第六話 追跡

私は胸の下を押さえて倒れている自身の身体に、そっと右手を触れる。

途端にシュッと魂が身体に取り込まれた。


だが、立ち上がろうとすると、とても体が重い。思わずふらついてしまう。

いや、これが普通の『生きている』感覚なのだろう。

さっき夫を殴り飛ばした時のような腕力は到底出せそうにない。

ましてやポルターガイストを起こすなんて、もってのほかだ。


だけど今は時間がない。

私は胸の下をさすり、そっと呼吸を送りながら、厩舎に向かった。




***




月光が照らす城下町を抜け、北の吊り橋へ急ぐ。逆光で真っ黒な樹々の隙間を、縫うように走り抜ける。鞍を付ける暇もなく、スカートで裸馬に乗る私は、たまに振り落とされそうになりながら、必死に手綱を握り、馬の背にしがみついた。


どうしてもシェアリアを捕まえたい。もう間に合わないかもしれない。でも、万に一つのチャンスに賭けたかった。


この国でも有数の、危険な吊り橋。長さは二十メートルほどある。

しかしハンター先生の診療所はそれを渡った先にあり、往診中は毎日渡って来てくれたのだ。本当に感謝しかない。


左右を囲む樹木が開けて、谷川に架かる吊り橋の前までやって来た。

橋の手前に、見覚えのある鞍を付けた馬がいる。

裸馬から下りて、橋に駆け寄って、驚いた。


吊り橋を支える主なロープは手すり部分の二本と、足下部分が二本の、計四本。

そのうち左側の二本が切られているのだ。板で出来た床の部分がブランと下に向かって垂れ下がって、歩いて渡れる状態ではない。


橋の向こう側に、何かがキラリと月の光を反射した。

向こう岸にいたのは、シェアリアだった。

ジョンが言っていた通り、平民の男のような軽装をしている。

その手にはダガーナイフが握られ、今またロープが一本、切り落とされた。

ロープと一緒に橋の床板が音を立てて、何枚か谷底に落ちていく。


「ふう、案外固くて時間がかかったわ……

あら、ハリーの奥さんじゃない。わざわざ、こんなところまで、自分で馬に乗って来たの? 案外、お転婆だったのね」


彼女は全く悪びれる様子も見せず、クスクス笑っている。

驚愕したのは、彼女の魂だ。タコの足で知恵の輪を作ったような、禍々しいうねり方。まるで歪な化け物だ。とても人間のものとは思えない。


「シェアリア! 戻りなさい! 罪を償うのよ!」


「ええ? 何を言ってるの? こんな橋、もう渡れるわけないじゃないの。戻りたくても戻れないわ。もっとも戻る気なんか、さらさら無いけど?」


私は白くなるほど唇を嚙み締めた。そうだ、この程度の距離なら、幽体離脱すれば向こうに渡れる。シェアリアを捕まえられる!


……が、霊体が身体から抜け出せない。

なぜ…!?

今まで二回、抜けたのに。なんで?

自分で自分の身体を叩いたり、飛び跳ねたり……何をしても抜けない。

どうして……


「あらぁ? 奥さん、どうかしちゃったの? 自分で自分を叩いたりして。そんな奇行があるから、浮気されちゃったんじゃないかしら?」


そう言い放つと、彼女は踵を返した。


「それじゃ、お先に失礼するわ。もう会うこともないわね。

今度こそ、バイバイ!」


向こう岸の木陰から、馬に乗った男が現れた。どうやら仲間がいたらしい。

男がシェアリアを自分の手前に乗せると、彼らは足早に森の奥に駆けていった。


「待って!」


せっかく追いついたのに、逃げられる……そんなの嫌だ、 逃がしたくない!

私は残った橋のロープを握り締めた。何とかこれを伝って渡れないだろうか。


視線を落とすと、遥か下に渓流が見えた。落ちたら助かる気がしない。

だけど、あの人を逃がすくらいなら……


私は覚悟して、ロープに掴まると、川岸から足を離した。

思ったよりも、かなり揺れる。これは無理だ…

一メートルも進まないうちに諦めて戻ろうとするが、上手くロープの先の方を掴めない。そのうち、左手が滑り、残った右手で宙ぶらりんになった。


ダメだ! 落ちる……!

私は思わず息を止めた。


右手がロープを離れ、急流に吸い込まれるように落ちていく私。

だが水面に届く直前、身体から抜け出た幽体が、本体の右手首を咄嗟に掴んだ。


ぐったりした身体をぶら下げながら、霊の私はゆっくりと上に浮かび上がる。

そうか、息を止めればよかったんだ……幽体離脱……


悔しくてたまらない。

もっと早く気付いていたら、シェアリアを取り逃がすこともなかったのに。


改めて、橋の下の渓流を見下ろした。

もしやと思ったけれど、ハンター先生の霊はいない。

こんな場所に落ちたなんて、どれほどの痛み、苦しみだっただろう……

ますます悲しみが強まる。


私は後悔を引き摺りながら、帰途についた。

帰りは鞍がついた馬に乗ったが、裸馬の方も、大人しく付いてきた。




屋敷に戻り、疲れ切った様子の馬達を厩舎に戻す。

使用人が逃げた厩舎は、馬の前にある水も飼葉も空っぽだ。

井戸から水を汲み、餌小屋の干し草を飼い葉桶に積むと、馬は揃って喰らいついていた。


しかし、この先、どうしたら……

馬を見ながら大きく息をつく。

ジョンは他に何か知っていないだろうか。

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