡くれている方もいるし、八時までは店にいる」

「あ……ありがとうございます。じゃあ私、お店に戻ります」


 ぺこっとお辞儀をしたすみれはだああーっと店に戻った。


「橙さん、今日は八時までお店にいるそうです」

「無理いって引き伸ばさせてないだろうな」


 首を横にブンブン振る。


「余韻に浸りたいのと、他のお客様も遅くに来るからって」

「そうか」


 塩崎はすみれをじっと見下ろす。


「疑って悪い」

「いえ、でしゃばってたらすみません」

「んなことない。助かってる」


 短い言葉ではあるものの、凝縮されてる思いに触れられすみれはホッとした。

 夕方には仕事終わりのビジネスマンやOLの姿が多く見られ、そしてやはりオレンジ色の花を買って行った。

 少しオーバーした十八時半に店を閉めると、すみれは塩崎と二人で古川書店に行く。

 数時間ぶりに入った古川書店は、先ほどよりさらにオレンジ色の花に囲まれとんでもない状態となっていた。まるで塩崎生花店が移転してきたかのように花だらけで、おまけに閉店を惜しむ人たちでごった返している。


「やぁ、竜胆くん」

「橙さん。すみません、また花を増やしてしまうんですが」

「花はいくらもらっても嬉しいからね。特にオレンジ色の花は、見ているだけで元気が出る。あぁ、これは珍しい花束だね」

「カラーとスターチスという花を合わせ、あとこのふさふさしているのはパンパスという名前です」

「ほぉ、なるほど。なんというか珍しい花束だね。今日は塩崎生花店の花をたくさんいただいたが、そのどれとも違う」

「お嫌いでしたか」


 塩崎の声がにわかに硬くなったことにすみれは気がついた。


「いや。自由な発想が生きていていいと思う。うん、竜胆くんらしさが出ているというのかな。……本当はこうした、独創力のある花束を作りたいんじゃないかい?」


 橙さんは塩崎の心の内を見透かすかのように言い、塩崎の指先がこわばった。うつむいた塩崎は、何を言おうか考えた挙句、結局無難な言葉を口にすることにしたようだった。


「……今日で、閉店ということで、残念です。古川書店にはガキの頃から世話になってたので」

「小さかった竜胆くんが今や店長だもんなぁ。時間の流れというのは早いものだ」


 橙さんの息が手の中の花を震わせる。塩崎が橙さんに手渡した花は、まるでドライフラワーのように優しい色合いをしていた。店を埋め尽くす他の花は元気いっぱいなビタミンカラーだというのに、塩崎が作ったものはもっと儚げな雰囲気があった。塩崎が口を開く。


「スターチスの花言葉は、変わらぬ心、途絶えぬ記憶。橙さんのお店があったから、俺は花についてもっと詳しくなれた。店が閉まっても俺の心の中にはずっと、古川書店の記憶が残ります」

「ありがとう。そう言ってもらえると、店をやっていた甲斐があるというものだ」

「じゃあ、お疲れ様でした」

「ああ。竜胆くんはこれからが勝負だ。がんばりなさい」

「はい」


 店中を埋め尽くすオレンジ色の花の数々に、古川書店がいかに地域に根ざして愛されていた店なのかがわかる。

 店に戻る道すがら塩崎が言葉をこぼす。


「オレンジ色の花にはポジティブな花言葉が多いけど、俺はスターチスが一番今日にピッタリだと思った」


 すみれも頷く。


「塩崎店長の思いがこもっていて、素敵な花と贈り言葉だと思いました」


 店を訪れる客が求めているのは、きっともっと元気が出るような花束だから、塩崎は言われなくてもそれに応えるためにフレッシュな色合いのオレンジ色の花束を今日一日作り続けていた。

 けれど、塩崎が個人的に橙さんに贈るなら、もっと違うテイストの花束にしたいーーそんな思いがあのテラコッタカラーの花束にはこめられていた。


「花って素敵ですね。私、もっと花について知りたくなりました」

「おう。精進してくれ」


 店にはもう、オレンジ色の花がほとんど残っていない。根こそぎ古川書店へと移動している。

 明日にはもう、あの店が開くことはないのだけれど。

 皆の心の中にはいつまでもオレンジ色に満たされた店の記憶が残るのかと思うと、なぜだか心が温まる。


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