第44話 有銘の覚醒

 有銘あるめの意識が戻らないままさらに二週間が経過した。

 彼方かなたは徐々に日常を取り戻しており、あまり行けていなかった大学にも少しずつ行けるようになっていた。かといって、勿論もちろん、有銘のことを忘れているわけではない。今でも毎日のように病院に通い有銘の様子を見ている。しかし、有銘の変わらない状態に彼方の意識は徐々に減退げんたいしていた。有体ありていに言えば、彼方の精神が悲鳴を上げていたのだ。

 大学の講義を受けながら彼方はふと考えることがある。

――呼吸をしてはいるが、生きているとは言いがたい状態。有銘さんはずっとこのままなのだろうか。だとしたら、いずれは誰かが決断をしなくてはいけないのだろうか。有銘さんのためにも、残された僕達のためにも……。

 冷静に物事を考えることが出来るようになった彼方は有銘のことだけじゃなく、自分を含めたその他の人の未来を考えていた。

――有銘さんが目を覚まして、また一緒に遊んだりバカみたいなことをしたいと願っている。願ってはいるが……ここまで時間が経っても状態が変わらないのであれば、もう、有銘さんは……。

 考えないようにしていても頭の片隅かたすみに残るその考えが彼方の悲しみをあおる。

――――トゥルルルルル、トゥルルルルル……。

 深夜一時。

 布団に入り数時間が経過した時間に突然彼方のスマートフォンが着信を告げる。

 深い眠りについていた彼方は一度のコールで起きることはなかった。

――――トゥルルルルル、トゥルルルルル……。

 二度目の着信。

 ここで彼方は目を覚まし、スマートフォンに手を伸ばす。

「――彼方君! ねえ、彼方君!」

 甲高かんだかい声に彼方はスマートフォンを一度耳から離し、距離を調整する。

 電話口で聞こえたのは退院し教職に戻った田所だった。

 田所の声は珍しく興奮しており、時折鼻をすする音が聞こえる。

 深い眠りからの寝起きであったことも含め、彼方にはなぜこんなに田所が興奮しているのか、分からなかった。

「……はい。なん、でしょう?」

「彼方君! あーめが……あーめが!」

 その言葉に彼方の頭が覚醒する。それはまさに全身に電流を流されたかの如く一瞬であった。

「有銘さんが、どうしたんですか⁉」


「…………あーめが、あーめが……目を覚ましたって!」


 それを聞くや否や、彼方は着の身着のまま家を飛び出した。

――有銘さん、有銘さん、有銘さん、有銘さん!

 心の中で何度も有銘の名前を叫びながら走った。

 駅に着いて電車を待つ一秒が一分一時間よりも長く感じた。

 全身から汗が滝のように吹き出し服を湿らせようとも、息が切れて過呼吸気味になろうとも、手足の筋肉がにぶく重い悲鳴を上げようとも、そんなことは至極些末しごくさまつなことで何がどうなろうがどうでもよかった。

 病院に着き、暗くなった廊下を走り病室へと向かう。

 途中、以前お世話になった赤髪の看護師に止められたが、それを彼方は無視して進む。

 病室の前まで行くと、途端、緊張感が彼方を襲う。

――この先に目を覚ました有銘さんがいる!

 その思いを胸に一つ大きく息を吸い、ゆっくり吐き出す。

 そして、ドアをノックする。

――――コンコンコン。

「はーい。どうぞー」

 その声に彼方の胸が一度どくんと波を打つ。

 ゆっくりドアを開け中に入る。

 そこにいたのは有銘の左側で笑う田所とベッドの背を九〇度近くまで上げ座る有銘の姿だった。

「おっ、彼方君! 久しぶりだな! 元気か?」

 そう言って有銘は何事もなかったかのように笑顔で手を挙げる。

 腕に点滴が入り、胸から赤黄緑の線が伸びモニターに繋がっている。何があってもいいように呼吸器は部屋の中に置かれているが、当然電源は入っていない。まだ状態を見る必要はありそうだが、普通に話せるほどの回復は見られる。

 この短時間でここまでの回復が見られるのはまさに奇跡の何物でもなかった。

『脳死』

『植物状態』

 その言葉に彼方は絶望を感じていたが、仏陀ぶっだなのか、キリストなのか、釈迦しゃかなのか、誰にだか分からない彼方の祈りは通じていた。

 彼方の全身の力が一気に抜け、糸人形いとにんぎょうの糸が切れるようにくずれ落ちる。

 そして、涙腺るいせんに溜まっていた涙を爆発させる。

 公衆こうしゅう面前めんぜんで大人げなくも大口を開けてわんわんと泣き叫ぶ。

「ちょっと、何時だと思ってるの! 皆寝てるのよ! 静かにしなさい!」

 血相けっそうを変えて入ってきたのは赤髪を後ろでひとつに縛った看護師だった。

 しかし、それでも彼方が泣き止むことはなかった。

「すみません。もう少しこのままでいさせてください。後で説教されますし、謝りますので……ちょっとだけ、今はこのままで」

 有銘が看護師にそう言い、優しい笑みを浮かべ彼方を見る。

「…………はあ、分かったわ」

 看護師はひたいに手を当てあきれてはいるが、その実、嬉しそうであった。

 扉が開いたままであろうが、誰かが何かを言っていようが、彼方は気にせず泣いた。

 体の中の水分がれるのではないか、というまで泣いた。

 一生分の涙を流したと言っても過言ではないほど泣いた。

 無論むろん、冷たく悲しい涙ではない。

 今まで流したどんな涙よりも温かく、心が軽くなる涙だった。

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