第32話 彼方の正気

 田所たどころ彼方かなたを外に誘導することに成功し、五分程度が経過した。

 彼方がりをり出すが、田所はそれをかわし彼方の腹部をなぐる。

 一瞬、声をらし顔をゆがめるが、すぐに表情を戻し向かってくる。

 痛みを感じてはいるが、それを瞬時に意識の外に持っていけるほどのアドレナリンが彼方の脳内を占めていた。

「彼方君、あなた、そんなことでいいの?」

 動きながら田所が彼方に問う。

 その言葉に彼方は目を細め田所を見やるが、すぐに気にしない様子で攻撃を続ける。

 彼方のこぶしが田所の顔面を襲う。

――っく、避けれない!

 そう感じた田所が咄嗟とっさにそれを腕で防御するが、えきれず飛ばされ木に衝突しょうとつする。

「……っう、っぐ!」

 無意識の内に働く制御リミットを外された体からは普段であれば到底出すことの出来ない力が出ていた。

 田所は口の中に広がる血を吐き出し、ひとつ小さく息を吐き続ける。

「確か、瑠璃るりのこの体質は行動を制することは出来ても、思考を支配することは出来ないはずよ。……だから、ねぇ、彼方君、聞こえているんでしょう?」

 ゆっくり立ち上がり彼方に問うが、彼方が反応することはない。

 目はうつろで目の前の相手に向かうことしか頭にないようであった。

「……まあ、いいわ。とりあえず聞きなさい」

 彼方の攻撃を時にかわし時に体で受けては田所が言葉をぐ。

 派手な出血自体はないものの、防御した上からでも全身に痛みが走る彼方の攻撃と無理に体を動かしていることが田所の体力を確実に奪っていた。

 脈拍数はあり得ないほど上がっており、それにともなって呼吸回数も増えている。

 田所自身それを自覚しており、すでに体が限界を迎えていることも分かっていた。

 しかし、それでも田所は諦めなかった。

 たとえ自分の命がここで果てようとも、諦めるという選択肢は欠片かけらもなかった。

「私の口から言うのは野暮やぼだったから言わなかったけど……私はちょくちょく夢を見るから分かるの。あーめのことも、そして、あなたのことも」

 彼方が田所と距離を取りかまえる。

――顔をうつむかせて動かない様子から少しは聞いている……いや、効いているのかもしれない。

「あなたとあーめは幼い頃、とある病院で会っている。あなたはそれを忘れている……というより意図的に封印しているだけなのよ」

 彼方がゆっくり顔を上げる。

 表情はない。無論、神経や筋肉のひとつひとつを支配されている状況に変化はない。

 しかし、それでも灰色にくすんだ瞳の奥に一筋ひとすじの紅がそこにはあった。

「当時、あなたは自分の体質を自覚し、両親を失った直後だった。病院で身体検査という名の人体実験を受けていた」

 表情はない。依然いぜん、神経や筋肉のひとつひとつを支配されている状況に変化はない。

 しかし、握りこんだ右拳から血が一滴落ちる。

「あなたは幼くして生きるということに希望を失っていた。しかし、自ら命を絶つことも出来ない。そんな地獄を突き付けられて心を閉ざしていた。そんな時、現れたあーめにあなたは少なからず心を奪われた。だから、誰に何を聞かれてもかたくなに話さなかったのに、あーめとは話したんでしょう?」

 彼方が唾液をひとつ飲み込む。

「幼い頃からずっと人に無関心だったのに、どうしてあーめにはそこまで感情的になるの? どうしてあーめの力になりたいと思うの? どうしてあーめを見る時だけ優しい目をするの?」

 彼方の意識は現世げんせになかった。

――僕はどこにいるんだろう? 今何をしなくちゃいけないんだっけ? 僕は何をしたいんだっけ? 何で僕は生きているんだろう? ……もう何も分からない。もうどうでもいいや。

 体を動かしている感覚や何かに触れている感覚はある。

 最初こそ自分の制御下になるよう必死にもがきあらがった。

 しかし、制御されている状況に変わりはなく、自分の意思は関係なかった。

 彼方は自分の意思が介在かいざいしないこの環境に諦めを感じていた。

 そして、彼方は気づく。

 くもった瞳に映るのは色を失った世界でただ心臓を動かし呼吸をするだけの自分だった、ということに。

 その時、ふと相対あいたいする田所の言葉が胸に響く。

「――なんでそんな思いを抱き、行動しているのか、本当はあなたが一番良く分かってるんでしょう? だったら、いつまでもぐちぐちと悩んでいないで……いつまでもからこもってないで、早く出てきなさい!」

 田所が何でこんなことを言っているのか、何でそんなに必死に声を張り上げているのか。

 言葉が途中から聞こえてきた彼方には全く分からない。

 しかし、それでも心の中に眠る熱を起こすには十分な熱量だった。


 !」


 肺にまった空気を全て吐き出し田所が叫ぶ。

 右拳を田所のれた顔面に伸ばすが、すんでのところで止まる。

「…………た、たど、田所さん」

「ん? 何かしら?」

 彼方が伸ばした右拳を引き、頭を深々と下げる。

「……ありがとうございました。そして、すみません」

 そう言い、頭を上げ目を合わせる。

 彼方の瞳はいつもの紅玉こうぎょくに戻っていた。

「……はあ、まったく、どいつもこいつも世話が焼けるわね」

「それは、どういう」

「いいから! 早くあーめのところに行きなさい! これで止められなかったら、私は絶対許さないから!」

「は、はい!」

 彼方が慌てた様子で有銘あるめの元へ向かう。

「…………あとは、頼んだわよ」

 その言葉だけを残して、田所は事切れたロボットのごとく地面に倒れた。

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