第15話 TS転生おじさん、襲われる。
クレレさんの大事なヴァイオリンに細工をした犯人捜しは、結局迷宮入りとなってしまったらしい。私が渡した名刺と、マンダリンお嬢様の鶴の一声もあって、学院を挙げての大捜索が行われたらしいのだがそれでも犯人は見付からなかった。
そもそも当日は来客と生徒たちで混雑していたし、過ぎたことを後から思い出すのは難儀する。自分たちの発表で緊張しててそんなの覚えてないよ、と言われてしまえばそれまでだし、大事にしたくないという学院側の判断もあってのことだろう。
嫌な言い方にはなるが、平民の生徒がひとりいじめられたぐらいで、伝統と歴史のある世界最大の名門音楽学院の評判に瑕を付けたくないと考える人間が大勢いても、なんら不思議ではなかった。
「でもいいの! お陰でヌエ様ともリンリン様ともお友達になれたし!」
「一介の平民でありながら公爵家の御令嬢と親しくなったことで、嫉妬されたりはしませんか?」
「されるに決まってるじゃない! でも誰も友達がいない状態で大っぴらにいじめられるのと、貴族のお友達がいる状態でシカトされるのだったら、後者の方がずっといいと思わない?」
「確かに」
クレレさんは強かだ。田舎娘には田舎娘なりの強さや戦い方があるようで、今では1年B組のカーストの頂点にふんぞり返っているらしい。とはいえ今までいじめられた分仕返しをするのではなく、もういじめなんか起きないよう睨みを利かせているのだとか。
「私をいじめられなくなったからって、今度は違う子をいじめだしたら本末転倒でしょ? 私の目が黒いうちは、うちのクラスでいじめなんかさせないんだから!」
「素晴らしいことだと思います」
「そう? じゃあ、褒めて褒めて!」
「よいことをしましたね。これからも頑張ってください。応援しておりますから」
田舎の御両親とも楽しそうに手紙のやり取りをしており、田舎から送られてきたという村を襲った暴れ牛の肉で作ったというビーフジャーキーを私にもお裾分けしてくれた。送られてきた、と言っていたが、たぶん頼んで送ってもらったのだと思う。
あきらかに娘を助けてもらったお礼の意味が込められているであろう気合いの入った大量のビーフジャーキーは、ありがたく私と親方のおやつにさせてもらっている。何はともあれ、彼女たち一家に笑顔が戻って本当によかった。
「マンダリンお嬢様とは仲よくやれていますか?」
「うん! リンリン様っていい人だよね! 貴族なのにちっとも偉ぶらないし、優しいし! そういえば、ヌエちゃんはなんでリンリン様のこと、リンリン様って呼んであげないの? 結構気にしてたよ?」
私のこともクレレって呼び捨てにしてくれないし! と頬を膨らませる。
「すみません、そういう性分なもので」
「そっか。今すぐにとは言わないから、いつかそう呼んでもらえたら嬉しいな! 私も、リンリン様もきっとね!」
「前向きに善処します」
犯人こそ見付からなかったが、国立音楽学院は徐々に静けさを取り戻しつつあるようだ。そのマンダリンお嬢様は、最近では夏の臨海学校に向けて気合いを入れて水着を選んでいるらしい。
海かあ。仕事で移動する際にたまに見かけることはあったが、最後に海に行ったのは凛子が小学生の時、家族3人で海水浴場のあるキャンプ場に行ったのが最後だな。
私は昔からアウトドアが苦手で、あの時もホテルに泊まるつもりだったのだが、凛子がどうしてもテントがいい! と主張したので人生初のテントを買うことになった。
行く前に家の中で何度か練習をしたのだが本番では散々で、結局凛子が張りきってテントを組み立ててくれたのをよく覚えている。妻と子に笑われてしまい、父親としてはちょっと情けない思い出になってしまったが、今でも大事な思い出だ。
――
「海かあ。もし海水浴やプールに行ったとしても、今の私だと女性用の水着を着ないといけないんですよね。うーん、無理だ」
「ワン!」
