病気、貸します
青樹空良
病気、貸します
「ううー、明日会社行きたくない……」
声に出してしまえば、その気持ちが更に膨れあがる。
「というか、明日も明後日もその後も! もう行きたくない!!」
ベッドの上で手足をばたばたさせる。
仕事自体は嫌いじゃない。問題なのは人間関係の方だ。
ろくに説明もしないで出来なかったらすぐに私のせいにする上司。失敗なんて部下の女に押しつければなんとかなるとか絶対思っている。
今日も上司の説明不足のせいでミスをしたのに、上には私のやらかしたことだと言い訳し、更には仕事の出来ないヤツだとなじられた。
「あー! ムカつく! ムカつく!」
お前みたいに使えないヤツはどこに行ってもダメだとか、そんな余計なことまで言われた。どうしてアイツにそこまで言われなければいけないのかわからない。しかも、言われたのは今回が初めてじゃない。
こんな会社やめてやる! と何度も思った。
「……けど、このご時世だもんね」
せっかく正社員として働けているのだ。一時の感情にまかせて会社を辞めたら、次が見つかるかわからない。むしろ、見つからない可能性の方が高い。
上司が言うとおり、本当にどこに行っても使えないと言われることだってあるかもしれない。
そう思ったら、会社を辞める決心もつかない。こんな風に悩んでいるのは今日だけに限ったことじゃない。
私は大きくため息を吐く。
「はぁ、せめて明日だけでも休めたらな。いっそのこと、熱とか出ないかな……。ちょっとならともかく、ふらふらで立ち上がれなかったらさすがに行けないって言えるし。もう、いっそのこと……」
病気にでもなってしまえば強制的に休めるのに、と思う。会社に行けないくらいのやつ。残念なことに、身体には異常はなく健康なのだが。
仮病でも使えばいいのではないかとも思うのだが、私は自分で言うのもなんだが割と真面目な性格だ。子どもの頃から仮病で休んだことは一度も無い。
「大体、そんな勇気も無いってことなんだけどね……」
自分の性格を恨む。
◇ ◇ ◇
早朝にアパートのチャイムが鳴った。最初は何が来たのかわからなくて、こんな時間になんなんだと思ってしまった。なにしろ、いつも会社に行く為に家を出る時間よりずっと早い。
いつもの宅配の人とは全然違う人から渡された荷物を前に、私はちょっと信じられない気持ちでいた。
「昨日寝る前に頼んだんだっけ……。寝ぼけてたと思ってたんだけど、本当に届いたの?」
ぶつぶつ呟きながら、箱を開くと私が頼んだ物はなんだか厳重に緩衝材に包まれていた。
「なんでこんなに厳重?」
文句を言いつつ、包みをめくっていく。出てきたのは。
『レンタルシック』
そう書かれたラベルを巻き付けた缶だった。しかも、病院にある薬品なんかに貼ってあるような飾りっ気のないラベルだ。
「いやいやいや」
昨日の寝ぼけていた自分の思考を疑う。なんでこんな物を買ってしまったんだ。
これは、あれだ。
どこかの観光地にあるとか聞いたことがある霧の缶詰とかそういう類いの物に違いない。
一応説明書が入っていた。
「ふんふん、何々?」
私が申し込んだのは病気の一日レンタルで、会社を休める程度のものだ。別にどこかに行きたいわけじゃなくて、家で寝込んでいてもいい。
説明書には私が申し込んだ内容も印字されていた。
そういえば昨日、そんなことを入力したっけ。
どうやら私はぼんやりとした頭でネットサーフィンをするうちに、こんな怪しい物に手を出していたらしい。
仮病なんか使えないと思っているうちに本当に一日病気になれる方法はないかと検索していたのは覚えている。
それで、『一日限定で病気、貸します』などと書いてある胡散臭いサイトに辿り着き勢いのままポチってしまったのだった。もちろん、半信半疑ではあったけど。
『どうしても一日だけ病気になりたいあなたに』
『どんなことをしても休みたいとき、ありませんか?』
なんてあおり文句が並んでいたら、気になるに決まっている。
私は説明書を読む。
「自動返却システム? 一日経てば症状は消えるのでご安心ください? いや、こんなの嘘でしょ。どうやってこんなんに病気が入ってるっての」
馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。
いくら仕事に行きたくないからと、おかしな物をレンタルしてしまったものだ。
とはいえ、このまま開けずにいるというのもなんだかもったいない。一応カードで支払いをした記憶もある。
