第八話 それぞれの心残り
私とジョンは、ジェームスの執務室を後にした。
次はメイドのアニーに会わなくては。
「アニーをよく見かけるのは、調理室と寮だったわね? 私が直接行ってみるわ」
まず、使用人の部屋を見に行く。
さほど広くない北側の棟に、ベッドとクロゼットが二つずつ置かれた部屋が並んでいる。クロゼットの扉は開け放たれ、衣類を持ち出した形跡がある。簡素だが、私の使っていた小部屋と比べれば、贅沢に見えた。
彼女達からしたら、自分達よりもひどい場所に押し込められた夫人など、見下す気持ちにしかなれなかったのかもしれない。
人気のない部屋を次々見ていくが、アニーの気配は見当たらなかった。諦めて、厨房に向かう。
火の消えた厨房は、冷え冷えとしていた。夕食用に並べられた食器が調理台に並んでいたが、食材はあらかた持ち去られている。差し押さえの対象にならないものは、そうなるのだろう。
静まり返った空間。一見、誰もいないようだが、ほんの僅か、揺れる気配を感じた。
「アニー……いる?」
返事はない。
「アニー、私よ。マリーゼよ。
……ごめんなさいね、助けてあげられなくて」
しばしの沈黙を断ち、ソプラノの声が流れた。
「そんな! 私の方こそ……奥様! よくぞご無事で……」
フライパンが並べ掛けられた壁の手前に、スーッとゆっくり輪郭が形作られる。
童顔で、長い金髪を後ろで一つに束ねて三つ編みにし、お仕着せの袖を肘まで捲り上げている、そのいで立ち。
透き通ってはいても、間違いなくアニーのものだ。
「あなた、どうしてこんな目に遭ったの? まさか、私にまともな食べ物を運んでいたから……」
駆け寄って、アニーに触れようと伸ばした自分の手が、空を切る。
生身では彼女に触れることができないらしい。
「いえ、私は、旦那様とシェアリア様……いえ、シェアリアの話を立ち聞きしてしまったのです。
その……奥様を殺害する計画を……」
アニーがこの屋敷から消えたのは、もう一年以上前だ。
そんな頃から、彼らは私の命をお金に換えるつもりでいたのね……
「わ、私は、他のメイド達からちょっと嫌がらせを受けてまして、その時は本来だったら奥様用の部屋……実際にはあの人が使っていた部屋の、クロゼットに閉じ込められてしまったのです。二人がいなくなるまで息を潜めて待っていたら、急に旦那様がそういう話を始めて……全て聞いてしまいました。
しばらくして、旦那様が部屋を出ていった気配がした後、急にクロゼットの扉が勢いよく開いて……
恐ろしい形相のあの人が、目の前に立っていました。
そして問答無用で、注射のようなものを私の首に突き立てたんです」
ブルッと身を震わせるアニー。その透き通る影を、外側から抱きかかえるようなつもりで、両腕で包んだ。
「怖かったわね……あの女はここを出て行ったから、もう大丈夫」
「お、奥様……」
瞳を洗い流すように、ほろほろ涙を零すアニー。
ジョンの魂には孫への心配が、ジェームスの魂には、自分が支えてきた伯爵家への献身を台無しにされた怒りが、それぞれ心残りとして纏わりついていたけれど……
アニーから滲み出るのは恐怖心だけだ。
自分が地縛霊をしていた三百年間の記憶。それを全て思い出した訳ではない。でも、いくらかは思い出せる。
確か、心残りが無くなった霊は、輪廻の輪に戻り、生まれ変わることができていた。
アニーもこんな姿でここに留まるのではなく、新しい人生を送ってもらえるのでは……
「あなたはまだ若くて何の罪もなかったのに……ねえ、何か、心残りはない?
何でもかんでも叶えてあげるのは無理だけれど、あなたの為に何か、してあげられることはないかしら……?」
「私は……とくに何かして欲しいとは思いません。
ただ……奥様のお役に立てないまま、命を失ったのが悔やまれます。
それより奥様……何だか、お変わりになられましたね?
以前の奥様は大人しく、ハッキリものを仰る方ではなかったのに……とても強くなられたように感じます」
「そうね……私は抗うことを覚えたの。
もうやられっぱなしで我慢なんてしない。大事な人を守るために動ける自分になったのよ」
「だったら、奥様。私ももうしばらくこの世界に残って、奥様の役に立てないでしょうか?
私もされるがままの人生だったから……死後の世界に旅立つ前に、自分を変えてみたいんです」
「……アニー、これを見て」
私はアニーの身体に回していた両手を下ろして、一歩後ろに下がる。
大きく吸った息を止めて、ダン!と大きく片足を踏み鳴らした。
私の身体から、霊体が上に向かって、スーッと抜け出す。
やはり呼吸を止めて衝撃を受けると、身体から離れられるようだ。
「えっ!? お、奥様!?」
「アニー、私は生きているけれど、あなたと同じ状態になれるの。
夫のハリーはいずれ法で裁かれるはず。でもシェアリアは逃亡して、行方が分からない。
だけど、必ず罰するわ……この力で。
あなたも手伝ってくれる?」
宙に浮き、月の光を通す、私の魂だけの姿を、しばらく呆然と見上げていたアニーは……
やがて口元を真一文字に引き結び、頷いた。
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