第16話 おじさんの娘、心配する。

「ヌエ様が誘拐された!?」


「ああ。イカルガ殿から遣いが来てね。随分と慌てた様子だったが無理もない」


 学生寮の事務室。お父様からお電話が、と呼び出された私は、信じられないお話に危く受話器を取り落としかけた。


「ヌエ様は!? ヌエ様はご無事なのですか!?」


「まだ分からない。だが、貴族に借りを作るような真似をしたがらないイカルガ殿があれだけ動揺しながら助けを求めてきたのだ。最悪の事態を想定すべきかもしれない」


「そんな! 一体誰が、なんのために!?」


「それは君の方が心当たりがあるんじゃないかい?」


「演奏会での事件、ですわよね」


 クレレが大騒ぎした上で、イカルガ楽器工房の名前を持ち出されたことで、学院側は事件を揉み消すことができずにきちんと対処することを余儀なくされた。それが当たり前だろと感じるのは、私が前世、日本人であったからだ。


 この世界、この国の価値観からすれば、平民ごときが生意気な、と不快に感じる者が圧倒的に多いだろう。事実、学院の生徒のみならず、教師の中にさえ、表立ってではないがクレレを非難する者がいる。学院の名誉に瑕を付けるつもりか、と。


「わたくしの庇護下に入ったクレレ様には手を出せないから、逆恨みの矛先がヌエ様に向いた、と?」


「あり得る話だろう? 職人ならばともかく、事務員ひとり程度ならばと先走った愚か者がいてもなんら不思議ではない」


 ヌエ様が関わらなければ、あの事件は楽器の手入れを怠った不届きな生徒がひとり大恥を掻いた、だけで終わるはずだった。或いは音楽家生命を絶たれたかもしれないが、それは学院側からすれば自己責任で済まされただろう。


 だが、事はおそらく彼女たちの想定を超える大事になってしまった。伝統あるハルモニア国立音楽学院で、そのような陰湿な平民潰し、平民いじめが公然と行われていることが、世間に暴露されてしまったも同然なのだから。


 いじめをした者、それに加担した者、遠巻きに冷笑していた者、見て見ぬふりをした者だけではない。かん口令が布かれたものの、人の口に戸は立てられず。社交界では既に今一番ホットな噂となり、平民ですらこそこそと後ろ指をさす始末。


 出自も身分も関係なく、ただ素晴らしい音楽を追求することこそが至上の命題であるという『音楽至上主義』を掲げるハルモニア国立音楽学院のパブリックイメージそのものが、少なからず損なわれてしまった。


 これまでは『ハルモニア王立音楽学院の生徒です!』と言うと尊敬のまなざしを向けられたのに、今では『ああ、あの春の演奏会の場でいじめがあった』と冷笑されるようになってしまったのだから、『いい迷惑だ!』と憤慨する者だっているだろう。


「でもだからといって、イカルガ楽器工房に喧嘩を売るだなんて」


「いい機会だから、と言うのは不謹慎だが、覚えておきなさい、リンリン。たとえ人間国宝であろうと、優れた楽器職人は彼以外にも大勢いる。加えて彼は、あの頑固な性格上敵も多い。人は損得勘定のみで行動するにあらずだ。恨みや怒り、憎しみといった負の衝動は、時に人を信じ難い愚行に走らせることもある。まともでない人間の行動理念を、まともな人間の価値観を基準に判断することはとても難しい」


「仰る通り、ですわね。でも」


 理解できても納得はできない。ヌエ様の身に何かあったらと思うと、いてもたってもいられなくて、私はあふれてくる不安の涙を止められなかった。既に私の中で、ヌエ様は乙女ゲームの主人公というだけの存在ではない。


 バカだった私の目を覚まさせてくれた恩人であり、大切な友人なのだ。悲しみや不安と同時に、そんな彼女を理不尽に傷付けられた怒りが込み上げてくる。こういう時、怒りが先に立つのは前世の頃からそうだった。


