第5話 TS転生おじさん、訪れる。
「明日は公爵家に納品に行くぞ、ヌエ」
「了解です。同行者が私でいいんですか? 前回、あちらのお嬢様に随分と妙な目で見られてしまいましたが」
「だからこそだ。公爵家は先代の頃からのお得意さんだからな。これからも仲よくやっていきたい相手と気まずいまんまじゃお前さんも嫌だろう? 明日行って何もなければそれでよし」
「もし、何かあったら?」
「その時はその時、だろ?」
「なるほど、確かに」
注文されたピアノが無事完成し、後は納品を待つだけになった4月の終わり。5月の頭には新入生発表会が控えており、そちらには親方も招待されているらしい。
新入生たちは1か月かけて死に物狂いで腕をみがくのだという。言わば青田買いの場で、直接スポンサーに自分をアピールするための場とあらば、気合いも入ろうものだ。
「本当に大丈夫なんですかね。行きたくないなあ」
「ワン!」
夕食の後、お風呂上がりに親方の家の玄関口に腰かけて夜風にあたって涼んでいると、野良犬のディアン爺がひょっこり顔を出した。どうやら彼は縄張りが広いらしく、私が正式にイカルガ楽器工房に就職した後もちょくちょく顔を出すのだ。
彼は頭がよいため工房の中に入ってくることはなく、大声で吠えたり工房の前の道路にウンチをしたりもしないため、職人さんたちからは見逃されている。たまに私が餌をやっていると、『ヌエちゃんは優しいなあ』などと生温かい視線を向けられることもあった。
「いっそのこと、仮病でも使っちゃいましょうか」
「クーン?」
「冗談ですよ。さすがに社会人としてそんな真似はできません」
川で水浴びでもしてきたのか、いつもより綺麗になったディアン爺の頭を撫でながら、私は星空を見上げる。日本のそれとは比べ物にならないぐらい美しい、別の世界の星空。
凛子が子供の頃は、自宅のベランダに出てよく星を見上げていたものだ。ほとんど見えなかったが、だからこそ星が見付かると嬉しそうに指さす娘の笑顔は今でも忘れられない。
「……元気にしてるかなあ。会いたいなあ」
私は体育座りをして膝を抱えた。凛子のことを思い出すと涙が出そうになるので、意識的に考えないようにしていたものの、どこか凛子に似た雰囲気のあったマンダリンお嬢様のことを考えると、そのまま芋づる式に娘の顔も思い浮かんでくる。
凛子が死んだとは思いたくないが、だからといって両親を亡くし、独りだけ取り残されてしまった娘のことを思うと涙が滲んでくる。おかしいなあ。前世ではこんなに泣き虫ではなかったはずなのに。
「クーン……」
体が思春期の少女のものだから、感受性が豊かなのだろうか。私が泣きそうになりながら膝に顔を埋めていると、ディアン爺がそっと寄り添ってくれた。それから、親方がそんな私の後ろ姿を遠巻きに眺めていることには、この時はまだ気付かなかった。
――
「おーい! ちと手伝ってくれんかあ!」
「はーい。あらま、ネクタイが酷いことになってますね親方。どうやったらこんな器用な絡ませ方ができるんですか?」
「しょうがねえだろう! ネクタイなんざ年に1回結ぶかどうかなんだから!」
「はい、これで大丈夫ですよ」
「おう、すまねえな!」
翌朝。私たちは朝から準備に追われていた。職人が正装する機会はそれなりにあるはずなのだが、どうやら人付き合いの苦手な親方にとっては滅多にないことらしい。
確かに公爵様を工房にお迎えする時ですら作業着姿がデフォルトなのだから、わざわざスーツを着てネクタイを締めることなどあまりないのだろう。
とはいえさすがに貴族のお屋敷に伺うからには、きちんとした格好をしなければならないと思う程度の良識はまだ残っていたようだ。久々に引っ張り出してきたスーツはあちこち窮屈になっており、またドワーフの太い指でネクタイを結ぶのは大変なようだった。
私もまた、今日のためにパンツスーツを購入したばかりである。さすがにスカートには抵抗があったので、パンツスーツにネクタイだ。男装の麗人のようでちょっとかっこいい、と他人事のように思ってしまったのは内緒である。
見た目は可愛らしい少女であったが、中身が子持ちのおじさんでは色気も何もあったものではない。鏡に映る自分の顔は、本当に赤の他人のようだ。
――
「素晴らしい。あなたにお任せして正解だった」
「当然だ。儂の力作だからな!」
