第25話 協力者たちとハナショウブ②

「本当に仕事復帰すんのかよ……」

「するわよ。お母さん、一度決めたら譲らないもの」


 翌日、花の仕入れを終えて店へ行った竜胆を待ち構えていたのは母だった。エプロンを装着し、働く準備万端の母は腰に手を当て胸を反らす。


「コルセット巻いてるから平気よ。とはいえ、長時間の立ち仕事はまだキツいから、午前いっぱいしか働けないけど。ほら、水揚げするんでしょ? 早く仕入れてきた花を出さないと」


 母は店の裏手の駐車場まで行くと、停めてあった軽バンに近づいた。父の頃から使っているかなり年季の入った車だが、積載量や荷質の使い勝手の良さから買い換えられないでいる。花屋の車選びは結構気を遣う。なるべく揺れず、ドアが広く開き、荷室には高さも必要だ。そもそも車を買いに行く時間も経済的余裕もない。バックドアを開けた母が早速花が溢れんばかりに差さっているバケツを持ち上げようとしたので、竜胆は慌てて遮った。


「いきなり病院戻りになるつもりか」

「ごめんなさいね、つい」


 果たして本当に無理なく働くつもりがあるのか疑問だった。


「俺が店に運び込むから、お袋は水揚げして」

「わかったわ」


 店の裏には扉がついていて、そこから出入り可能だ。裏が駐車場に直結しているというのは便利だった。

 竜胆が塩崎生花店の中に仕入れたばかりの花を運んでいると、織本が店へとやってきた。


「おはようございます。……あれ」

「あぁ、あなたが噂の織本すみれちゃん!」


 竜胆以外の人間の存在に気がついた織本は足を止めたが、母は構わずに近づいて朗らかな声を出した。


「山本さんから噂は聞いていたのよ! うちの偏屈息子に辛抱強く付き合ってくれているアルバイトの子がいるって」

「誰が偏屈息子だ」

「アンタ以外に誰がいるっていうの。アタシ、竜胆の母の慶子。どっちも塩崎さんじゃあ紛らわしいから、慶子さんって呼んで構わないわよ。今日から半日だけ仕事復帰することにしたから、どうぞよろしく」

「織本すみれです。至らない点ばかりですが、よろしくお願いします」


 ペコリと丁寧に頭を下げた織本に母は感極まったようだった。


「まああ、なんて礼儀正しいお嬢さんなの! 息子の言動にめげずにアルバイト続けてくれていてありがとう!」


 実の息子をこき下ろし続ける母にムッとした竜胆は、憮然としながらバケツをコンクリートの床に置いた。


「仕事復帰すんならさっさと水揚げ作業しろよ」

「あら、ごめんなさいね」


 三人での作業が始まった。母は仕事復帰したのが嬉しいのか、それとも織本に興味があるのか、花の水揚げをしながらしきりにおしゃべりをしていた。


「織本さん、花屋の仕事は見かけより大変でしょ? 水を使ったり重いものを持ち上げたり……無理しないでね」

「はい、ありがとうございます。いろんな花に触れ合えるので楽しいです」

「織本さん、すみれちゃんって呼んでいいかしら

「はい」

「すみれちゃんはお花好き?」

「実は今まではそんなに興味なかったんですけど、働くようになってからは色々気になるようになりました。塩崎店長がお金を出してくださったんで、図鑑を買って勉強しています」

「勉強熱心ねぇ!」


 母は目を丸くして感極まった声を出した。竜胆は一切会話に参加せず、ただひたすら黙々と水揚げ作業に没頭した。


「随分ハナショウブを多く仕入れてきたのね」

「いいものが多かったんだ。アジサイと合わせて花束にするといいかと思って」


 大輪の花を咲かせるハナショウブは定番の紫色だけでなく、白、薄桃色、薄黄色ととりどりの色を仕入れていた。優しい色合いのハナショウブは、梅雨の時期に憂鬱になりがちな気分をぱっと華やかにさせてくれる魅力がある。数日前から仕入れているハイビスカスやデンファレ、アンスリウムなど最近人気の外国産のトロピカルな花々はいかにも夏といった雰囲気を出してくれるが、アジサイやヒマワリ、アサガオ、ハナショウブなどの昔から日本で親しまれてきた花はやはり馴染みがあるせいなのか、心にほっとくる美しさがあると竜胆は思っていた。

