第五話 橋の上で起きたこと
ジョン……!?
なんでこの人が死んでいるの!?
ジョンは六十歳を超えた、痩せた小男だ。大人しい性格で、私にも嫌がらせなどはしてこなかった。
わざわざ関わってくることも、なかったけれど。
「ジョン、顔を上げて。何があったのか、理由を話して」
突っ伏していた彼は、恐る恐る頭をもたげ、こちらを見つめると、再び視線を落として話し始めた。
「ワシは……ワシは……あの女…シェアリアに、ハンター先生を吊り橋の上から落とすように命令されて……」
聞いた瞬間、燃え滾るような強い怒りが全身を突き抜けた。だが、顔に出すギリギリのところで踏み止まって、その先を聞く。
「あなた、先生を突き落としたの!?」
「いえ……あの日、外は風が吹き荒れていて、吊り橋はひどく揺れてました。
ワシは先生の後に付いていったんですが、突き落とすような余裕なんて……
それに実際に人を殺すなんて、やはり恐ろしくて、できなくて。
そのうち足を滑らせてしまったところを、先生に助けられたんです。
でも、ワシを引っ張り上げた先生は、バランスを崩して、そのまま川に……」
……やっぱりハンター先生は、もう……
言葉が出てこない。だけど、両頬を雫が伝うのを感じる。
こんな、魂だけの姿になっても、涙は流せるんだ……
私は大きく息を吸うと、腕を組んでジョンを睨みつけた。
「そんな話を信じるとでも思って?」
「ひーー! お許しくだせえ!」
ジョンは泣きながら、床に額を付け、頭を抱え込む。
「……信じるわ」
「え?」
「あなたの魂には、大きなねじれがない。だから信じる」
目の前の初老の男は、頭を抱えていた手を下ろすと、顔を上げた。
「あ、ありがとうごぜえやす!」
私は相手の魂を見ることで、嘘をついているかどうか、見分けることができた。
嘘をついたことのない人間などいないから、細かいよじれは誰の魂にもある。
でも大きな嘘をついている者には、魂に大きなねじれがあるものだ。
それは三百年という時を、死者のままで存在した際、身に着けた能力だった。
魂を直に見ることができるからこそ、得られた力。
もっと早くこの力が戻っていたらと思うが、今更言っても詮無き事だ。
それに嘘をついてないのなら、もっとこの男から話を聞き出したかった。
「それで、どうしてあなたは、今、そんな状態なの……?」
「そのまま屋敷に戻った後、あの女に呼び出されて、後ろから、首に針のようなものを刺されたんです」
なんて人なの……
他人なんて、利用したら、躊躇なく処分できるのね。
私は気を取り直し、話を続ける。
「なぜ、あなたはシェアリアの命令に従ったの?」
「ワ……ワシは、隣国で前科があります。せ……窃盗の……
当時は飢饉で、食べる物にも事欠いていたんです。本当に、魔が差したとしか……」
隣国では、一度刑務所に収監されると、左足の裏に焼き印を押される。刑期を終え、普段の生活に戻る際には目立たないが、前科の有無を確かめねばならないような状況になれば、誤魔化しがきかない。
「ある時、あの女から『庭園の噴水に落としたネックレスを拾え』と言われ……その時に前科がバレてしまって。
この国で、焼き印のことはあまり知られていないのに、あの女は知ってました。
ワシは隣国に残っている孫に仕送りをしているんです。たった一人の身内なんです。
ここは給料が安いせいで人手不足だから、多少身元がハッキリしない者でも雇ってもらえましたが……
クビになったら、もう働く場所など見つからねえんです。
だから……
だけど、こんなことになるなんて!
ああ……孫は、あの子は、この先どうなってしまうのか……
先生にも本当に申し訳ないことを……」
『この先どうなるのか』それは他人事ではない。
この後、ハリーとシェアリアは、貴族院で裁かれ、スレア伯爵家は取り潰しになるだろう。
しかしハリーはともかく、シェアリアはすでに逃げてしまっている。
一連の事件の首謀者なのに、この国を出てしまえば、罪にさえ問われないのだ。
しかも彼女は狡猾だ。逃げ仰せてしまう可能性も高い。
私は実家に戻ることになるが……
普通の離婚とは違い、こんなスキャンダルになれば、平民になっても静かに暮らすのは難しくなるだろう。修道院一択になるのだろうか。
……無理だ。
こんな気持ちを抱えたままで、修道女として、清く正しく余生を過ごすなんて、無理。
どうしても先生の仇を討ちたい。
逃げ得なんて、許さない。
私はさらに決意を固めた。
絶対にシェアリアに罪を償わせる。
目の前では、ジョンがずっと嗚咽を上げていた。
こんなに思い残しがあったのでは、この男は死後の国には行けないだろう。
このまま、ここで地縛霊になる。
かつての私のように……
私は土下座したままのジョンに、話し掛けた。
「ジョン……私は『人を殺せ』と言われて頷いたあなたを、ただ許すことはしないわ。罪滅ぼしをするつもりがあるなら、今後は私を手伝って欲しい。シェアリアを捕まえて、罰を与えるのよ」
「は、はい。お願いします、ワシもあの女だけは許せません」
「それじゃあ、まずはハリーをどうにかしましょう」
気絶した夫が突っ込んで下敷きになったテーブルや椅子に向かって、軽く念を飛ばす。
みるみる家具が宙に浮かび上がり、そのまま意識のないハリーを引っ張り出した。
三百年も怒りを溜め込んでいたら、この程度のポルターガイスト現象はお手の物だが、ジョンは真っ青だ。
「お、お、奥様、随分とお強いことで……」
「まあ、いろいろあってね」
地下室を見回し、ロープか何か、夫を縛り上げるものを探していると、男の引き攣った声がした。
「ヒッ……」
ハリーだ。目を覚ましてしまったらしく、真っ青な顔で上半身をもたげ、こちらを見詰めている。
「ば……ば……化け物!!」
彼はすぐさま起き上がり、脱兎のごとく駆け出して、情けない悲鳴を上げながら地下室の階段を上って行く。しばらくすると、外から馬を駆る足音が、遠く聞こえた。
ハリーのものだろう。
私は急いで後を追おうかと思ったが、やめた。
明日、貴族院の騎士がハリーを連行しに来た際、本人がいなければ、彼はお尋ね者扱いになる。その方がむしろ都合がいい。
それより、問題は……
「ジョン、シェアリアは何時頃逃げたの?」
「も、もう一時間以上は前ですかね。
屋敷が騒ぎになった直後に手早く荷物をまとめて、使用人の男のような格好に着替えて、伯爵家で飼っている乗馬用の馬に乗って、裏口から出て行きました。門番は吹き矢か何かで眠らされてましたよ。
何もかも手慣れていて、驚いたなんてもんじゃ……」
「どっちに逃げたか分かる?」
「いや……そうですねえ……おそらく北に向かったんじゃねえですかね。
吊り橋は馬じゃ通れませんから、追手もそこで馬を降りなきゃならねえですし」
「……!」
ハンター先生が落ちた、吊り橋……
「分かったわ、ジョン。私、今すぐ橋まで行くわ!」
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