「一応開けてみようかな……。さすがに浦島太郎みたいにはならないだろうし。それに、病は気からって言うしね。思い込みから熱とか出たりして。あ、そういうのを狙ってるのかも?」
パシュッと気持ちのいい音がして、缶の蓋が開く。
私は中をのぞき込んだ。
「ん? 空?」
中には何も入っていなかった。がっかりだ。
そんな感情が出てくるということは、何か入っていることを少しは期待していたらしい。
「詐欺かあ」
呟いたときだった。
「え?」
ぐらりと目眩がした。立っていられない。それと、寒気。さっきまではなんともなかったのに。呼吸まで苦しい。
手にも力が入らなくて、しっかりと持っていたはずの缶を落としてしまう。缶が床に当たって耳障りな音を立てる。そんなに大きな音じゃないはずなのに、頭に響く。不快だ。
「……なに、これ」
声までもが掠れる。その場で倒れ込みそうになる。せめて、ベッドだ。ベッドで横にならなくちゃ。それなのに、こんな狭い部屋の中でベッドまでが遠い。
ふらふらと動かない足でベッドまで辿り着いた私は、頭と足の方向なんてめちゃくちゃに身体を投げた。そんなのどうでもよかった。いつもならめちゃくちゃ気にするのに。今はすぐにでも横になりたかった。
「おか、しい。や、ばい」
身体が動かない。
これはさすがに会社に電話しなくては。仮病どころじゃない。どこかで何かうつされでもしただろうか。病気なんて久しぶりだ。学生の頃以来かもしれない。
這いずってでも行くべきか。一瞬考えた。休んだらあの上司に何を言われるかわからない。それに、仕事だって山積みだ。一日休んだだけで回らなくなることは目に見えている。
だけど、だけど……。無理だ。
やたらと身体に熱がこもっていて熱い。
病気って、こんなに辛いものだったっけ。忘れていた。
「スマホ……どこ……」
視界までぼやけている。目を凝らすだけで疲れる。焦点が合わない。
あった。机の上だ。気が遠くなるほど遠い。この状態では電車にすら乗れない。それどころか、駅まで辿り着けるかどうかさえ怪しい。
やっとの思いで、スマホまで辿り着く。それでも画面を開くことも出来なくて、しばらくぼんやりとしていることしか出来なかった。そうこうしているうちに始業時間が迫っていた。
私は覚悟を決めて会社へと電話を掛けた。せめて、あの上司が出ないようにと祈りながら。それなのに、聞こえてきたのは一番聞きたくない声だった。余計に体調が悪くなりそうだった。
喋るのさえ大変だが、私はなんとか体調不良で休むことを伝えた。もちろん、朦朧としながら急に休むことを謝罪した。仕事に穴を開けるのはさすがに心が咎める。ぼんやりとしながら電話だとわかっていながら、嫌な上司にでも頭を下げてしまう。
さすがに、あの上司でもわかってくれるのではないかと、私は期待していたらしい。相手だって人間なのだから。
それなのに、
「こんな時に休むなんて止めてよ。忙しいんだから、全く。明日には来れるんだろうね?」
私は耳を疑った。
もちろん、いきなり休む私も悪い。だが、こういうときくらいお大事に、と言うべきではないのだろうか。社会人何年やっているんだ。
「申し訳ありません」
ここまで言われてどうしてこちらが謝らなければならないのかと怒りが湧いてくるが、とりあえず謝罪の言葉は口にしておく。
「はぁ」
電話を切るとまた一気に熱が上がった気がして倒れ込む。
明日どうなるかなんてわからない。こんなに辛いのに、明日になって急に治ることなんてあるだろうか。
怒りと不安でいっぱいになる。
「寝よう……」
まずはベッドに戻らなくては。そう思ってなんとかベッドに潜り込みはした。
だというのに。寝ていなければ、と思うのにだるくて眠りにつくことすら出来ない。息が荒い。熱い。目がしょぼしょぼして、開けているのすら辛い。身体が痛い。頭が痛い。
誰なんだ。病気にでもなって会社を休みたいと思ったヤツは。
病院。
そんな単語も頭に浮かんだが、動ける気すらしない。救急車を呼んでいいのかもわからない。
一日安静にして寝ていれば治ってくれるだろうか。
いつもが健康体だからわからないし、正常な判断が出来ているとも思えない。
しばらくうなされた後、
「水……」
今度は異常に喉が渇く。
ふらりとキッチンに向かおうとしたとき、何かに躓いた。
「うわっ」
部屋の中はそんなに汚くしていたつもりはないのに。
足元を見ると、あの缶が転がっていた。
あまりの辛さに存在を忘れていた。
レンタルシック。
まるで信じていなかった。さっきまでは。
中身は空だったはずだ。
本当に病気が入っていた?