 水切りを終えた花を竜胆と織本でせっせと店頭に運び出す。母には店頭で売るための花束や予約が入っているアレンジメントを作ってもらうことにした。


「すみれちゃんは何時まで働くの? 学校はいいのかしら」

「開店作業だけ手伝ったら、抜ける予定です。また夕方の十六時から働きに来ます」

「あら、そうなの。仕事熱心ね」


 織本は素早く開店準備を整えると、エプロンを外して鞄を手に取り「お先に失礼します」と言って去って行く。


「気をつけて行ってらっしゃい〜」


 微笑んで見送った母は、「いい子ね」と呟いていた。


「愛想のない息子で悪かったな」

「あら、そんなことないわよ。店を継いでくれる立派な息子だわ。まあ。ちょっと頑固なのは否めないけど」


 肩をすくめた竜胆は、バケツに水を汲んでジョウロを手にし、織本が店頭に並べた花の苗ひとつひとつに水をやり始めた。

 その日の朝一番にやって来た客は、蓮村だった。


「竜胆くーん。なんかいい花、ない?」

「ハナショウブがいっぱい入荷している」

「ハナショウブ? なにそれ。この花、アヤメじゃないの?」

「アヤメは花びらの中心が網目模様。ハナショウブは黄色い三角形の模様がある」

「ふぅーん」


 蓮村がしげしげとフラワーキーパーの中のハナショウブを見つめていると、蓮村に気がついた母が朗らかな声を出した。


「あら、竜二くんじゃない! 久しぶりね」

「慶子さん、もう仕事復帰されたんですか」

「そうなの。山本さんの奥さんから連絡もらって、寝てる場合じゃないと思ってね。今日はお店に飾る花を買いに来たのかしら」

「そうなんですよ。この白色のハナショウブをもらおうかな」

「相変わらず、白色が好きなのね」

「うどんの色なので」


 不良から足を洗ったきっかけであるうどんに恩義を感じているのか、蓮村は白い花を好んで買っていく。花を白い包装紙で巻いて手渡された蓮村は、店の前で未だ苗に水をやっている竜胆を見下ろしてきた。


「竜胆くん、ハナショウブの花言葉って、何?」

「嬉しい知らせ、優しい心、優雅、心意気」

「いい言葉だね。ポジティブな気持ちになれる」

「そうだな」

「慶子さんが復帰するなら、竜胆くんも街の花屋以外の仕事ができるねーえ」


 蓮村はそんな意味ありげな言葉を残し、上機嫌でいろり庵に向かってのしのし歩いていった。

 次に現れたのは、山本時計店の山本夫妻だ。店長の山本はともかく、奥さんが来るのは珍しい。足が悪くて家とリハビリテーションを往復する生活だと聞いていたので、こうして商店街で見かけることも少なくなっていた。

