第19話 TS転生おじさん、日常に戻る。
「ヌエ様!」
「ヌエちゃん!」
「おふたりとも、ご心配をおかけ致しました。この度は公爵家にも多大なご迷惑を」
「バカバカ! ヌエ様のバカ! そんなことはこの際どうだっていいんですよ! ヌエ様がご無事で本当によかった!」
「ありがとうございます。クレレさんも、心配してくれてありがとう」
「するに決まってるじゃない! 私のせいでヌエちゃんが誘拐されたって聞いて、私、私ッ!」
「あなたのせいではありません。悪いのは全て誘拐を企てた人物です」
「でも! でもお! うわああああん! ヌエちゃんが無事で本当によかったよおおおおお!」
あの忌まわしい誘拐事件から1週間後。警察での事情聴取を終え、五体満足で親方の家に帰ってくることができた私は、そのまま倒れ込んで泥のように寝込んでしまい、三日三晩熱を出して寝たきりだったのだ。
親方はしばらく休んでいいと言ってくれたので、お言葉に甘えてそのまま1週間ほど休ませてもらった。あれ以来イカルガ親方はすっかり過保護になってしまい、仕事中でも1時間おきに私の無事を確認しに来る程だ。
お仕事のお邪魔になっては申し訳ないですから大丈夫ですよ、と何度も伝えたのだが、頑として譲らなかったため、結局私は休暇の後半は工房の2階にある事務所のソファで横になっていることにした。
「ヌエちゃん、買い物か?」
「はい。商店街に明日のお昼に使うお芋とニンジンをまとめ買いに。何かお昼ご飯のリクエストはありますか?」
「いや、特には」
「ヌエちゃんが無事に戻ってきてくれさえすれば、飯なんか蒸かした芋1個でも生のニンジン1本でも構わねえからさ」
「独りじゃ危ない。一緒についてくよ」
「お気遣いありがとうございます。でも、ディアン爺も一緒だから大丈夫ですよ」
過保護になったのは工房の職人さんたちもそうだ。元から顔はこわいが親切な方ばかりだったが、虎のパトリオットさんをはじめ、皆が代わる代わる私の心配をしてくれる。ありがたいやら申し訳ないやら。
「ヌエちゃんを頼んだぞ、ワン公」
「何かあったらすぐに報せに来いよ」
「ワン!」
「……おい」
「うす。分かってます」
ディアン爺は名実ともにうちの看板犬になった。少女誘拐事件の功労者として警察から表彰され、頂いた記念メダルと一緒に親方が気合いを入れてイカルガ楽器工房の名前と紋章が刻まれた首輪を用意してくれたのだ。
自由な野良犬生活に馴染んでいたディアン爺はてっきり首輪をつけられることを嫌がるかと思ったが、すんなり受け入れてくれたため今ではすっかり有名人ならぬ有名犬である。首輪があるのとないのとでは、世間の対応も変わるだろう。
職人さんたちに最高級の餌をたっぷりもらい、ひなたぼっこや昼寝を楽しみながら、作りかけの楽器の音色に耳をすませ、楽しそうに耳をピクピクさせたり尻尾をゆらゆらさせる姿は、いかにも音楽の国の犬といった様相であった。
「明日はカレーだから、明後日はカレーうどんならぬカレースパゲッティにしようか」
「ワン!」
リードなしで犬を散歩させるのは難しい。だが、ディアン爺は賢い犬なので、勝手に走り出したり遠くに行ってしまうことがないから助かる。彼は首輪はよくてもリードをつけられるのは嫌みたいで、リードを持ち出されるとすぐに逃げ出してしまうのだ。
大型犬なのでいざという時制御できないのは心配だが、彼に限ってそんな心配とは無縁だろう。それに、私の細腕では全力で引っ張ったところできっと力負けしてしまうに違いない。
老犬とはいえ私を背中に乗せて歩くこともできそうな大型犬が隣にいてくれると、なんだか安心感が違った。あの事件以来、予想外のところに人影があると反射的にビクっとなってしまう体質になってしまったのは、いわゆるトラウマなのだろう。
「ヌエちゃん聞いたよ! 大変だったんだってな!」
「無事に戻ってこられて本当によかったわねえ!」
「ありがとうございます。ご心配をおかけしました」
「これ食って元気出しな! サービスしとくから!」
「これも持ってって! きっと元気が出るわよ!」
「ありがとうございます。ありがたく頂きます」
商店街の馴染みのおじさんおばさんたちに挨拶しながら、買い物を続ける。『ヌエちゃんが誘拐された! 誰かなんか見てないか!?』と工房の職人さんたちが聴き込みに来た際に大騒ぎになったせいで、今では下町中の人間が事件のことを知っているのだ。
お恥ずかしいやら申し訳ないやら、心配して頂いてありがたいやら。お願いだから事件のことは早く風化してほしい。それに。
「……いる」
「ワン!」
私たちの後ろを先程からずっとついてきている人影。その正体は暴漢……ではなく、工房の職人さんだ。 気付かないふりをしているが、ガタイのいいコワモテのおじさんなので、隠れる気があるのかと尋ねたくなる程にバレバレの尾行になってしまっている。
ディアン爺も空気を読んでそちらに向かって吠えることはないのだが、時折『どうしよう?』とでも言いたげななんとも言えない表情で私のことを見上げてくるのだ。
『……おい』
『うす。分かってます』
過保護な親方の指示で、私が外出する時はああして必ず誰かに後をつけさせて見守らせるのがここ最近の常になりつつある。私のことは大丈夫ですからどうかお仕事に戻られてください、と言ってあげたいが、実際に誘拐された私にそれを言う資格はない。
生まれ変わった自分がビックリするぐらい非力なただの女の子にすぎないことを、図らずも分からされてしまった。そんな私が何を言っても説得力は皆無なので、いっそ開き直って荷物持ちでもお願いした方がいいのではなかろうか。
「クーン?」
「なんでもないよ。誰かに心配してもらえるってのは、とってもありがたいことだね、ディアン爺」
「ワン!」
前世。私はよく娘の送り迎えをしていた。『自分で歩いて行けるからいいよ!』『ひとりで大丈夫だから! お願いだからほっといてよ!』と反抗期の頃には鬱陶しがられたことさえあるぐらい、ずっと娘のことが心配だった。
妻の死因が交通事故であったため、私はずっと凛子が交通事故に遭ったらどうしよう、と不安を抱えていたのだ。そのせいで、凛子には鬱陶しい思いをさせてしまったかもしれない、と反省したことさえある。
「おーい! ロンシャンさーん!」
「うお!? あ、ヌ、ヌエちゃん! こんなところで奇遇ッスね! 俺はその、ちょっと気晴らしに散歩してる最中というか!」
「そうなんですか。偶然ですね。もしよかったら、工房まで一緒に帰りませんか?」
「お、おう! そうッスね! ちょうど今帰ろうと思ってたとこなんすよ! そんじゃ、一緒に帰りましょ! あ、荷物持つよ!」
「ありがとうございます。それじゃあお言葉に甘えて」
だから私は、彼らの厚意に心から感謝している。誰かを酷く心配する気持ちを、ちょっと目を離しただけで不安になる気持ちを、痛いほど理解できるから。だからすみませんではなく、ありがとうを言おう。なるべく心配かけないように、気を付けよう。
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