さっき見た説明書。もし、この缶が本物だとしたら一日経てば症状は消えるはずで……。
「本、物? まさかね」
とりあえず、私は水を飲んでまたベッドで横になることにしたのだった。眠れるかどうかはともかくとして。
◇ ◇ ◇
「……嘘」
次の日の朝。
地獄のように続くかと思っていた症状は、文字通り嘘のように消えていた。
普段と同じ、普通の朝だった。
あっけないほど普通だった。
熱もなく、身体のだるさも痛みもない。目眩もしない。
世界がやけにくっきり、明るく見えた。
「世界って、こんなに素晴らしかったっけ……」
思わず呟いてしまうくらい、世界は輝いて見えた。
「……健康って、すごい」
何か。よくわからないけど何かに感謝すらしたくなる。
◇ ◇ ◇
「昨日はご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「全く、勝手に休んでもらっちゃ困るよ。今日は昨日の分もしっかり働いてもらうからね」
会社に行くと、上司からは大体予想通りのことを言われた。昨日の電話から考えると、どうせろくなことを言われないとは思っていたのでショックは小さい。実際に言われると気持ちのいいものではないが。病み上がりの人間に向ける言葉とは思えない。
「というかさ、元気そうじゃない? 本当に病気だったの?」
さすがにこれはカチンときた。
だけど、言い返してもそれこそろくなことにならないに決まっているので、笑って流すことにする。昨日の辛さをお前に味わわせてやりたい、と心の中では思いながら席に戻る。
あれで仮病とか言われたら本気で殴り倒したくなる。
だけど、我慢だ。
仮病というのもあながち間違いではないのだが、あれはそういう次元を越えていた。
それに、もう私は決めたんだ。
帰ったら退職願を書く。朝、すでに書き方について調べていた。少し悩んでいた。だけど、今のやりとりでもう腹は決まった。
こんなことを続けていたら本当に病気になる。
昨日、熱と痛みにうなされながら思った。自分の中から来るもの、つまり病気からは逃げられない。どんなに忘れようとしても、どんなに逃げようとしても、どんなに振り切ろうとしても、病気は離れてはくれない。自分の意思でどうにか出来るものじゃない。
だけど、私の今置かれた状況は違う。自分の意思で変えられる。自分の意思でどうにか出来ることだったんだ。
だったら、少しでもいい方向へ行こう。
ここを辞めたら次がないとか、我慢していた方が結果的にはマシなんじゃないかとか、最初から諦めるんじゃなくて、行動してみよう。
もっと嫌なことが待っているかもしれないけれど、もしかしたら、今よりまともな場所に行けるかもしれない。行動を起こさなければ何もわからないし、変わらない。
まずは文句も付けようもないきちんとした形式で完全無欠な退職願を書いて上司に叩きつけてやろう。
どうやら、あのレンタルは本物だったらしい。あんな辛い思いをするのならクレームの一つでも付けてやろうかと思ったが、自分で申し込んだものだから文句を言う筋合いはないのだと思い直した。
それに、少しだけ感謝している。ひどい目に遭って感謝しているというのもおかしいけれど。
もしも昨日のことが無かったら、きっと私にはこんな決断はできなかったから。
◇ ◇ ◇
「今回も無事に返却されたようですね」
「はい、たった一日でも楽に過ごせるならと思うのですが、やはり病を返却された姿を見るのは心が痛みますね」
病院の一室で、二人の医師が話していた。
「けれど、ほんの少しだったとしても患者様に病気に煩わされない時間を作って差し上げることが出来るのは大切なことだと思います。本人もご家族と本当に久しぶりに楽しい時間を過ごすことが出来たとおっしゃっておられましたし」
「そうですね。一人につき一度、しかも一日しか使えない上に、誰かに肩代わりしてもらうしかないというのはどうかと思いましたが、このレンタルサービスを始めてみてよかったですね。仮病として使われる方も、納得の上のことですから。どちらも幸せならいいことです」
「最初は借り手なんかいないかと不安だったのですが、需要もなかなかにありますしね。皆さん、色々と事情があるのでしょう」
そう言って、二人の医師は顔を見合わせて微笑んだ。
病気、貸します 青樹空良 @aoki-akira
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