 ベレー帽を被った山本が、杖をつく奥さんを支えながら母に目を向けた。


「おや、慶子さん」

「あらぁ、山本さん!」

「本当にもう仕事復帰されたとは」


 しみじみという山本に、母はガッツポーズを作って見せる。


「まだまだ五十二歳ですから、休んでなんていられませんよ! 今日はミッチャンをお買い求めですか?」

「……と思ったんだけど、店頭の花束が素敵ねぇ。慶子さんが作ったのかしら」

「そうなんです、久々に花に触れ合いました。ハナショウブのグラデーションカラーで花束を作ってみたんですけど、いかがですか?」

「素敵ね。いただこうかしら」


 レジの間、奥さんは母と夢中になって話し込んでいる。山本が竜胆に何かを差し出してきた。


「はい、これ。今日のアイスコーヒーはブラジル産の豆を深煎りしたものだよ。チョコレートのような香りが特徴的だ。慶子さんの分もあるから、二人でどうぞ」

「どうも」

「昨日、織本さんから聞いたんだけどね。装花の依頼を断ったとか」

「まあ、店と両立は難しいんで」

「慶子さんが戻って来たんだから、できるんじゃないかね」

「……まだ母は本調子ではないですし、もし引き受けた後にまた腰を痛めて断るような事態になったら一大事なので」

「若いのに、随分と守りに入ってるねぇ」


 歳を取ってから単身海外に渡ってコーヒーの勉強をするというアグレッシブさをみせた山本が、喉を震わせるようにしてしみじみ言う。


「そんな風に悪い方ばかり考えないで、やってみたらどうかね」

「一か八かで引き受けられるほど、甘い仕事じゃありません」

「責任を感じるのは大切だが、周りを頼って甘えることも覚えた方がいいと思うよ。店は慶子さんと織本さんに任せたらいい。なんなら思い切って一日二日休みにしても、誰も文句は言うまいよ。天国のお父さんもね」


 それだけ言うと、ハナショウブを買って出てきた奥さんに腕を貸しつつ、山本は向かいの山本時計店に入っていった。

 母が仕事復帰したという噂が商店街中に知れ渡ったらしく、この日は顔馴染みの人たちがやたらと花を買いにきた。そしてなぜか、ほぼ全員がハナショウブを買っていった。

 岡田着付け教室の岡田は「日本の花は和装によく似合うわ」と言ってアレンジメントの注文を入れたし、惣菜屋あさひの旭は「たまには店先に花を飾ろうか」と言って薄桃色のハナショウブを買ったし、インドカレー屋の店主も「イイ香リ」と言ってニコニコしていたし、カメラのヤスムラの安村も「慶子さん、久しぶり。仕事復帰祝いのサービス」とティラミスを差し入れに来た。

 竜胆は、商店街の噂話怖えな、と内心で思いつつ馴染みではないただ普通に花を買いに来ただけの人の接客をして過ごした。


「お袋、もう一時だから帰れ」

「あらもうそんな時間? 早いわね」

「ぶり返したら困るからさっさと帰って寝てろ」

「はいはい、わかったわよ」


 母は大人しくエプロンを脱ぐ。


「はー、楽しかったわ。じゃ、夕飯の買い物して帰るから」


 案外あっさりと帰った母を見送り、ここから十六時まではひとり営業時間だ。

 振り向くと店頭に、一人の老人が立っていた。オレンジ色の縁眼鏡をかけ、オレンジ色のTシャツを着ている古川書店の店長だ。それにしてもこんなにもビビットカラーなTシャツが似合う老人というのも少ないだろう。真ん中には輪切りのオレンジがプリントされている。足元はオレンジ色のビーチサンダルだった。


「やあ、竜胆くん」

「橙さん、こんにちは。母ならもう帰ってしまいました」

「いや、慶子さんではなく竜胆くんに用があってね」

「俺にですか」

「そう」


 また装花を断った話を蒸し返されるのだろうかと竜胆はちょっと身構えた。

 織本はそれほどお節介な性格には見えないのだが、なぜ商店街の人たちに話してしまったのだろう。おかげさまで母には殴られ詰られるわ、顔馴染みには遠回しに批判されるわで散々な目にあっている。

 しかし橙さんが発した言葉は、竜胆が思ってもいないものだった。


「店をたたもうと思っているんだ」

「え」

「このご時世、本は売れないし、客は駅の向こう側にある大型スーパーの中の本屋に行ってしまう。ここらが潮時だと思ってね」

「ですが……」

「竜胆くんにはよく贔屓にしてもらったね。ありがとう」


 橙さんは店頭に並んだ花たちを眺める。


「これはハナショウブか。アヤメやカキツバタによく似ているが、花の中心部分の色で見分けられる。昔まだ竜胆くんが小学生だった頃、教えてくれた知識だ。一本もらえるかい」

