2 幻獣守のオルツィ
やわらかくて温かい。ずっと忘れていた感覚だ。あまりに過酷な旅をしたので、もう一生縁のないものと思っていた。
寝具は清潔な木綿で、体には柔らかな毛織物がかけられている。上体を起こして呆けていると、入り口で三、四歳の子どもがじっとこちらを見つめているのと目が合った。声をかけようとすると、一目散に外へ飛び出していってしまう。
見回すと、丸太を組んだ十二角形の骨組みに、天井から床まで
子どもと入れ替わりに、不織布を開けて入り口から誰か来た。樹延のそばまで来ると、杯に水を入れて手渡す。
「気がついてよかった。気分はどう? どこか痛いところはある?」
あの時追われていた、蜜色の髪の女人だ。水を飲んで答えようとして、人と会話をするのがとても久しぶりだと気付く。
「平気です。あなたは、弓で射られたのではありませんか」
「お尻をかすってね。手当で丸出しにされて、もうやんなっちゃうわ」
衣の下から張り出す尻をさすってみせ、苦笑した。蜜色の髪色に、目鼻立ちの骨格がはっきりしている。書物の文字でしか目にしたことがない、深い青色の瞳に思わず見とれてしまった。それに肌は脱色したような白さだ。北の果ての異民族なのだろう。
「助けてくれてありがとう。わたしはオルツィ。あなたは?」
「
「そうよ。樹延さんは
「はい」
「いくつか聞きたいことがあるのだけど、歩ける?」
寝台の下には革製の履物が用意されていた。見れば着衣も替えられている。立ち上がるとふらついてしまい、オルツィに支えられた。しっかりと骨太な体つきで、森で見た身のこなしがとても軽かったのを思い出す。
外に出ると眩しくて、日光に負けそうだった。
「私はどのくらい眠っていたんでしょうか」
「丸二日ね。衰弱しているけど、怪我も病もないみたいだし、食べれば元気になるわ。ここでちょっと待ってね」
オルツィが入っていった建物は、ずっと大きい。確かこれは、ゲルやユルトと呼ばれる北方の遊牧民が使う移動式の住居だ。丸太を組み、円錐形の屋根まで不織布で覆われた建物を、遊牧民たちはわずか二、三時間で解体、組立てるという。
「いいわ。入って」
中は広くて暖かい。寝台や台所がないので住居ではなさそうだが、同じように中央に炉があり、奥には四十歳くらいの男が床の
両隣に座る二人の男たちからは、少なくとも友好的ではない視線を向けられた。髪色は三者三様だが一様に肌が白く、骨格も大きい異民族だ。
先に入っていたオルツィに連れられ、樹延は入り口近くに座る。
「樹延殿。まずは、オルツィを助けてくれたことに礼を言う。俺は村長のトノウだ」
「私こそ、暖かい屋根の下で休ませてくださり感謝します」
「君は秦の出身か」
「はい。
「この剣は、どこで手に入れたものか」
トノウの言葉に、両隣の二人の男のうち若い方が剣を床に置いた。オルツィを追う男を樹延が斬り伏せた剣だ。
「
「うむ。実はこれは、我々のものなのだ。君のはこっちだ」
若者がもう一振の剣を置く。並んだ二つは、鞘ごしらえから柄に至るまでうり二つだが、後から出された方には見覚えのある傷や汚れがある。トノウがうなずくと、若者が両方の剣を抜いた。
オルツィも身を乗り出しまじまじと見て、「二つとも全く同じだわ」と呟いた。
刃の元には『受命于天既壽永昌』(天命を受け、年永くして永昌ならん)と刻印されている。即ちこの世にただ一つ、始皇帝専用の
始皇帝から下賜された剣が二振り。なぜこの
「我々はこれを友好の証として秦より贈られたのだ。一振は我々が、もう一振を始皇帝の名代として
蒙恬は北方民族の
「軍事目的の
「聡いな。我々は幻獣
「幻獣、とは」
「バイカルの森と湖が独自に育んだ生命体だ。ここの住民には信仰の対象でもある。我々にも聞かせてくれ。蒙恬殿ではなく、見たところ武人ですらない君が、なぜたった一人でこの地へやって来たのか」
にわかに部屋の中が緊張し、若者が居住まいを正す。オルツィが隣でこちらを見ているのを感じ、樹延は口を開いた。
「次期皇帝と目されていた
「なるほど。これに書かれている通りだな」
トノウは懐から畳んだ布を取り出した。それは涙を拭けと蒙恬から手渡され、無意識に懐に入れていた布だ。着替えさせられた時に渡ったのだろう。
まさかあの布にそんなことが書かれていたとは。懐にしまったまま忘れ、一度も開こうとしなかった己の迂闊さに顔から火が出そうだ。いや
「我々も事情を抱えていてな。だが君が蒙恬殿の配下なのは本当のようだ。養生するといい」
トノウは立ち上がると、すれ違いざまに樹延の肩に手を置き、ユルトを後にした。両隣の二名はまだ訝し気な視線をしていたが、何も言わず後に続く。
残された樹延の頭の中は混乱だらけだった。
一体この地に何があるのか。蒙恬は、いや始皇帝はなぜ友好関係を築いたのか。幻獣とはどんな特別な獣なのか。抱えている事情とは何だ。
「樹延さん、戻りましょう」
何一つ分からぬままだが、オルツィに言われるまま元のユルトへ戻った。中央の炉に、さっきまではなかった鍋がかけられ、いい匂いが漂っている。
「何日も食べてないんでしょう? 少しずつね」
羊の肉と青菜が入った
思わずかきこんでしまうと、すぐに胃が痛くなり苦しむ羽目になった。
「ほら、少しずつにしないと。横になる?」
一か月以上にわたる過酷な旅で胃袋は縮小し、最低限の機能を果たすのみに変化したようだ。情けないがオルツィに支えられながら寝台へ転がり、横向きに膝を曲げて丸くなる。
どうやら、色々知るにもまずは体を回復させねばならないようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます