第40話 笠倉由美の正体

 彼方かなたは一度目を閉じ大きく息を吸い込むと、それをゆっくり吐き出す。

 ドア一枚をへだてた場所では人の声と機械の音が鳴り響いているのだろうが、待合室には全く聞こえない。

 暗闇の中にいて彼方の座るところだけが光っている。

 気温はそこまで低くないはずだが、体の芯から震えるような寒さを感じる。

 感覚が異様に研ぎ澄まされていることを彼方自身が一番理解していた。

 入り口のドアが開き、待合室に一人の男が駆け足で入ってくる。

「……はあ、はあ、はあ……有銘あるめ、さんは⁉ どうなった⁉ おい、坂田!」

 男は上がった息を整えることもせず座る彼方の胸倉むなぐらつかむ。

 激昂げきこうし今にも殴りかかりそうな勢いの男とは対照に彼方は冷静だった。

「治療中です」

「おい! 坂田! 有銘さんは助かるのか⁉ おい、おい、おい!」

 男が乱暴に彼方をさぶる。

「…………分からないです」

「分からないって、お前な!」

 男が左手で胸倉を掴んだまま右手を振りかぶる。

 その時、初めて男と彼方の目が合う。

 落ち着いているように見せていた彼方の紅玉こうぎょくは決して光を失っていなく、むしろその先を強く見つめているような輝きがそこにはあった。

 彼方は何一つとして諦めていなかったのだ。

 男がその瞳に気圧けおされるように右手を静かに下ろし、掴んでいた胸倉を離す。

「万が一のことがあったら、私はお前を許さないからな」

 男が彼方の隣に腰を下ろす。

 何分か経った頃、彼方がく。

「……あの……あなたは、何者なんですか?」

 有銘のことを考えるばかり、周りのことをまったく気にしていなかったが、彼方の隣に座り貧乏ゆすりをして有銘の生還せいかんを願っている男は瑠璃るりの仲間だったはずだ。

 それがどうしてまるで自分の恋人であるかのように祈っているのだろうか。

 彼方には全く分からなかった。

「…………」

 声をかけるが、男は顔の前で手を合わせたまま彼方の方を見ることはしない。

「……あの」

「ん? 何だ?」

 男が彼方に荒い呼吸そのままに厳しい視線を向ける。

 多少の時間は経ったが、男はまだ興奮したままだった。

 彼方が一つ息を吐き、席を立つ。

 すぐに戻ってくると買ってきたコーヒーを男の前に差し出す。

「これ、どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 男はそれを受け取り口をつけ、ひとつ大きく息を吐く。

「少し落ち着きました?」

「ああ。悪かったな」

「いえ……」

 短い言葉だが、そこには男の優しさ込められていた。

 彼方がひとつ小さく咳払せきばらいをし、言葉をぐ。

「で、改めて訊きますが、あなたは有銘さんの何なんですか?」

 言った後で、寝取られた浮気相手に言うようなセリフだな、と赤面するが、それよりもこの男の正体の方が大事だった。

「あれ? 有銘さんから聞いてないのか?」

「……何をですか?」

「何をって、私のこととか、体質を無くす煙のこととか、今回の作戦のこととか……」

 彼方が目を丸くする。

 男はその反応を見て全てを察したように深い溜息を吐く。その反応だけでそれ以上の言葉は不要だったようだ。

「……はあー、この調子だと田所さんにも言ってないな……全く、あの人は……」

 言葉ではそう言うが、その実、表情は柔らかく嬉しそうであった。

 男が突然鎖骨さこつの当たりに手をかけそれを思い切りがす。

 そこに現れたのは切れ長の細い目に頬のそばかすが特徴的な女性だった。

「私は笠倉由美かさくらゆみ

 いきなりの展開についていけない彼方を尻目に、笠倉は言葉を継ぐ。

瑠璃るりの居場所やその他諸々の情報を得るために、仲間として潜入していた。それこそ、お前や田所さんが手伝ってくれるようになるずっと前からな」

 笠倉が地面を見つめながら言う。

「本当は体質を消す煙が出来た段階ですぐにそれを使って瑠璃の体質を消すつもりだったんだけど、有銘さんに、少し待ってくれ、って言われてな」

 コーヒーを一口、口に含み飲み込む。

 この場において飲み下す音がやけに大きく聞こえるのは彼方だけではないだろう。

「そこに毒ガスも入れて欲しい、瑠璃は体質を消しただけで諦めるような奴じゃないから念には念を入れて欲しい、ってな」

 彼方はその言葉に以前の有銘の言葉と表情を思い出した。


『殺してやるさ。…………たとえ私が死のうともな』

『……私は、あいつを殺して、この体質で差別されることがない世界にするんだから』


 そう言う有銘の声は異様に低く、そして冷たかった。

 同時に悲哀ひあい慈愛じあいに満ちた瞳をしていた。

 にくみながらも決して見捨てることの出来ない愛しさを含んだような複雑な表情であった。

「それを用意するのに時間がかかってしまったんだが……今思えば、最初からお前の体質を瑠璃に奪わせてから体質を消すことと瑠璃と一緒に自分が死ぬことの二つは計算に入れてたんだな」

――僕のことを考えながらかつ自分の弟を見捨てず最期さいごまで一緒に責任を取ろうとするところは、まさに有銘さんらしい。しかし……。

 彼方はそう考え唇をむ。

――人のためになろうとして、自分を数に入れないのは有銘さんの悪い癖だ。目を覚ましたら、まずはそのことを説教しなくては。だから……。

 今一度目を強く閉じる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る