第五十九話 決着

屋根の上に沈黙が訪れた。

その遥か上空、厚く集まっていた黒い雲が四方に散らばり、風にかき消されていく。

夕暮れの赤味がかった日差しが屋根を照らし始めた。


「……終わったの?」


「多分」


緊張の糸が切れて、霊体がゆっくりと屋根へと降りていく。

痺れ薬で倒れている私の身体へと近付き、抱き起こす。

まだ薬が効いているのだろうか、息が浅いように見える。


「アール、あなたは梯子で地上まで降りてくれる?

私は自分で降りるから」


「分かった」


自分の身体を横抱きにして、ふわりと屋敷の裏庭へと降りていく私。


……思えば、結婚当初の二年で痩せ細ったこの身体も、今は少し細身な程度で、すっかり健康を取り戻している。

ここまでくるのに長かった。


屋敷の裏庭。そこにはシェアリアの温室の跡地がある。

アニーとジョン、ジェームスの遺体が眠っていた場所だ。

ここにはいずれ花壇を作ろう。

毒の無い花をたくさん植えよう。



地面に自分の身体を寝かせ、そんな感傷に浸っていると、屋敷の玄関側から、アールとジェームスが走って来た。


「……!! …………!!」


何か叫んでいるけれど、よく聞こえない。

辛うじて「後ろ」という単語を聞き取って、建物の方を振り向くと……




突然、黒焦げの女の腕が突き出してきた。

ちょうど避雷針の電流を逃す銅線が通っている壁から。


「逃がさないわ」


しゃがれて、引き攣ったような声。

女が、呪いの黒い触手を引きちぎりながら、壁から素早く抜け出してきた。

全身のあちらこちらに黒い焦げ痕を作った、しかし顔は明らかに原型を留めているシェアリアが。


「な……!」


彼女に両腕を押さえつけられる。

まさか! 霊体に干渉できるの!?


焦って振り解こうとしていると、シェアリアの背後から、ズタボロになった悪魔の魂が大きく口を開き、牙を覗かせると同時に、私の頭に噛みつこうと飛びかかってきた。


「やめろ!!」


アールの叫びと共に、私は彼に抱きかかえられた。

彼の肩口に、魂の牙が食い込んでいる。目の前にある彼の顔が、苦痛に歪んだ。


「アール!!」


彼から悪魔を引き剥がそうとした瞬間、機械的な抑揚のない声が高く響いた。




【……契約違反……契約違反……只今を以て、契約を解除する】




悪魔の魂は、黒い煙となって雲散霧消し、どこかの空間に向かって消えていく。


「そんな……やっとここまで……来た……のに……」


シェアリアの泣き顔を初めて見た。

可愛さを演出する嘘泣きではなく、悔しさに醜く歪んだ、素の泣き顔を。


時をおかずシェアリアの全身が、砂でできた像のようにサラサラと崩れ始めた。


「た、助け……て……」


彼女の断末魔は、風に攫われて、やがて聞こえなくなった。





「……何が起こったの?」


「分からない……が、辺り一面の邪気が払われている」


屋敷から、仲間の霊達が裏庭に続々と集まる。

皆が辺りを窺っていると、温室の跡地にポツンと残っていた蛇口からポトリと水滴が滴り、老人の声が聞こえてきた。


「一つだけ説明しておかねばならんのう」


「主様!?」


私達は一斉に、声のする方を見た。


「アレが悪魔と交わした契約は、スレイター公爵家の跡取りの長寿と幸運。

自ら後継者を傷つけた時点で、契約が破棄されたんじゃよ。

悪魔は契約に関してだけは、厳格じゃからの……」


「じゃあ、今度こそ本当に……」


肩を押さえながら尋ねるアール。


「ああ、身内喰いの呪いは、完全に消え去った。

本当にありがとうよ。感謝する。

これで心置きなく、川の主を引退できるのう。

では、さらばじゃ……」


こちらがお礼を言う前に、主様はすうっと目の前から消えてしまった。




私は取り急ぎ、自分の身体に戻って様子を見る。

痺れ薬の効果は、ほとんど消えていた。

これなら自分の足で動けそうだ。


そして改めてアールの肩の傷を見ると……

さほど深くはなさそうだが、やはり痛々しい。


「ごめんなさい。私が油断していたせいで」


私は思わず、彼の背中に抱きついて、怪我をしてない方の肩に顔を寄せた。


「いや……この怪我を負ったのが、あんたじゃなくてよかった。それだけで十分だ」


「早く手当しましょう。さあ、あちらへ」


ジェームスが私達を屋敷へと導いた。

太陽が西の地平線へと近付き、紺色の夜の帳が降りかけている。


全ての呪縛から逃れて、新たな生活が、これから始まる。

私はアールに肩を貸しながら、皆と共に、幽霊屋敷・マリーゼ邸へと戻っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る