たとえば花を

古月のぎ

たとえば花を

 からん、ころん。

 夕暮れに染まる店内にドアチャイムが軽やかな音をたてる。

 私はいったん手を止めて、軽く一房にしたエゾムラサキをやさしく取りわけた。薄紫の花弁がくるりと俯く。ここ数年の「流行り」で、老脈男女年齢問わず、贈答花としてひときわ人気になったかわいらしい花。品種改良や栽培法で一年中育てられるようになったその花は、当然、私の営む生花店でも年中切らすことなく仕入れていた。いまやってきたお客さんも、この短命の多年草を買いに来たのかもしれない。

「いらっしゃいませ」

 背の高いミモザの陰から姿を現したひとに声をかける。入店からまっすぐカウンターまで来るお客さんは、おおよそほしいものが決まっているか、聞いた方が早いと思っているか、とにかく、声をかけたからといって店を離れるタイプではないことは確かだ。

 やってきたのは利発そうな少女だった。

「本日はどなたへの花を?」

 無音。一拍おいて、目をきらきらと輝かせて。

「は、はじめましてっ!」

「はい?」

 まじまじと少女の顔を見てしまう。花屋の店員に話しかけるにはおよそ似つかわしくない挨拶をしてきた彼女は、なんというか輝いていた。目とか。表情とか。顔の前であわせた細い指先の薄ピンクのネイルとか。

 はじめまして、のとおり、私とこの少女は初対面のはずだった。

「あの、えーっと、は、はじめまして」

「あー、すみません、いきなり……」

 癖なのだろう、目線は私から外さずに、少女は艶のある後れ毛をその白い手でくるくると巻きとりながら。

「わたしサラっていいます。お茶でもしませんか、お姉さん?」

 さらりと私に言ってのけた。



 燻したコーヒーと柔らかなバターの香り。シックな窓辺には私の仕立てた網籠のフラワーポット。道路をはさんで真向かいにあるこの喫茶店は私の花業のお得意様で、私もここのフレンチローストのお得意様なのだった。

 窓ぎわの瀟洒なテーブルに、ふたりぶんのティーカップが並ぶ。

 よくこんなことしてるの、そう聞いた私にサラはまさか、と言って小さく笑った。

「はじめてなんです。見た瞬間に、こう、ビビッと来てしまって」

 この出会いは運命に違いない、そういう直観が働いたのだという。ふつうに話しかけたら、店員と客の関係から始まってしまう。けれど彼女はこの運命を私とすぐに分かち合いたくて、だから焦りながらも適切な言葉を探した結果、出てきたのが「はじめまして」だったのだ、と。


「まだこの街に来てすぐなんです。夕暮れ時でも活気のある商店街ってなんだかめずらしくて。それに、どこか懐かしくて。あ、わかりますか? ふふ、ぶらぶらしていたらあなたのお店の前を通りかかったんです。そこでなにかが私のなかで引っかかって、ふらりと立ち寄ったんですよ。店先のお花だったか、入口のドア飾りかなにかだったか、あなたに出会ったから忘れちゃったんですけど。だから——」

 サラは一瞬窓の外へ伸ばした視線を私の方へ向けると、軽く身を乗り出して囁いた。

「いまいちばん知りたいのは、お姉さんの名前なんです。教えていただけますか?」



 それから閉店時間を過ぎてマスターに追い出されるまで、私たちはほんとうにたくさんの話をした。たとえば、嫌いなものについて。自分ではあまり気に入っていない、私の名前について。許せる虫とそうでない虫について。伝えたい言葉が思い出せないときの絶望について。流行り病について。たとえば、好きなものについて。好きな紅茶と、それにいちばん合うお茶請けについて。自分の前に手にとられたのが何年前かもわからないような、書庫の奥から借りた本を広げたときのにおいについて。長旅から帰ってきたときの安心感と、ちょっとだけ残る寂しさについて。

 サラの作戦はまったくもって成功で、このお茶会は私たちの関係を一足飛びに特別なものに——ただの花屋とお客の関係ではないものに——するにはじゅうぶんだった。

 長く短い時間のなかで、私とサラの考え方は同じ場所を目指す旅びとのように非常に近しいもので、お互いの趣味の違いはそれぞれを補い合うかのように感じられた。

「ほんとうに、月と太陽と地球が一直線に並んだみたいな偶然」

 笑いながら言ったサラのジョークに私も笑ってしまったけれど、私たちはたしかにこの偶然に、特別な関係になれたのだった。理由はいらなかったし、もし必要とあればいくらでも挙げることができた。



 そして私とサラが一緒になってから季節がひととおり巡ったころ、サラは発症した。



 ベッドに細長く差し込む明け方の光に、サラはわずかに眩しそうに目を開いた。

 ゆっくりと身体を起こして、不思議そうにまわりを見渡す。早朝の静けさに白く沈む病室の壁を、そしてベッドの脇にすわる私を。窓際に置かれたエゾムラサキの意味に気づいたのだろうか。サラはすこし目を見開いて、私の顔を見る。

 私の心は驚くほどに凪いでいた。何も終わってなどいないことへの、これからも続いていく時間への確信ゆえだろうか。そう、たとえ忘れられても。けれど、これがひとつの始まりでもあることは確かだった。だから、

「はじめまして、サラ」

「はじめまして! ええと、お名前をお伺いしてもいいでしょうか?」

 私はすこし好きになった自分の名前を口にする。

 いいお名前ですね。そういってサラはやさしく微笑む。

 薄紫の花弁がくるりと俯いた。

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