第45話 有銘の後遺症
長い時間横になっていたせいか、少し体を動かすだけで体の
日常に戻るにはもう少しリハビリが必要なようだ。
――――コンコンコン。
「はーい。どうぞー」
ドアをノックする音が聞こえ、有銘がそれに返事をする。
――――ガラガラ。
「おはよう。起きてないかと思ったんだけど、早いね」
部屋を訪れたのは有銘の主治医
相変わらずの
歳の頃は三十代後半から四十代半ばくらいだろうか。しかし、ややもすると二十代にも見えなくないほど見た目は若い。
「起きてるのを知ってたから来たんでしょう?」
「うん……まあね」
勝浦は苦笑いを浮かべ、頬をかく。
備え付けの丸椅子をベッドの横に寄せ、そそくさと座る。
「体調はどう?」
「そうですね、動かすとまだちょっと痛かったり動かしづらさはありますけど、それ以外は特にありません」
「そう。それならよかった。血液検査とかエコーとかでも特に異常は見られなかったから、リハビリして落ち着いたら、退院してもいいと思うよ」
勝浦が手元の紙を何枚か見ながら話す。
「でも、脳の方は退院してからも通院してもらうことになるから、そのつもりでね」
「……はい」
「……ところで……本当にこれで良かったの?」
「ん? 何がですか?」
何を
「何が、って……彼らに言わなくて良かったの、ってことだよ」
雰囲気は優しく温かいが、それとは想像もつかないほど真剣な表情で有銘に訊く。
「ああ、そのことですか」
有銘は事も無げに
「これが、一番いいんですよ。じゃないとまた心配させちゃうし悲しませちゃうじゃないですか。それは嫌なんですよ……絶対に」
「そう……まあ、君がいいなら僕がとやかく言うこともないけどね」
そう言って、勝浦は手に持っていた資料に視線を落とす。
自分で書いたカルテや各々の検査値、他職種のカルテ内容のコピーなどの中にある
『記憶障害、特に発症以前の記憶の
有銘は事件以前の記憶を失っていた。
より正確に言うのであれば、全てではなく事件に関わっていた
有銘が目を覚まし勝浦が処置を済ませた後、いくつかの質疑応答によって判明した事実である。
最初は混乱からか自分の名前や生年月日、住所、両親や姉弟といったパーソナル情報すらも
有銘が目を覚ましたのは今日ではなく、一週間程前であった。
「でも、獅堂総理がこの病院に来た時は、本当にびっくりしたよ」
「そうでしょうね」
「……そこで、ひとつ、頼みがあるんだけど……」
勝浦が言いづらそうに
「何ですか?」
「……今度、サイン貰っておいてくれないかな? 僕、あの人がオリンピックで金メダル取った時からの大ファンなんだよね。……だから、ね、お願い!」
勝浦が顔の前で手を合わせ
有銘がひとつ
「嫌です」
「えー。どうしても?」
「はい。そういうのは全部断ってますので、諦めてください」
勝浦が心底残念そうな表情を浮かべ、部屋を去る。表情がころころと変わるその様子がまさに小さな子供のようだ、と心の中で
――何か、私も誰かにそんなことを言われたことがあるような、無いような……。
そう思うと同時に有銘の頭の後ろをずきんという
しかし、その痛みは決して嫌な痛みではなく、むしろ体全体を包み込むような温かい刺激であり、それは直に胸に到達し
呼吸が苦しくなるわけではないのに息が荒くなり、熱があるわけではないのに全身が
記憶を失ってから何かを考えたり思った時によく出る症状だった。
勝浦にも診てもらったが、脳に器質的ないしは機能的な異常は見当たらないという。
――分からないことだらけだし、とりあえずは様子を見てみるしかないかな。
有銘は考えることを
そして、写真フォルダを開き、ひとつひとつ見ていく。
最近はこれを繰り返して自分がどんな人と関わってきて、その時どんな表情をしていたのか、を確認していた。
何かの
ある写真が目についた時、症状は
有銘はそこに映っている男のぎこちない笑顔に言い表せられないほどの愛しさを感じていた。
――もしかして、私はこの人のことを……。
そう考えれば考えるほど、有銘の心の水面は荒れていきより大きな波を引き起こしていた。
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