そんなわけで、私たちは親方の運転する軽トラで公爵家にやってきた。どうやらこの世界の交通の主流は、緩やかに馬車から自動車に移り変わりつつあるらしい。
とはいえ伝統や格式を重んじる貴族の中には、自動車など下々の乗り物、馬車こそが貴族に相応しい乗り物であるといった価値観も根強く残っているようで、高級住宅街を自動車で走っていると、嫌な視線を向けられたのは興味深い。
公爵家に到着し、荷台に乗っていた職人2人が公爵家の使用人たちと共に完成したピアノを丁重に運び入れていく。親方の作り上げたピアノは、楽器に疎い素人の私から見ても素晴らしく美しい、芸術的な逸品であった。
「折角だ。1曲歌ってみなさい、リンリン」
「はい、お父様」
「それじゃあ僕が伴奏するよ義姉さん!」
「ありがとう。お願いねアルト」
同席しているのはソニック公爵、娘のマンダリンお嬢様、それから彼女の義弟であるという公爵家の長男アルト様。こちらは親方と私。5名でピアノを運び入れた部屋に集う。
いわゆるこけら落としだ。親方が仕上げた渾身のピアノの前に座り、軽く音を鳴らすアルト様。音楽に疎い私には違いが分からないのだが、ほう、と公爵様が感嘆するようなため息を吐いたので、きっと凄くいい仕上がりになったのだろう。
「それでは、僭越ながら」
弟さんの演奏でマンダリンお嬢様が歌い始めたのは、このハルモニア王国の国家だった。なんでも入学試験や春の演奏会といった大事な場では、国家を課題曲とするのが古くからのならわしであるという。
日本のそれに比べ随分とポップな国家だなと思ったが、それは私が日本人だからそう感じるだけであって、こういったノリのいい国家というのは前世でも世界を見渡せば普通にあったのだろうなと思った。
「素晴らしい! 楽器が喜んでやがる!」
「さすがは義姉さんだ!」
「素晴らしい歌声だったよ、リンリン」
マンダリンお嬢様の歌声は、それはもう見事なものだった。本職のオペラ歌手のそれに優るとも劣らない歌声は、音楽なんて歌謡曲か演歌ぐらいしか聴いた覚えがない私にとっても素晴らしいと感じられるものであった。
滅多に人前で笑顔を見せない親方が、珍しく満面の笑顔で拍手するのもよく分かる。これだけの技量があるならば、音楽学校など通わずともよいのでは? と思ってしまうほど、既にプロ級の歌声なのだ。
まあ、箔付のために必須ではあるのだろう。前世でも、東大卒の肩書きが大きな意味を持ったように。とはいえ、新入生がこれでは先生たちもさぞやり辛かろう。
親方が気合いを入れて、一生懸命作った甲斐があった、と私も嬉しくなってしまった。この1か月間、丹精込めて作業に没頭する親方の後ろ姿にエールを送っていた甲斐があったな。
「ありがとう、ございます」
だが、肝心のマンダリンお嬢様の表情は冴えないものだった。一生懸命愛想笑いを浮かべてはいるものの、無理をしている風なのは誰の目にもあきらかなのだ。嬉しくないのだろうか。
「どうかしたかね、お嬢さん」
公爵に声をかけられ、私は肩を竦める。
「いえ、文句のつけようもない、素晴らしい歌声でございました」
「遠慮することはない。正直に言いたまえ」
「本心からの、正直な感想です」
何か物言いたげな公爵の視線に、親方からも心配そうな視線が飛んでくる。次いでマンダリンお嬢様から何を言われるのかとビクビクした視線が。弟さんからは、僕の義姉さんの何が不満なんだ、とでも言わんばかりの怒りの視線が飛んできた。
正直、こんな状況で何を言えと言うのだろうか。何を言っても角が立ちそうなので、勘弁して頂きたい。
「……」
「……何か言いたいことがあるのなら、遠慮なく言ってくれたまえ。どうやらうちの娘は、君に思うところがあるようだからね」
「お父様、それは……」
勝手に親子同士で通じ合わないで頂きたい。本当に。貴族の親子に因縁をつけられたせいで仕事をクビになるだなんて、異世界というのは理不尽だ。とはいえ、それも今更か。現代日本でもままあった光景だ。
「ヌエ」
「はあ。分かりましたよ。マンダリンお嬢様は、素晴らしく向上心に満ち溢れた方なのですね、と感心しきりでございました」
親方に頷かれ、私は渋々口を開いた。
「ッ!」
「ほう。続けなさい」
よくてクビ、最悪無礼討ちだろうか。ああ、こんなことなら本当に仮病でもなんでも使って、休んでしまえばよかったのに。
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