第九話 夫の逃亡先

月光が木漏れ日のように筋を描いて、枝の隙間から差し込む、満月の夜。

凍える空気の中を外套も着ず、馬を駆って進むハリー。城下町を大急ぎで抜け、森の沿道を進む。

逃げながらも、その震えは止まらない。それは寒さのためだけではなかった。


勝手知ったるはずの自分の屋敷。その地下室にいたのは、男女の幽霊だ。

後ろを向いていた女の顔は分からなかったが、男はジョンに似ていた。


シェアリアはジョンに暇を取らせたと言っていたが、今となっては信用できない。

もしかしたら、あの女が、その手に掛けていたのかも……


そんな考えに行き当たり、ハリーは身震いした。


自分の悪事を告発したマリーゼを痛めつけるために、あの地下室に行ったはずだった。

それが、気が付けばとんでもない力で殴り飛ばされて、気を失っていたようだが……あれは誰がやったんだ?

マリーゼは確かに腹を押さえて倒れていた。


疑問に思いながら、左手で殴られた頬をそっと撫でると、鋭い痛みが走る。奥歯が何本か折れているようだ。


「くそっ! ともかくあんな化け物屋敷にはいられない。親父のところに行かなくては……」


手綱を握り直すと、馬に鞭を入れる。


「ええい! もっとキリキリ走れ!」


ハリーは領地の奥にあるスレア家の本邸に向かった。




***




「旦那様、こんなお時間にどうなさったのですか!?」


城下にあるタウンハウスと比べると、いささか小振りで見劣りする本邸の扉を叩くと、こちらに常駐している執事が訝し気に顔を出した。こちらには、まだ城からの通達は届いてないらしい。


「明日、俺は貴族院の騎士に連行される。それまでに父上の力を借りようと思ってな」


「貴族院!? な、何が起こったのですか……!?」


ハリーが事のあらましを話すと、執事は両手で頭を抱え、悲痛な叫びを上げた。


「ああ! こんな事なら、あの女を早目に排除すべきだった!

ハリー様! いいですか、よく聞いて下さい。大旦那様は、もう駄目です……」


「駄目!? どういう意味だ?」


俺はそのまま屋敷にずかずかと入り込み、父の寝室をノックした。


……が、返事がない。


「親父、聞いてくれ! 頼みがあるんだ」


勝手にドアを開けると、父親は寝台に入っていなかった。

大柄な体を小さく丸めて窓際にある揺り椅子に座り、窓を見ながら無言で椅子を揺らしている。

ずり落ちそうな分厚いひざ掛けを、直しもせずに。


「親父!? どうした? しっかりしてくれ!」


父親は虚ろな目でこちらを見上げると、絞り出すような声を上げた。


「薬……薬はもう無いのか? シェアリア、薬を……」


それはもう、かつて社交界で権勢を振るった、豪快な父親ではなかった。

体力も、生きる気力も、全てが抜け落ちて、人としての器だけが残った、そんな状態だった。

父から目を逸らしたまま、執事が恨めし気に告げる。


「私たちが知らない間に、シェアリアが大旦那様に中毒性のある薬を与えていたのです。

薬が効いている間だけは、気分が最高に良くなるらしく……

気が付けば大旦那様は自主性を失って、たまに薬を持ってくる、あの女の言うなりでした」


「そ、そんな……」


「口止めされていましたが、あの女は大旦那様とも、そういう関係だったのです」


ハリーは後頭部を金槌で殴られたような衝撃を受けた。

何もかもが間違いだったのだ。

なぜあのような女に入れ込んだのか、今となっては自分でも分からなくなっていた。


アイツさえいなければ、大人しいマリーゼを適当にあしらいながら、楽しく女遊びをして、伯爵として無難にやれていたはずだ。


保険金殺人なんて、危ない橋を渡ることもなく、腕のいい医者だって手元に置いておけた。

それなのに……これから全てが露見して、爵位を失うどころか、犯罪者として裁かれる。

こんな人生を送らずとも済んだはずなのに……


そうだ、せめて逃亡資金を得て、どこかに逃げよう。


立ち上がったハリーが屋敷の奥に行こうとすると、すかさず執事が声を掛けてきた。


「金目の物を探そうとしても無駄ですよ。この屋敷にあった宝石や貴金属類、証券証書に至るまで、シェアリアに持ち去られています。大旦那様が薬欲しさに、あの女に差し出しました」


膝からくずおれたハリーの目に絶望の色が浮かぶ。

もう何も打つ手がない……




***




翌日の夕刻、ハリーは貴族院の騎士数名に連行された。


「わざわざこんなところまで逃げて来やがって、今日は残業だぜ」


騎士の一人に押し込まれるようにして馬車に乗り込む。


「裁きは七日後だ。それまで、ここで大人しくしていろ。相部屋じゃないだけ感謝するんだな」


乱暴に放り込まれたのは、貴族院の地下にある、重犯罪を犯した者専用の牢だった。

薄汚れた牢屋は、カビ臭く、寝台がない。仕方なく、カピカピになった薄い毛布一枚に包まる。

身体が芯から冷える石造りの床に横たわり、日に一度、粥のような食事を与えられながら、七日後の裁判を待つ身となった。


誰かを粗雑に扱うことはあっても、その逆は初めてだった彼は一人、誰も訪ねてこない牢屋で号泣した。

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