第18話 人間国宝、激怒する。

 誰かを殺してやりてえ、と本気で思ったのは初めてだった。


「ヌエ! どこだ!? ヌエ!」


 あいつが来てからの生活は、あまりにも平穏で。油断してたんだと思う。元から俺には敵が多い。イカルガ楽器工房に対する嫌がらせも、昔はかなり多かったというのに。


 ヌエに頼まれて鍋に湯を沸かしてる時。野良犬のディアンの野郎が尋常じゃない様子で吠えやがったので、慌てて様子を見に行った時。そこには既に誰の姿もなく、ヌエのサンダルの片方だけが落ちていた。


「クソォ!」


「落ち着け、イカルガ!」


「これが落ち着いてられるかよ!」


「気持ちはわかるが、だからこそだ!」


 とにかく人手が必要だ、と儂はパトリオットに頼んで工房の職人たちをかき集めてもらった。ヌエが誘拐されたのは一目瞭然だ。


「俺、警察に行ってきます!」


「俺、近所に聴き込みしてきます!」


「畜生! ヌエちゃんに手ェ出しやがって! 絶対赦さねえぞ!」


「ああ! なんとしても犯人を見つけ出して、八つ裂きにしてやる!」


 イカルガ楽器工房は下町一帯じゃあ名の知れた工房だ。地域住民との交流もあるし、事情を聞き付けた警察もすぐに駆け付けてくれた。だが、あまりにも手がかりが少なすぎる。


 残されたのは伊達眼鏡だけ。犯人や連れ去られたヌエの目撃証言もなく、ヌエの行方は杳として知れない。


「この、大馬鹿野郎が!」


 事件は儂の目と鼻の先で起きていたのに、儂は全くそれに気付かんかった。それが堪らなく情けなく、腹立たしい。儂がしっかりしとったらヌエは誘拐されずに済んだかもしれんのに! なんちゅう間抜けなジジイだ!


「パトリオット、すまんが今回ばかりはソニック公爵に助けを求めたい。一筆書くから儂の代理で行ってくれるか」


「ああ。急げよ。モタモタしてるとヌエちゃんの身が危ない」


 もはや猫の手も借りたいと、縋るような気持ちで公爵に助けを求めた。事ここに及んで貴族に借りを作らない主義だのなんだの言ってる場合じゃねえ。


 だが公爵家の力をもってしても、ヌエの行方を突き止めることができるかは分からない。仮に突き止めることができたとしても、それまで無事でいてくれる保証がない!


「クソがァ!」


 落ち着け。落ち着けイカルガ。最初から殺すつもりなら路上で殺しちまえば済む話だ。わざわざ連れ去ったからには、それ以外の目的があるってことだろう。


 ヌエを人質に身代金を要求してくるつもりか、或いは他になんらかの脅迫をしてくるつもりか。希望的観測だが、警察の言う通り、犯人がなんらかの連絡を寄越すまで待つしかないのか、今は!


 どうか無事でいてくれ、と神に祈る。神に願うなんざ初めてのことだが、この際神でも悪魔でもヌエが無事に戻ってくるならなんでも構わん。もし戻ってこなかったらその時は、果たして儂はどうなっちまうのか想像もできんかった。


「ワン! ワンワン!」


「お前さんは……!」


「あ! ヌエちゃんが可愛がってる犬コロじゃないすか!」


 儂らが工房に集まって葬式みたいな沈痛な面持ちで途方に暮れていると、1匹の犬が飛び込んできた。そうだ、ディアン! 儂は最初、お前さんが激しく吠えたのを聞いて不審に思ったんだ!


「お前さん! いないと思ったら今までどこに!」


「ウー! ワン!」


 ディアンはまるでついてこい! と言わんばかりにしきりに儂を急かした。


「親方、もしかして!」


「ああ! 行くぞお前ら!」


 もしやと思い、縋るような一縷の望みに賭けて儂は工房を飛び出した。まさかこんな野良犬が、という気持ちと、頼むからそうであってくれ、という気持ちで頭の中がぐちゃぐちゃになりながら、老体に鞭打って走る、走る!


