第18話 事件の詳細

「事件のことはどれくらい知ってますか?」

 一條いちじょうがコーヒーに角砂糖を入れながら彼方かなたく。

「……えっと……」

 彼方が返答に迷うが、その間がすでに何かしてはいけないことをしてしまったことをすでに物語っていた。

 躊躇ためらいながらも彼方は正直に話すことにした。

「…………あまり大きな声では言えませんが、警察の調書を拝見はいけんしましたので、それくらいは」

 おー、と小さく拍手をしながら一條は次々と角砂糖を投入していく。

「よく警察が調書を見せてくれましたね。いち一般人であるあなたに」

 そう言って彼方を見る一條の瞳は、取り調べで容疑者から情報を訊き出す刑事の瞳そのものだった。

 彼方の心臓が一度ねる。

「……ええ、まあ」

 彼方が口をにごす。

 誰がどう見ても何か後ろめたいことがあるのは明白である。

 良くも悪くも嘘をくのが苦手な彼方であった。

「……まあ、いいでしょう」

 一條が空になった角砂糖のボトルを戻し、コーヒーをかき混ぜる。透き通った黒色だったコーヒーの色がみるみる内ににごっていく。無理もない。なにせ一日の糖分は勿論、一ヶ月分くらいはこの一杯で取れるのではないか、と思ってしまうほどの量が入っているのだから。混ぜるコーヒーはかろうじて液体の体を保ってはいるが、訳の分からないとろみがついている。

 一條は事もなしにそれに口をつけ、満足そうな笑みを浮かべる。

――僕がもしこの喫茶店のマスターだったら、もうこの客にまともなコーヒーは出さないだろう。そこら辺のスーパーで買った激安のインスタントコーヒーをすずしい顔で届けると思う。

 見ているだけで口の中が溶けそうなくらい気持ち悪い感覚を自分のコーヒーの苦みで打ち消す。

 安心を得た彼方が口を開く。

「あの事件は物理的に説明できないことが多く、それがおくらりになってしまった理由だとうかがいました」

「そうですね。私もその現場……というか、当時まだ小学生だった私は火事が起きた時、その学校の中にいましたからね」

 一條がコーヒー入りの砂糖をすする。

 まさに当事者とうじしゃ

 最初からこんな人の話を聞けることは彼方にとって幸運の何物なにものでもなかった。

 とりあえず私の経験から話しますと、と言い一條が訥々とつとつと当時のことを語る。

「時間は確か、午後三時か四時過ぎくらいでちょうど授業が終わり帰宅し始めていた頃だったと思います。私はピアノを弾くことが好きで放課後、毎日音楽室でピアノを弾いていました。で、その日も例にれずピアノをいていました。そして、疲れて休憩しようと食堂に行こうと廊下に出た時、私の目の前を一人の男の子が走っていきました。不可解ふかかいだったのが、その子の手の平に球ボール大くらいの炎があったんです。体が燃えているわけでもなく、何か火種ひだねがあるわけでもなくです。その時はなんでだろう? くらいだったのですが、後々思い返すとおかしいでしょう。その後、学校に火の手が回って煙が充満し始めた時には本当にあせりました。そこからの記憶は、必死だったので曖昧あいまいなのですが、何とか外に出られ救急車に運ばれたところで意識を失った、っていう感じですね。それで警察にも私の見たことを話したんですけど、まるで取り合ってもらえなくて……」

 そう語る一條は悲しそうな表情を浮かべてはいるが、彼方にはそれがどうしても作り物の感じがして仕方なかった。

 そして、時折見せる厳しい視線がどこか反応を測られているような気がしてならなかった。

 言葉の節々ふしぶしに現れるうわついた声と張り付けたような表情が彼方の中の不信感をあおる。

――この人が本人であることは間違いない。……しかし、この人は本当のことを言っているのだろうか。

 もしかしたら他の人が見たら些細ささいなことで気にも留めないようなことなのかもしれないし、気づかない人もいるかもしれない。

 しかし、何年も人と関わることをせず、外から観察していた彼方にとってその感覚は大事なものだった。

「辛い思い出なのに、ありがとうございます」

「いえ」

「それと、覚えている限りで構わないのですが、その前後で他に何か変わったこととかありませんでした?」

 彼方が一條に訊く。

「変わったことですか……うーん……あっ、そういえば」

 一條が眉間みけんに指を当て考え、思いついたように言う。

 一度疑ってしまうとその仕草ひとつひとつが嘘くさく感じてしまうが、今はそれ以上に情報収集が大事だった。

「これ、多分関係ないと思って警察にも言ってないんですけど……私がピアノを弾く前、学校に曲が流れたんです。『Sprinter』って曲知ってます? あれのサビが十秒くらいですかね。流れたんですよ」

「……『Sprinter』……ですか?」

「はい。そうです。今の若い人、というかメジャーデビュー目前で解散しちゃったので知っている人自体少ないですけど、凄い良い曲なんですよ。まあ、かくいう私も幼い頃、祖父に教えてもらっただけですけどね。良かったら聴いてみます?」

「はい。是非お願いします」

 そう言って無線のイヤホンの片方を彼方に渡す。

 彼方が耳にそれを入れると、現代では考えられないほどアナログな音が流れてきた。

 音質は悪く途中聴き取りづらい部分もあった。

 しかし、その至極しごく単純でいて真っ直ぐな音と声は不思議と彼方の心に何の障害もなく入ってきた。そして、心を熱く滾らせる力がその曲にはあった。

 今から百年以上前、一九八〇年代に作られた曲。

 流行っていてもおかしくないその曲。

 しかし、初めてその曲を聴いた彼方に、それがどう関係していてそれにどんな意味があるのか、分かるはずもなくただただその曲の力に感嘆かんたんするだけであった。

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