季節は初夏。私は休日を利用して、工房の裏手にある水道を使い野良犬のディアン爺を洗ってやっていた。老犬であり野良犬である彼のゴワゴワの毛並みを見ていると、どうしても気になってしまったのだ。
犬用のシャンプーなんて洒落たものはないから石鹸を使い、初夏の暑い日差しの下、Tシャツと短パン姿、それにサンダル姿でディアン爺を洗ってやる。
人間用の石鹸を犬に使うのは少し心配だったが、添加物なんてほとんど存在しない異世界では食べ物も石鹸もオーガニックだから恐らく大丈夫だと思う。実際、過去に何回か使ったけれど一度も異常が出たことはないので大丈夫だろう。
「気持ちいいかい?」
「ワン!」
「そうかそうか。ならよかった」
ホースを使って泡を洗い流してやると、ディアン爺は気持ちよさそうにブルブルッと体を震わせて全身の水を弾いた。その拍子に私の体が濡れてしまったため、いっそのこと、と頭から冷たい水をかぶる。
こちらの世界に生まれ変わって一番困ったことは、エアコンがないことだ。エアコンどころか扇風機もないため、夏になれば薄着になるしかないのは現代人にとっては辛いところである。寝ている間は団扇で扇ぐこともできないし。
「おーいヌエ! そろそろ昼飯……っと、うお!?」
「あ、すみません親方。もうちょっと待ってください」
私を呼びにきた親方が、家の1階の窓から顔を覗かせた途端に真っ赤になる。工房の裏手にある親方の家はほとんど隣接しており、徒歩0分で行き来できるから、家の中からでも工房の裏手が丸見えなのだ。
「お前さん、なんちゅうかっこしてやがる! 破廉恥な!」
「親方に言われたくありませんよお!」
親方も夏場家の中で過ごす時はタンクトップにドワーフサイズの大きな大きなトランクスという異世界らしさの欠片もない格好でいることが多い。時には上半身裸で寝ていることさえあった。
そんな体たらくでよく私に恥じらいや慎みについて小言を言えたものだ。とはいえ相手は家主なので、私もあまり強くは言い返さずに、おっぱい攻撃で反撃する。
親方は意外と純情なので、最近ますます大きくなってきた胸を強調すると、服の上からでもすぐに目を逸らして静かになってくれるのだ。フ、勝ったな(何にだ)。
「お昼は冷製スパゲッティでいいですか?」
「お、おう!」
「バジルにします? それともトマト?」
「両方だ!」
頭から水をかぶってスッキリサッパリしたので、体のあちこちに張り付いてしまったTシャツや短パンを指で引っ張りながら、ちょっと離れたところに置いておいたバスタオルを手に取る。最初に自分の体を拭き、それからしゃがんでディアン爺の体を拭いてあげた。
「じゃあ、水牛チーズも乗せてマルゲリータ風にしましょうか。親方、鍋にお湯だけ沸かしてもらっていいですか?」
「お、おう!」
親方はしばらく家の窓から私とディアン爺を見ていたが、はっと我に返ったかのように慌てて顔を引っ込めた。よっぽどお腹が空いていたのだろうか。
綺麗になったディアン爺は、野良犬とは思えない堂々とした佇まいでお座りしながら尻尾を振っている。きっと野良犬になる前は、どこかお金持ちの家で飼われていたのではなかろうか。なんだかとてもそんな気がする。
「ん?」
「ヴー! ワンワン!」
「どうした? お客さんか?」
それは突然の出来事だった。それまでいい子にしていたディアン爺が、急に立ち上がってあさっての方向に向かって吠え出したのだ。つられてそちらに視線を向けると、いきなり目の前が真っ暗になった。
「わあ!?」
パニックになって藻掻く私の体を、誰かが後ろから羽交い絞めにする。どうやら頭陀袋のようなものをかぶせられてしまったらしい。中には睡眠薬のような粉末が詰まっており、甘い香りのする粉を大量に吸ってしまった私は、そのまま意識を失う。
「ワン!」
「チ! なんだこの犬は!」
「黙らせろ! 殺して構わん!」
「ワン! ワンワン! ワン!」
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