 血気盛んな職人たちが、武器を手に集団で駆け抜ける姿はまるで戦争に出陣する兵隊のようだったが、紛れもなくこれは戦争だった。人様の大事な大事な娘に手を出しやがったら、そりゃあ戦争だろうが!


「ワンワン! ワン!」


「ここにいるのか!」


「ウー! ワンワン!」


「いるんだな! 待ってろよヌエ!」


 辿り着いたのは町はずれにある倉庫街。ここは色んな会社や貴族が貿易や商売のために荷物を保管するための場であり、ディアンの野郎が示したのは、ある中流貴族の所有する小さな倉庫だった。


「なんだ貴様ら!」


「ここは立ち入り禁止だぞ!」


「知ったことか! 退けえ!」


「うわああああ!?」


 儂らの行く手を阻もうとする雇われの倉庫番どもをぶちのめし、鍵を壊して突入する。確たる証拠もなく、推測と野良犬の鳴き声だけで、これが暴挙であることは間違いない。


 もし違っていたらイカルガ楽器工房は終わるかもしれんが、だからといって踏みとどまる理由はなかった。そしてヌエはその中に閉じ込められていた。その結果が全てだ。


――


「ディアン爺!」


「ワン!」


「ああ、そいつに感謝せんとな。なんの手がかりもなく途方に暮れていた儂らを、そいつがここまで導いてくれたんだ」


「ありがとうディアン爺! 本当にありがとう!」


「ワン!」


 倉庫の隅に転がっていた積み荷にかぶせる用の布をマントのように羽織った姿で、命の恩人である老犬を抱き締めるヌエ。


 その横で半殺しというか9割殺しの死に体の状態で辛うじてまだ死んではいないだけの状態で、通報を受け駆け付けてきた警官隊により逮捕された暴漢どもが連行されて、というか担架に乗せられ搬送されていく。


 何がとは言わんが6個、キッチリ潰されて泡を噴いたゲス野郎どもに同情の余地はない。警察が来るのがもう少し遅けりゃ更に3本ちょん切ってやったところだ。


 誰もが怒り心頭だった。うちの可愛い看板娘に手を出しやがった、いや、寸でのところで手を出されずに済んだが、手を出しやがったクソ野郎どもを赦せるわけがねえ。


 この倉庫の持ち主である貴族ひっくるめて、あいつらの正体は一体なんだったのか、これから取り調べが始まるだろう。いくら貴族だろうが揉み消すことはできんぞ。うちに喧嘩を売るってのがどういうことなのかを思い知らせてやる。


「儂からも礼を言わせてくれ。本当にありがとうな、ワン公。お前さんがいなけりゃヌエを見つけ出すのにもっと時間がかかってただろうよ。危く手遅れになっちまうとこだった。そうならずに済んだのは、お前さんの大手柄だ」


「ワン!」


「グス! よかった! ヌエちゃんが無事で本当によかった!」


「お前はイカルガ楽器工房の大恩人だ」


「これからはいつでも最高級の餌を準備して待ってるからな!」


 警察による現場検証と事情聴取が終わり、倉庫の中からゾロゾロと出てきた職人どもが涙を流す。だが喜びの嬉し涙なら、いくらでも流せばいい。


「皆さん、ご心配とご迷惑をおかけしてしまい本当にすみませんでした。それから、助けにきてくださって本当にありがとうございます!」


「水臭いこと言うなよヌエちゃん!」


「そうだぜ! 俺たちは仲間なんだから!」


「ヌエちゃんが無事で本当によかったあ!」


「はい! はいッ! 本当に、本当にありがとうございますッ!」


 荒くれの職人どもに揉みくちゃにされながら、それでも笑顔で嬉し涙を流すヌエ。儂もほっと安堵したせいか、緊張で強張っていた心身からどっと力が抜けていくのを感じる。ヌエが無事で本当によかった。本当に、本当によかったよ。

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