第45話 有銘の後遺症

 しば他愛たあいのない話をして彼方かなた田所たどころが病室から去った後、有銘あるめが窓の目を向けるとすでに夜は明け、雲一つない空に太陽が輝いていた。

 長い時間横になっていたせいか、少し体を動かすだけで体の節々ふしぶしが悲鳴を上げる。

 日常に戻るにはもう少しリハビリが必要なようだ。

――――コンコンコン。

「はーい。どうぞー」

 ドアをノックする音が聞こえ、有銘がそれに返事をする。

――――ガラガラ。

「おはよう。起きてないかと思ったんだけど、早いね」

 部屋を訪れたのは有銘の主治医勝浦悟かつうらさとるであった。

 相変わらずの目鼻立めはなだちのくっきりしたりの深い顔に浅黒あさぐろの肌、そして肩まで伸びる長い髪を今日は一つにまとめている。背が高く全体的に細身だが、しっかりと鍛えられているのが服の上からでも分かる。

 歳の頃は三十代後半から四十代半ばくらいだろうか。しかし、ややもすると二十代にも見えなくないほど見た目は若い。

「起きてるのを知ってたから来たんでしょう?」

「うん……まあね」

 勝浦は苦笑いを浮かべ、頬をかく。

 備え付けの丸椅子をベッドの横に寄せ、そそくさと座る。

「体調はどう?」

「そうですね、動かすとまだちょっと痛かったり動かしづらさはありますけど、それ以外は特にありません」

「そう。それならよかった。血液検査とかエコーとかでも特に異常は見られなかったから、リハビリして落ち着いたら、退院してもいいと思うよ」

 勝浦が手元の紙を何枚か見ながら話す。

「でも、脳の方は退院してからも通院してもらうことになるから、そのつもりでね」

「……はい」

「……ところで……本当にこれで良かったの?」

「ん? 何がですか?」

 何をかれているのか、心底しんそこ分からないような表情で訊き返す。

「何が、って……彼らに言わなくて良かったの、ってことだよ」

 雰囲気は優しく温かいが、それとは想像もつかないほど真剣な表情で有銘に訊く。

「ああ、そのことですか」

 有銘は事も無げに相槌あいづちを打ち、言葉を続ける。

「これが、一番いいんですよ。じゃないとまた心配させちゃうし悲しませちゃうじゃないですか。それは嫌なんですよ……絶対に」

「そう……まあ、君がいいなら僕がとやかく言うこともないけどね」

 そう言って、勝浦は手に持っていた資料に視線を落とす。

 自分で書いたカルテや各々の検査値、他職種のカルテ内容のコピーなどの中にある文言もんごんに勝浦の目が留まる。


『記憶障害、特に発症以前の記憶の忘却ぼうきゃく逆行性健忘ぎゃっこうせいけんぼう顕著けんちょである』


 有銘は事件以前の記憶を失っていた。

 より正確に言うのであれば、全てではなく事件に関わっていた事柄ことがらや人物のことについての記憶を失っていた。

 有銘が目を覚まし勝浦が処置を済ませた後、いくつかの質疑応答によって判明した事実である。

 最初は混乱からか自分の名前や生年月日、住所、両親や姉弟といったパーソナル情報すらも曖昧あいまいだったが、後にその辺の情報は覚えていることが分かった。しかし、どこをどう頑張っても特異体質とくいたいしつに関すること、それにかかわる事柄や人物のことについては全く思い出せなかった。

 粗方あらかたの状況を獅堂しどうに聞き気取けどられることなく辻褄つじつまを合わせられるくらいになったため、彼方と田所への連絡がなされたという運びである。

 有銘が目を覚ましたのは今日ではなく、一週間程前であった。

「でも、獅堂総理がこの病院に来た時は、本当にびっくりしたよ」

「そうでしょうね」

「……そこで、ひとつ、頼みがあるんだけど……」

 勝浦が言いづらそうに言葉尻ことばじりにごす。

「何ですか?」

「……今度、サイン貰っておいてくれないかな? 僕、あの人がオリンピックで金メダル取った時からの大ファンなんだよね。……だから、ね、お願い!」

 勝浦が顔の前で手を合わせ懇願こんがんする。

 有銘がひとつ溜息ためいきを吐く。

「嫌です」

「えー。どうしても?」

「はい。そういうのは全部断ってますので、諦めてください」

 勝浦が心底残念そうな表情を浮かべ、部屋を去る。表情がころころと変わるその様子がまさに小さな子供のようだ、と心の中で微笑ほほえむが、有銘はそれに対しどこか胸の奥にひっかかるところを感じていた。

――何か、私も誰かにそんなことを言われたことがあるような、無いような……。

 そう思うと同時に有銘の頭の後ろをずきんというにぶい痛みが襲う。

 しかし、その痛みは決して嫌な痛みではなく、むしろ体全体を包み込むような温かい刺激であり、それは直に胸に到達しめ付ける。

 呼吸が苦しくなるわけではないのに息が荒くなり、熱があるわけではないのに全身が火照ほてってくる。

 記憶を失ってから何かを考えたり思った時によく出る症状だった。

 勝浦にも診てもらったが、脳に器質的ないしは機能的な異常は見当たらないという。

――分からないことだらけだし、とりあえずは様子を見てみるしかないかな。

 有銘は考えることを放棄ほうきし、ベッド横のサイドテーブルに置かれたスマートフォンを手に取る。

 そして、写真フォルダを開き、ひとつひとつ見ていく。

 最近はこれを繰り返して自分がどんな人と関わってきて、その時どんな表情をしていたのか、を確認していた。

 何かの拍子ひょうしに失った記憶を取り戻すことがあるかもしれない、とあわい期待を抱いていたからであるが、残念ながら何か一部分であろうとも思い出すことはおろか、そのきざしすらも見えなかった。

 ある写真が目についた時、症状はひどくなった。

 有銘はそこに映っている男のぎこちない笑顔に言い表せられないほどの愛しさを感じていた。

――もしかして、私はこの人のことを……。

 そう考えれば考えるほど、有銘の心の水面は荒れていきより大きな波を引き起こしていた。

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