「オレンジ色じゃありませんが」

「たまには違う色もいいじゃないか。この濃紫色のがいい」


 竜胆は言われるがまま一際濃い紫色のハナショウブを手にレジに向かう。代金を受け取り花を手渡せば、穏やかな表情の橙さんは、まっすぐに竜胆を見つめた。


「なあ、竜胆くん。わしは四十年店をやっていて、色々なことがあったけど、後悔は何もしておらん。竜胆くんも、後悔しないように仕事をしておくれ」


 それから橙さんは、今買ったばかりのハナショウブを竜胆に向けて差し出してきた。


「ハナショウブの花言葉は、嬉しい知らせ、優しい心、心意気、だろう。君の心が実は誰よりも優しいということを、商店街の人たちはみんな知っている。竜胆くんの心意気を見せてくれ。嬉しい知らせを待っているよ」


 呆然とする竜胆の胸にハナショウブを押し付けると、橙さんはくるりと背を向けて歩き出した。

 ハナショウブとともに橙さんの残した言葉は竜胆の胸に深く刺さった。

 心意気、とは何だろう。ウダウダ考えずにやってみろということか。二の足を踏んでないで、怖がらずに一歩踏み出せということか。

 織本という長く働いてくれそうなアルバイトがいて、母が復帰したならば、確かに多少の時間ができる。その時間を利用すれば、会場装花の仕事ができなくもない。あの二人と打ち合わせをして、式場の下見に行く。たしかあのレストランには花器があったはずなので、わざわざ用意する手間も省ける。


(……できる、のか?)


 竜胆の心が揺れる。

 断ったのは致し方ないと思っていた。引き受けて、店も式もどちらも中途半端なことになったら申し訳ないと。だからあえて、装花を断った。

 なぜなら今の竜胆は塩崎生花店の店長で、店を経営しなければならないから。

 フラワーデザイナーとして腕を振るうだけの自分ではなくなってしまったから。

 優先すべきは店で、店を休んでまで装花を引き受けるべきではないと思ったから。

 でも、もしもできるならばーー。


(やりたい……あの二人の門出を祝う花を、担当したい)


 自分が作った花束で恋が成就したというのなら、二人の結婚を祝う花も手がけたい。

 塩崎竜胆という一人の人間をずっと覚えていてくれて、指名してくれた二人に、最大限の誠意を持って応えたい。

 ずっと閉じていた目の前の扉が、開いた気がした。



 十六時に織本が戻ってきて営業時間が過ぎ、閉店作業まで手伝ってくれる。

 竜胆は事務用の椅子に座り、レジ締めをする織本の背中に話しかけた。


「織本さん、例の装花の件だけど」

「はい」

「引き受けることにしたから」


 織本の反応はやや鈍かった。レジを一生懸命操作していた手が止まり、少し固まった後、ぐるんと後ろを振り向いてこれでもかと目を見開いた。


「……えぇっ!?」

「織本さんそんな大声出るんだね」

「あっ、すみません」


 注意されたと思ったのか、織本は口元を押さえて謝罪し、声のボリュームを落とす。


「あの……本当にですか?」

「本当に」

「……ありがとうございます!」

「何で織本さんがお礼を言うんだ」


 竜胆は苦笑をこぼした。


「だって、あのお二人、本当に塩崎店長に装花を担当してもらいたそうだったので……!」


 心底嬉しそうな笑みを浮かべる織本。大学入学したての織本は世間擦れしておらずまだ純粋なままである。いろんなことを考えて取捨選択を迫られる立場にある竜胆とは大違いだ。

 ただ今回は、彼女のそんな擦れていない部分に助けられた。

 織本が山本に相談しなければ母の耳に装花の件が入ることはなく、まだ仕事復帰していなかっただろう。実は術後一週間で店に立ちたがっていた母をなだめすかして安静にさせていたのはほかならぬ竜胆である。これまでずっと働いていた分、少しは休んで欲しかったのだ。しかし完全に余計なおせっかいだったようで、母は家にいるより店で働いている今日の方がずっとイキイキしていた。

 蓮村や安村といった面々に激励されることもなく、橙さんからの言葉もかけられることはなかった。


「しばらく忙しくなると思うけど、よろしく」

「はい、精一杯お手伝いします!」


 そう言って笑うすみれは、野に咲くスミレのように自然でほんわかしていた。

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