「大丈夫だ、リンリン。我々も彼女には大きな恩義がある。君のためにも、協力は惜しまないつもりだ」


「ありがとうございます、お父様。どうか、どうかよろしくお願い致します!」


「……声色が変わったね、リンリン。大丈夫だとは思うが、念のため。早まった真似は決してしないように。いいね?」


「ええ、分かっておりますわお父様。わたくしはわたくしにできること、わたくしのなすべきことをなすだけです。ノイズ公爵家の名に懸けて」


 電話を切り、寮母さんにお礼を言って部屋に戻る。女子寮も男子寮も相部屋が義務付けられているのだが、私はフォルテ王子の婚約者であるため護衛の都合上特別にひとり部屋をあてがわれていた。


 砂糖たっぷりの紅茶を淹れ、カフェインと糖分で脳に栄養補給をする。原作ゲームにおける主人公の誘拐イベントは、実は結構多い。メヌエットが才能にあふれた平民の孤児だからだ。


 公爵令嬢であるマンダリンから目の敵にされてしまった彼女は、マンダリンの取り巻きであるモブ令嬢たちからもいじめられ、数々の嫌がらせを受けては攻略キャラたちに助けられて恋仲が進展していく。


 中にはこうして金で雇われた暴漢に外出先で誘拐されるイベントもあり、その時は攻略キャラが助けに来てくれるワクワクドキドキのときめきイベントをスチル付きフルボイスで楽しむことができるのだが、実際に起こるとときめきどころの話じゃないな、誘拐事件。


(何が不味いって、ヌエ様には助けに来てくれるイケメンがいないのよ!)


 フォルテ王子以下、攻略キャラはみんな若くして大きな権力を持つ上級国民だ。お父様が公爵家の私兵を動かしてくれてはいるだろうが、それでもヌエ様が無事に保護されるという保証はない。


 原作知識を活かして誘拐された場所を特定するのも難しかった。原作だと大抵拉致監禁された場所は『????』としか表示されないからだ。


 唯一具体的に場所が開示されるのはフォルテ王子ルートの終盤、お城の地下牢に閉じ込められる時ぐらいだろう。


 本格的に婚約者を奪われそうになって追い詰められたマンダリンが、彼女を地下牢に誘い込んで閉じ込め、罪人処刑用の放水装置を作動させるのである。


 降り注ぐ大量の水に押し潰されてあわや溺死寸前のところで、間一髪駆け付けてきたフォルテ王子に助けられるのだが、さすがに今回お城の地下牢はないと思う。


(焦ってもしょうがないわ。落ち着きなさいリンリン。落ち着いて、私は私にできることをするのよ!)


 今回の誘拐事件。ヌエ様が狙われる理由は判っている。では、誰がそれを指示したのか? 事件はとっくに片付けられた後だというのに、今になってヌエ様を狙うことで、誰がどんな得をする?


 考えられる可能性だけなら沢山。でもその中から有力なものを絞っていくとなると、おのずと考えられるのはそう、あの騒ぎで最も被害を被りかけた人間。即ち、クレレのヴァイオリンの弦に細工をした、或いは誰かに細工をさせた犯人!


「突然のアポなし訪問失礼致しますわ! クレレ様はいらっしゃるかしら!」


「え!? い、いるけど何!? いきなりどうしたの!?」


 私はクレレの部屋に突撃した。クレレと彼女と相部屋の少女、本来であればヌエ様が同室のはずだったのだが、彼女が入学しなかったことであてがわれた別の少女、がいきなりの乱入者に目を丸くして驚く。それが公爵家のお嬢様なのだからなおさら。


「いきなりですが、わたくし主催のお茶会を開きますわよ! 折角のいいお天気なのですから、是非ともこの機会にA組女子とB組女子の親睦を深めましょう!」


「う、うん。いいんじゃない? いつにする?」


「今すぐに! ですわ! さあ! 寮に残っているA組とB組の女生徒全員に声をかけますわよ!」


「えええええ!?」


 もしヌエ様の誘拐を命じた犯人がその中にいるとすれば、現在進行形で計画が実行されている今この瞬間にもなんらかの反応をしているはず。社交界で培われたわたくしの鋭い観察眼で、ズバリ見抜いて差し上げますわ!


 そしてもし、もし本当に見抜くことができたのならば、その時は。絶対に、絶対に赦さなくってよ!

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